『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座

    第5回 日向国 諸県郡 倉岡郷・穆佐郷・高原郷 (H23.9.11)

      
    
倉岡郷・・・倉岡は大淀川中流。本流へ綾川が流れ込み、両河川にはさまれた部分に所在する。             地頭館は現在の倉岡神社(旧池尻城)の下にあった。

位 置 概       要 備   考
<山 水」>
去 川 地頭館の南 上流は高岡郷。川口番所の下で綾川を合流。当郷を8町ばかり流れ、延岡領宮崎郡に入り、河口は那珂郡赤江津である。長さ23里余り、鹿児島藩内では川内川と並ぶ大河である。 ・延岡領…日向国内の大名では延岡藩だけが譜代、あとは外様であり、幕府の外様監視策で譜代の飛び地がここにあった。
綾 川 須木郷から出て当郷の川口番所のある簗瀬に注ぐ。
<居 処>
川口番所 地頭館の東北15町 本流と綾川の合流地点にあり、鹿児島城下から吏員を派遣して船の出入りを取り締まっている。
<神 社」>
図師大明神社 地頭館の西8町 高岡村の花見・城ヶ峯にある。祭神はアメノホヒ命・コトシロヌシ命。往古より当郷の宗廟であった。 ・アメノホヒは高天原系、コトシロヌシは地祇系で出自が違う。
神社合記 ○白髭大明神社…有田村にある。上古は白糸大明神と言われた。 ○熊野三所大鳥尾権現社…倉岡村簗瀬にある。
以上、両社とも伊東氏の建立にかかる。
<仏 寺>
常楽山医王院
  郡山寺
地頭館の東南2町 池尻城下にある。鹿児島大乗院の末で、真言宗。当郷の祈願所になっている。
池王山龍泉寺 地頭館の北11町 倉岡村にある。高岡郷の龍福寺の末で、曹洞宗。初め天台宗だったが後に改宗された。当郷の菩提所である。
<旧 跡>
池尻城 地頭館の裏山 城の西南は去川(大淀川本流)に臨み、岩がちである。対岸は延岡藩領になっている。
 応永年間(1394〜1428)に義天公(島津家8代久豊)が隣の穆佐城に居城していた時、公はこの池尻城・白糸城・細江城の三城を築いた。途中、伊東氏領になったり変転したが、貫明公(島津家16代義久)時代からは島津領となった。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で島津氏の属する西軍が敗れたことを知った伊東氏家臣で清武城主だった稲津祐信が攻めて来たが、当郷の地頭・丹生備前守がよくこれを守り、本府からの救援もあって翌年(1601)の5月には終戦した。
関ヶ原合戦…慶長5(1600)年9月15日に勃発。初め西軍に付くかと見えた小早川秀秋の東軍への寝返りで勝敗は一日で決着した。この時、西軍だった島津義弘が、敵中突破して堺から薩摩へ逃げ帰ったことは有名な話である。
白糸城 地頭館の東南11町 有田村にある。北は去川に臨む。応永年間に義天公が築城したことは上で触れた。
窟居の址 当郷では処々の岡に穴を穿った跡が残っている。大きなものは幅7尺、高さ5尺、深さ1丈もあり、「土蜘蛛の住居跡」などと言われている。「倉岡」という地名はこれによるという。
丹生備前の墓 地頭館の西5町 倉岡村駒作にある。慶長5〜6年の伊東方稲津祐信の反乱をよく防いだ倉岡地頭・丹生備前を村人は今でも徳として崇敬している。
<叢 談>
瓜生野 「うりうの」。『倭名類聚抄』(源順著。百科全書)の郡郷一覧に「諸県郡・瓜生郷」があるが、ここがまさにそれだろう。むかしは諸県郡に属していたが、今は宮崎郡である。

  

      穆佐郷・・・「むかさごう」。穆佐院の内にある。地頭館は小山田村(現在の穆佐小学校周辺)
              にあった。
位 置 概      要 備  考
<山 水>
諸山合記 最高所は膽濃嶽(胆濃岳)。高房峯・重之尾などが続く。
去 川 大淀川。当郷で川幅が4、50間(7,80b)あり、川船が行き来する。
<居 処>
衢(つじ)番所 地頭館の東40間余 小山田村の中心部にある。義天公(8代久豊)が穆佐城に居住の頃、令を下して設置した制度で、郷士5人が交代で詰め、いったん急があれば法螺貝を吹いて郷内に知らせるというものである。 ・江戸時代に「5人番」という制度があったが、これが嚆矢かもしれない。
<神 社>
宇佐八幡宮 地頭館の西11町 小山田村にある。祭神は豊前の宇佐八幡と同じ。勧請年月など詳細は不明。
稲荷大明神社 地頭館の西1町半 穆佐城の址にある。応永年間に義天公(8代久豊)が勧請し建立した。 ・応永年間…1394年から1428年。
若宮八幡宮 地頭館の東15町 蔵永村にある。祭神は鹿児島本府の若宮八幡と同じ。義天公(8代久豊)が穆佐城に在城の時、大岳公(島津家9代忠国)が生まれたので創建した。本家の十字の幟旗が残っているという。
粟野宮 地頭館の東13町 蔵永村にある。祭神はオオナムチ・コトシロヌシ・シタテル姫・タカヒコネ・スクナヒコナ・タカヒカリテル姫・御井神・タケミナカタ神(八柱)。義天公(8代久豊)の時、崇敬し、穆佐院300町の宗廟とした。10月に流鏑馬、6月には「浜殿下り」がある。 ・浜殿下り…単に浜下りと言うことのほうが多い。鹿児島では非常に多い神事である。
<仏 寺>
龍虎山彌勒院
  天正寺
地頭館の東6町余 小山田村にある。本府の大乗院の末で真言宗。義天公在城の時に祈願所として建立した。開山は快空法印。
香飯山光明院
  飯山寺
地頭館の東18町 蔵永村にある。大乗院の末で真言宗。中興開山を及瑜法印という。法印の出身は泉州岸和田で、紀州根来寺の学匠であったが秀吉の焼打ちに遭い、離山して薩摩藩へ落ちてきた。朝鮮の役に従軍し、島津義弘から重宝された。
洗心山悟性寺 地頭館の北8町 小山田村にある。本府の福昌寺末で曹洞宗。寺伝によると初めは天台宗として建立されたが、途中、臨済宗となり、義天公の時に再興して菩提所とした。のちに曹洞宗となる。
仏寺合記 ○法泉坊…蔵永村にあり、若宮八幡の別当職。 ○稲荷坊…稲荷大明神の別当職。 ○林昌庵…蔵永村にある。飯野の長善寺末で曹洞宗。
<旧 跡>
穆佐城 地頭館の後背山 小山田村にある。「高城」との別称があり、日向国三高城の一つと言われていた。太平記には「六笠城」と記されている。建久8年(1197)の日向国図田帳には「穆佐院三百町、地頭・右兵衛佐 忠久」とある。
 観応元年(1350)、足利直冬は直義に与し、筑紫にやって来た。これに呼応して日向守護・畠山直顕も幕府に背き、直冬に付いた。その結果、新納院の高城は攻略されて陥落した。文和元年(1352)には伊東を味方にした畠山直顕によって穆佐院と島津荘が奪われることになった。
 幕府は島津本家(宗人)に対して教書を下し、畠山を討つよう命じてきた。ところが、畠山直顕は3年後の延文元年には再び幕府方に復帰した。そこを攻めて来たのが南朝方の重鎮・菊池武光で、穆佐城に攻め寄せて畠山らを駆逐した。
 南北朝後の応永年間になると、島津元久(第7代)が布陣して穆佐院の池尻・白糸・細江を取り込み、次代の8代久豊はそれぞれの出城を築いて防備を固めることに成功した。
 その時に伊東氏から娘を与えられ、生まれたのが9代忠国であった。
大岳公御誕生杉
 穆佐城内に二本の杉があり、大岳公が生まれた場所に生えていたので「御誕生杉」と名付けられているが、二本は3尺を隔てて根付いている。それぞれの枝の地上に垂れた個所から根が出て幹をなしているので、何本もの杉が生えているように見える。高さは数十丈、枝葉の広がりの覆う面積は1段にもなろうかという大樹で、誰が見ても神木である。
・日向国三高城…その一つはこの穆佐院の高城。その二は小丸川流域の新納院にある高城。その三は三俣院にある高城である。
義天公御憩石 地頭館の南西20町 小山田村牟田にある。土地の言い伝えに、島津家7代元久が亡くなった時、後継問題が起こったと穆佐まで聞こえたので、義天公は急ぎ山中の近道を通って本府に向かった。その道中、ここに山神の小祠があり、その前で休憩をとったのでこの名が起こったという。
屋敷ヶ原 地頭館の西19町 小山田村にある。南朝方の菊池武光と幕府方の畠山直顕とが延文の頃(1356〜1361年)に合戦をした場所だという。
  
       高原郷・・・小林郷の温水村広原をも併せて高原郷とし、地頭を置く。地頭館は高原村にある。

位 置 概      要 備  考
<総 説>
高原の名義 土地の伝承では、当地を高原というのは高天原の略称だから、ということである。近くにある都城(都島)、高城などという地名なども「神代の皇都」から来ているので、それは正しいと言えよう。
<山 水>
霧島矛嶽 地頭館の西南3里半 蒲牟田村にある。高千穂の二上峰の東峰で天の逆鉾が立っている。逆鉾は当郷の錫杖院の管理するところで、寺僧が香華を備えに登る。登山路は二つあり、二ツ(二子)石経由の傾斜はきついが2里半で行けるものと、狭野神社から登る3里のものとがある。
御 池 地頭館の南2里弱 霧島矛嶽の東南にある周囲3里の池。深さは測り知れない。平安時代半ばに性空上人が池畔の岩頭で護摩を焚いて修行したという言い伝えがある。その時池の中から神龍が出現し、宝珠を寄越したそうである。
 しかしその後なおも修行に専念したところ、千手大悲の妙相を感得し、末世の衆生の救いを請願したという。
・性空上人…延喜10年(910)、京都の貴族・橘家に生まれるが出家して霧島山や背振山、書写山で修行した天台僧。
庄内川 去川(大淀川)の2大支流がこの庄内川と岩瀬川で、庄内川は都城から流れ下り、岩瀬川は小林方面から流れてくる。
岩瀬川 上流は小林郷。当郷と野尻郷との境を画す流れである。
<神 社>
狭野大権現社 地頭館の南1里20町 蒲牟田村の狭野にある。祭神はニニギ・ホホデミ・ウガヤ・コノハナサクヤヒメ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメの六座。霧島六所権現とも称す。社伝には「孝昭天皇の時代に創建」とある。
 また社記に『文暦元年(1243)、霧島山大火、当社並びに別当寺が焼亡したので、社と別当寺を高城郷の東(つま)霧島勅詔院に遷して祭祀を行い、慶長17年(1610)になってようやく故地に還った。
 しかし享保元年〜2年に再び噴火に見舞われることになる。
・別当寺…神社の社務をを掌るのが文書に明るい僧侶であり、傍らに寺院を建立して詰めていた。
 狭野神社の別当寺を神徳院という。
霧島東御在所
両所権現社
地頭館の南2里 蒲牟田村にある。祭神はイザナギ・イザナミの二神。相殿にアマテラス大神以下皇孫の六座。
 日本後紀の承和4年(837)に「日向国諸県郡霧島岑神、預官社。」とあるが、その「霧島岑(きりしまみね)」は霧島矛峯のことであり、霧島岑神とは当社のことを指すのであろう。
 別当寺は錫杖院である。
霞権現 地頭館の東1里 入来村、霞岡にある。祭神は不詳だが、本地は馬頭観音と伝えられる。境内の南面岩の間に隙間があり、そこには五色の蛇が住んでいて人々は神の使いとして崇めている。
  神社合記 ○鎮守大明神社…高原村にある。むかし税所氏が大和から春日大明神の御神体を持参して祭ったという。 ○諏訪大明神社…水流村にある。村の宗廟である。
<仏 寺>
霧島山華林寺
  神徳院
狭野f大権現社の境内にある。武蔵国東叡山の末で天台宗。狭野神社の別当職。
 寺記に、開山は慶胤上人で欽明天皇の時代という。また一説には敏達天皇時代ともいう。その後400年を経て性空上人が再興した。往時は宿坊360を越え、寺領3万石あったという。
 文暦元年の霧島山噴火で堂宇が全焼したため、高城郷の東(つま)霧島・勅詔院に遷ったことは上記・狭野大権現社にある通り。その後、天文12年(1543)にいったんは高原麓に遷り、さらに70年後の慶長17年(1610)、現在狭野神社のある場所に遷された。
・欽明(きんめい)天皇…第29代天皇。在位539年〜572年。
・敏達(びたつ)天皇…第30代天皇。欽明天皇の皇子。皇后は推古天皇(第33代)。在位572年〜586年。
霧島山華林寺
東光坊錫杖院
東御在所両所権現社の境内にある。真言宗大乗院の末で本尊は千手観音大士。開山、性空上人。康保3年(866)に創建された。
 文暦元年の霧島山噴火でじ廟宇が焼亡して一時廃寺となるが、文明18年(1486)、円室公(島津家11代忠昌)が真言密教僧・円政法印を住持として再興。以後、真言宗となった。
○寺宝…龍の鱗。天狗の斧。五鈷。璞玉(原石)。錫杖。念珠。(以上の三種は性空上人の遺物という)
・開山の性空上人が見たのは九頭の龍で宝珠を授かったのだが、以後の住職は池の中から龍の鱗が浮かび上がるのには遭遇したようである。
高原山法蓮寺 地頭館の西南4町 高原村にある。飯野の長善寺の末で曹洞宗。当郷の菩提所である。
仏宇合記 ○威徳院…蒲牟田村にある。 ○坂本寺…蒲牟田村にある。 ○極楽寺…水流村。(以上の三ヶ寺はみな神徳院の末で天台宗) ○高原寺…蒲牟田村にある。 ○地蔵院…高原村にある。(以上は錫杖院の末で真言宗) ○高麗観音堂…後河内村にある。文禄年間の朝鮮征伐に出兵した先祖が現地から持って来た観音なので「高麗」が付いている。
<旧 跡>
 葺不合尊
   及び
神武天皇皇居
高原の地はウガヤ命と神武天皇の故地であり、高千穂宮とはここのことである。
 神武天皇はここ狭野で御誕生され、その旧跡もある。また近隣の都城は往古都島といい、そこには宮丸村があり、往古ホホデミ命の皇居があった。そこから高原に遷ったのは皇太子であったウガヤ皇子の宮があったからであろう。
 上代には後継の天皇ごとに皇居を変えるのが普通であった。それは父宮とは別に皇子たちの宮があったことに深く関連している。
・皇居の移動…平城京が開かれるまでの皇居は代ごとに変わったと言ってよい。
 神武天皇
   降誕の所
地頭館の南西1里半 蒲牟田村、狭野の権現洞にある。平地の内、広さ4段ばかりで少し高くなった所に竹藪があるが、それが皇居の址という。 さらにその中でもすこし高くなった方2間ほどの所に2つの石が並び出ている。そこが神武天皇の誕生地であるという。
 ここはまた狭野権現社と神徳院の故地でもあった。これは往古にウガヤ命の皇居があったため、神社を建立したものであろう。
皇子河原 地頭館の西1里22町 蒲牟田村にある。ここも皇居の址という。神武天皇が皇子の時、ここに東宮を建てたので皇子河原というのだろう。神武天皇御降誕地より西、およそ1里2町の場所である。
松ヶ城 地頭館の北東5町 高原村にある。別名が「高原城」。古来、島津家領であったが、天文の頃、伊東氏に取られ、その後、北原氏が入るも、伊東氏との戦いで退けられ、伊東勘解由が入城した。
 天正4(1576)年、飯野にあった島津義弘(松齢公)は本府の援軍を求め、本府から当主・義久(貫明公)はじめ歳久・家久・征久・忠長の一族が出陣し、同年8月19日より戦闘に入り23日までには伊東方の勢力を一掃した。
 翌天正5年(1577)、野尻城を陥れ、佐土原まで攻め上ったところ、伊東氏は総崩れとなり、当主伊東義祐は豊後の大友氏を頼って落ち延びて行った。
・飯野…4年前の飯野郷での「木崎原合戦」は義弘の率いる300の兵と、伊東氏の3000との戦いであったが、義弘側が勝利を収めている。

        
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