『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

第三回 日向国・諸県郡・志布志郷 B 及び松山郷

  〔 志布志郷 B 〕

※ 志布志郷は日向国・諸県郡に属しており、諸県郡の海の玄関口であった。地頭館(仮屋)は現在 の志布志小学校の所にあった。

位 置 概        要 備  考
<旧跡>
松尾城 地頭館の西
1町余り
 志布志郷は昔は救仁院に所属していた。文治・建久の頃の領主・救仁院成直は得佛公(島津忠久)に敵対していた。その後第5代貞久公の時、宮方の楡井頼仲が志布志に来攻し松尾城を居城とした。
 しかし貞和4(1348)年、足利方の武将・畠山直顕が松尾城を囲み、ついに頼仲は利あらずして逃れ、大慈寺の寶地庵に入って自害する。
 この時、島津方から派遣されていた下野時久は畠山直顕によって称揚され、日向諸県郡の新納院をあてがわれた。下野氏から新納(にいろ)氏に改姓したのはその時からである。
 しかし足利尊氏の子・直冬が幕府に叛旗を翻して九州にやって来た時、畠山直顕は直冬に味方し、新納院を攻略したので、足利幕府は新納時久に救仁院をあてがい、時久は大崎から志布志・松尾城に入った。その後7代、新納氏は志布志を治めた。
 およそ180年後の第8代新納忠勝のとき、都城の北郷忠相と飫肥・串間の島津忠朝によって攻略され、忠勝は串間市来に移封、子の忠茂は伊東氏を頼って佐土原に逃れ、志布志の新納氏は滅亡した。
 その後の永禄5(1562)年、島津忠朝の子・忠親の時、伊東氏と肝付氏の侵攻を受け、伊東義祐が飫肥を、肝付兼続は志布志を取った。しかし天正2(1574)年、肝付氏は降伏し、島津は地頭を置いて治めることになった。
・楡井頼仲…信濃源氏の出という。仲の字を名にもつので、あの木曽義仲の後裔かとも思われるが、未詳。島津氏に仕えた「仁礼氏」は楡井氏の後裔という。
・畠山直顕…足利尊氏の6代前の足利義純の後裔。同じ清和源氏一族。
・足利直冬…足利尊氏の子だが、弟の直義の養子となった。
内城 地頭館の裏山。  松尾城とは東に谷ひとつ隔てた丘陵にある。松尾城より少し高い。
 延文2(1357)年、畠山直顕は足利幕府からあてがわれて松尾城に入った新納實久(勝久の子)を攻めたが、その時にこの内城を拠点としたという。その後、島津氏久がここに入ったことがあったが、氏久は島津本家を継いだので鹿児島の東福寺城に移った(その後、清水城に移る)。
・島津氏久…大姶良城を居城とした島津氏であったが、5代貞久の後継者となり、子の元久とともに鹿児島に移った。
安楽塁 地頭館の西30町  建久年代に安楽平九郎為成が築いた。その後は志布志の新納氏の領有する所だったが、天文13(1544)年、肝付兼続により攻略され、その後いったん島津忠朝方に取り返されたが、永禄5(1562)年、肝付氏に帰属した。 ・安楽氏…肝付氏族。
蓬原城 地頭館の西北西2里  古来、救仁郷氏の居城であったが、延文4(1359)年に末吉の国合原で合戦があったとき、島津氏久が救仁郷頼世に援軍を依頼したのに従わなかったため、氏久から攻められて陥落した。しかし頼世の後継は大崎飯隈山照信院院主として生き延びることになった。 ・救仁郷氏…肝付氏の一族。
古城合記 ・夏井砦…新納氏の砦。天文7(1538)年、飫肥の島津忠朝軍に攻略される。
・金丸城…蓬原城の西北に位置し、救仁郷氏の配下が守っていた。
槻野村
 古戦場
槻野(月野)村にあり  大永2(1522)年、島津勝久(14代=大翁公)が武将・伊地知重周と吉田某を遣わして新納忠武を討ったが、戦果なく引き上げている。下って慶長4(1599)年、伊集院忠真が反乱を起こした際、松山郷に兵を進めてきたので、地頭として志布志に入っていた樺山久高がここで戦っている。 ・伊集院忠真…いじゅういん・ただざね。忠棟の子で、父が京都で暗殺されたので反乱を起こした(庄内の乱)。
山仮屋 地頭館の北東、8町  大性院の境内山中に5反ばかりの平地があるが、そこは天智天皇が志布志に到着後、しばらく駐留された場所という。
 志布志
  宅地
山仮屋の下  天智天皇が山仮屋に滞在中、宅地の主人の妻や侍女たちが天皇に手巾を差し上げたところ、「上下より志の布を献じてもらい、まことの志布志である」と仰せられた。よってここを「志布志宅地(やしき)」と名づけ、後世、土地に志布志と名づけた、その因縁の地がこの志布志宅地である。 ・天智天皇…中大兄皇子が即位した。斉明天皇の子。山宮神社の項を参照。
船磯 地頭館の西20町余  往古、天智天皇の船がここに着いたので地名となった。その当時は渚だったが、今は水田となっている。

 

    〔 松山郷 〕

 ※松山郷はやはり日向国諸県郡に属し、地頭館は新橋(にいはし)村にある。

位 置 概      要 備  考
<山水>
飯盛峯 地頭館の東15町  尾野見村秦野にあり。この峯は飯を盛った形に似ており、そのため名付けられた。 古墳の可能性があるとおもう。
霧峯山 地頭館の南14町  この山の南は志布志郷となる。
大田尾川  水源は末吉邑の岩川。松尾城址の下を流れ、志布志郷に入る。他に八段田川・山角川が大田尾川に注いでいる。
柳川  志布志村と当村の境を流れ、菱田川に注ぐ。
<神社>
 正若宮
   八幡社
地頭館の北北東1町  当社は昔は松尾城内八幡城にあったが、15代島津貴久(大中公)の享禄2(1529)年に今の地に遷った。神鏡の背に永禄9(1566)年、願主・円満坊と記してある。
 当邑の宗廟で、別当寺は蓮華院である。
○軍神社…本社の左手にある。永禄2(1559)年、松尾城の守備をしていた平山忠智・久武・久次の親子3人が戦死し、忠智の軍配団扇をご神体として建立した。
・松尾城…後出の松山郷の松尾城。志布志の松尾城ではない。
青井
 大明神社
地頭館の西北10町  鎌田法真という者が伊勢国度会郡より勧請した。祭神は天照大神。豊太閤の検地により3度の祭礼のうち2つは没収されてしまったが、2月の祭事は残り今に至っている。
神社合記 ・霧島六所大権現…天文15(1546)年の棟札を蔵す。
・早鈴大明神…文禄2(1593)年の棟札を蔵す。
<仏寺>
八幡山寿福寺
蓮華院
地頭館の北1町余り  鹿児島城下大乗院の末で真言宗。天徳元(957)年、道教法印の開基。当邑の祈願所であり、若宮八幡社の別当寺である。
霧島山寿福寺
蒼龍庵
地頭館の南西3町  鹿児島城下福昌寺の末寺で、曹洞宗。開山は志布志の永泰寺を開いた代賢和尚。
<旧跡>
松尾城 地頭館の北1町  旧記に「文治4(1188)年、池大納言頼盛の第4子・武蔵守知重の子・隠岐守重頼、松山に下向して領知す」と見えている。また当城が築かれたのは応永20(1413)年であるとも記す。
 その後の領主は志布志の新納氏、飫肥の島津氏、高山の肝付氏と変遷した。永禄元(1558)年、飫肥城主・島津忠親は平山忠智を派遣してここを守らせていたが、肝付兼続の進攻にあって敗れ、肝付氏滅亡までは肝付氏に属していた。
 その後、慶長4(1599)年に起きた伊集院忠真の反乱の際に当城を守っていた柏原公盛は、忠真側の武将に攻められた。志布志城を守っていた樺山久高が松山へ救援部隊を出すと、忠真軍は今度は志布志が手薄になったのを狙って槻野(月野)まで襲ってきたりした。
 しかし松尾城の守りは堅く、忠真方が鳥銃を使って城を攻めたが、柏原公盛の配下で同じく鳥銃をよく使う木脇喜兵衛の反撃により、忠真軍は引き上げたという。
・池大納言頼盛…平忠盛の子。清盛の弟。平家滅亡後も処罰から免れた。母は藤原氏の出の池禅尼。
・鳥銃…鉄砲のこと。鉄砲は織田信長が長篠の戦い(1575年)で鉄砲隊を使ったことで普及したが、鹿児島では天文23(1554)年の岩剣城の戦いで島津忠将がすでに使用している。
 
        平成22年度 おおすみ歴史講座 第三回 終わり       目次に戻る