〜平成23年度〜

 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

   第2回 日向国・諸県郡・都城
 

         都城之二 】

位置 概       要 備  考
<旧跡之二>
島津御荘の余 ○島津の異議
 島津という名称は続日本紀の宝亀6年(775)正月条に「無位の島津朝臣小松を本位の従五位下の復す」とあるのが最初だが、のちの『姓氏録』には島津姓はなく、おそらく津島姓を書き誤ったものだろう。津島朝臣は大中臣朝臣と同祖に由来する姓で、上の島津より早い孝謙天皇の天平勝宝5年(753)に「斎宮大神司、正七位下津島朝臣小松に従五位下を授ける」とあり、この津島朝臣小松を島津朝臣小松としてしまったに違いない。
 島津の名称は<旧跡之一>で述べたように、書紀の天下り段の浮渚(うきしま)から名付けられたものである。
○島津院並びに荘衙
 「院」とは俗にいう「役所」のことで、桓武天皇の時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14=795年)が、由来はそこにある。
 院には司(役人)を置くが、それを「院司」といった。島津御荘が開かれたのは万寿3年(1026)だが、古代の院はその230年も前に置かれていた。島津院は古い名称である。
 平季基は島津院の周辺を開発して藤原関白家に寄進し、そこに荘衙を建設したはずで、島津院にちなんで「島津荘衙」とされ、荘園全体が三州に広まったのちも「島津御荘」の名で呼ばれるようになった。
 図田帳に登場する「島津院300町」とは桓武天皇のころ最初に置かれた「島津院」の方域を指している。
○島津本荘並びに寄郡
 三州の総田面積・約15000町のうち、荘衙にだけ諸貢租を支払えばいいものを「一円荘」といい、日向国内に2020町、薩摩国内に635町、大隅国内に760町、合計3415町が本荘すなわち一円荘である。
 また国衙と荘衙の両方に諸貢租を収めるものを「寄郡」といい、三州全体で4490町ほどある。「一円荘」と「寄郡」合計は7900町余で、三州総田数の半分余りを占めている。
 その他の田は公領と鹿児島正八幡宮領が大半を占める。
○没官御領
 諸国に散らばる平家領で平家滅亡後に鎌倉幕府に管轄させた物を「もっかんごりょう」と言った。400町余り。
○新属の寄郡
 薩摩の伊佐郡・日置北郷・日置南郷等の185町は平重澄が郡司として管轄していたが、のち阿多郡の本地頭平四郎宣澄に管轄が移った。しかし公領としては貢租の支弁ができず、島津御荘に属することになった。
○地頭・領家の分治
 阿多郡地頭の平四郎宣澄は平家の与党だったため、幕府は得仏公(初代忠久)に命じて宣澄を解任し、その所領230町余りを没官領とし島津御荘の寄郡とした。その地を分けて領家は領家職を置き、島津家は代官を置いて弁務に当たった。この時に鮫島四郎宗家を阿多地頭に補任している。
○島津荘の税法
 元久元年(1204)、荘園の差配をする代官(地頭)の取り分を本荘(一円荘)においては一反当たり1斗とし、寄郡においては一反当たり5升と領家(近衛家)は鎌倉に通達した。
 地頭についてはこの他に薩摩・大隅に各30町、日向に40町の田をあてがい、一反当たり1石2斗を支給するようにした。
○薩隅日図田帳
 教書を下し、九州の守護人をして在庁の有職者を召し出し、それぞれの国の田数7、及び地頭・領主を記し出さしめた。これが図田帳である。
○島津荘の水門(みなと)
 上方はじめ諸方への運送の要港は志布志港であった。
○屋形石
 安久村にある。高さ5尺ばかり。梵字が刻まれている。ここは平季基の居所だった場所のようである。
続日本紀…日本書紀に続く編年体の正式な史書。文武天皇から桓武天皇までを描く。延暦16(797)年、菅野真道らが選進した。
姓氏録…正式には『新撰姓氏録』。弘仁6(815)年、萬多親王らが編集した。畿内各地の姓氏を神別・皇別・諸蕃に分類してある。
一円荘…ここに属する民・田は国衙に対しては支弁せず、荘園領主(近衛家)にだけ収める。しかも貢租率は低い。
寄郡…よせごおり又はよりごおり。既存の公民・公田で新たに荘園に属したもの。

















図田帳…建久の図田帳。建久8年に作成された。三州の中世史研究には欠かせない第一級の資料である。
祝吉並びに
 堀之内御所
祝吉御所は領主館の北東20町
堀之内御所は東南へ1里。
 祝吉御所は郡本村祝吉にある。この地は遠い昔、島津と呼んだ。忠久公は出水郡山門院からこちらへ移り、御所を建てた所という
 堀之内御所は祝吉御所の南方1里。ともに忠久公のゆかりの御所であるが、祝吉御所は今でも形跡が残っている。
 惟宗民部大輔広言は日向の国司になって赴任し、島津に居住し島津殿と称したとされる。養子となった忠久公もまたその跡に住み、同じく島津殿と称したという。ただし、それが祝吉御所かどうかは未詳である。
「安国寺言上状」「山田聖栄系図目安」「御当家由来」「古今戦」などの古記に、「日向国島津の御荘に御居住あり」など必ず記され、地元の伝承でも「得仏公(忠久)、まず堀之内御所に移り、その後祝吉御所に移られた」という。
という・とされる…すべて断定はしていない。初代忠久が島津院に来住したという文書はないのであろう。
都 城 領主館の西南西へ8町ほど  五十町分村にある。一名、鶴丸城。北郷氏の居城である。北郷氏の始祖は島津貞久の6子島津尾張守資忠で、筑前の金隈の役に功があったため、文和元年(1352)諸県郡北郷300町をあてがわれたのが、由緒である。嗣子義久は永和元年(1375)に城を作り居住し、都城と名付けた。
 しかし、翌永和2年(1376)、今川満範が伊東氏・相良氏とともに城を攻めたため、危いところを大隅大姶良城を居城としていた島津氏久の援軍で追い払った。
 文禄4(1595)年のころ、36000石を称したが、太閤検地により68000石と確定した。
 ところが、伊集院忠棟が太閤に取り入り、都城を私領としてしまった。その時の石高は8万石であった。北郷氏はその時12代忠能であったが、祁答院37000石に左遷されることになった。
 慶長4年(1599)、伊集院忠棟の領地替えを策謀と見た島津忠恒(後の18代家久)が忠棟を伏見城で誅殺し、以後、1年有余にわたる「庄内の乱」が勃発した。翌年の2月29日、忠棟の嫡子忠真は徳川家康の説得策により矛を収め、頴娃郡1万石に落とされ左遷。
 北郷忠能は旧に復し、41000石で江戸時代を迎えることになった。元和元年「一国一城令」により、廃城、その後領主館に居住した。また姓を改め島津氏の一族となった。
都城…現在、歴史資料館が建っている場所が本丸跡。。
薩摩迫 領主館の北西2里余 安永村、中霧島にある。北郷氏の始祖・資忠が最初に居宅を構えた所である。 北郷資忠…島津氏第4代忠宗の6男(上述)。
梅北城 領主館の南南西1里  梅北村益貫にある。島津の荘の鼻祖・平季基の後裔は代々梅北氏を名乗った。
 貞和のころ(1345年〜)、足利勢の畠山禮部(直顕)が領有し、明応から天文にかけては(1492年〜1532年)志布志城主の新納氏の所領となった。
安永城 領主館の北2里  安永村の前川内にある。一名、鶴翼城。北郷氏第5代持久、第6代敏久が築城し居住した。
○安永諸戦場  中霧島  諏訪山風呂谷(曽山次十郎の戦死地。年16、容貌秀麗にして知らざる者無しという。)
山田城 領主館の北北西3里  上中原村山田にある。往古は荒神山といった。北原氏の所領であった。北郷氏第8代忠相が攻め取った。慶長4年(1599)の庄内の乱のとき、伊集院忠真の将・長崎休兵衛が守っていたが、島津忠豊・新納忠元・入来院重時らの攻勢により落城した。
野々美谷城 領主館の北北西2里  野々美谷村にある。南北朝の頃、球磨の相良氏の居城となるが、応永元年(1394)、島津第7代元久は夜襲してこれを落とした。樺山音久を守将とした。その5代目長久の大永元年(1521)、その子広久とともに国分の小浜に移封となったので、その後は北郷氏の管下に入ったが、大永3年(1523)には伊東氏と相良氏の混合軍に攻められ、一時伊東氏の支配下に置かれる。
 庄内の乱の時も、伊集院忠真側の守将により制圧されたことがあった。
十萬寺原 領主館の北北西2里  野々谷村にある。庄内の乱の慶長4年(1599)9月10日、島津忠恒(のち18代家久=慈眼公)は諸軍を率いて十萬寺原に陣を張った。北郷三久が先鋒となり祁答院の軍を率いて戦う。伊集院忠真側からは都城兵・野々美谷城兵・安永城兵・梶山城兵・勝岡城兵など繰り出すが、平田増宗・川田大膳・上井兼政・肝付兼篤・敷根頼豊らの援兵により有利に戦いを進めた。
 伊集院軍は次第に本拠の山城へと退却し、それを追った北郷三久はついに野々美谷城へ攻め入り、首級8千余を挙げるという大勝利を収めた。
志和池城 領主館の北
2里
 水流村にある。一名、鶴丸城。北郷氏代々の居城である。
 しかし、天文年中(1532〜55年)に、北原氏に攻め取られた。天文11年(1542)、北郷氏第8代忠相は伊東氏と北原氏の連合軍を破り、守将の白坂下総守はじめ5百余人を斬り、取り返した。
 庄内の乱では島津忠恒(家久)の援軍を受け、慶長5年(1600)2月には城を明け渡させることに成功した。
梶山城 領主館の東北東
2里余
 石寺村にある。往古、樺山氏が築いたという。応永元年(1394)、今川貞兼軍が攻めてきたが、都城主・北郷義久父子がこれと戦うも、形勢不利となる。しかし大隅の島津元久(第7代=恕翁公)の援軍で今川勢は引き払った。その後、梶山城は豊州家島津氏の所領となった。天文年間のころからは北郷忠相が支配するようになった。
明人何欽吉墓 領主館の北北西9町  宮丸村寂心院の境内にある。何欽吉は明国広東潮州海県の人で、明末・清初の混乱を避けて大隅の内之浦に来航した。医道を生業としたが和人参の効能が知られていなかったので梶山の山中に見付け出し、世に広めた。俗に薩摩人参と言う。
 欽吉の墓の正面には「業岐山心恒居士何欽吉墓」と刻まれ、左右に「生於大明広東海県、逝於万治元年9月29日」と記されている。
 寂心院の東となりは唐人町といい、帰化の唐人が多く居住していた所である。
何欽吉…カ・キンキチと読むか。
 

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