『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

〜平成23年度〜
 
   
第1回  日向国・諸県郡・都城

       
【 都城一 

 ※都城は藩政時代、島津一族の北郷氏の私領。薩摩藩では「庄内」と呼ぶことが多い。
  領主館はほぼ現在の都城市役所の辺りにあった。

位 置 概      要 備  考
<山 水>
霧島嶽 領主館の
北西7里
 この山の絶頂・矛峰は高原郷・小林郷・都城の分界を成している。当地は雲霧が常に深く、朝夕山麓を覆い、田野はあたかも霧の海の如くなる。霧島の名もここから来たと言われている。 矛峰は高千穂峰のことで標高1594m。霧島連山の最高峰は韓国岳で1700m。
諸山合記 ○長尾山 ○金之御嶽 ○日平山 ○雪ヶ峰 ○柳峰
庄内川  上流は末吉郷を流れる南郷川。都城の中心部を北上して下流は小林郷から東流する岩瀬川を集めて去川となり、日向灘に注ぐ。他に○梶山川、横市川、安永川 ・別名を都城川という。
関之尾瀑 領主館の西北西2里  曽於郡財部郷より流れてくる川にある瀑布。流路には大小の怪巌・奇石が重畳している。
霧島山御池 領主館の北西5里  霧島山四十八池の一つ。他に、小池・譲羽池がある。
あやめ原 領主館の東北東18町  
 早水村にある。東西8町、南北2町の土地が湿潤なため、古来よりあやめが自生。世に庄内あやめと言う。
<橋 道>
桁橋 領主館の東へ3里  石寺村にある。轟木川に掛かる橋で、12、3間ある川幅に大木を何本か掛け渡し、その上に厚板を載せただけの木橋。橋から川面まで10間(18b)はあり、渡る者はみな人心地はしないが、見物客が多い。 轟木川は沖水川のことで、山中を流れている。
<居 処>
寺柱関 領主館の東1里  寺柱村の菅谷にある。
梶山関 領主館の東北東2里  石寺村にある。梶山は当地の別区で、その間に勝岡郷がある。上の寺柱関と共に領主の家臣が詰めている。
<神 社>
正一位
神柱大明神
領主館の南南東1里  梅北村の益貫にある。祭神は伊勢神宮に同じ。由緒は当地を拓いた平大監季基が長元年代に信託により建立したという。島津御荘の総鎮守。
 季基には男子が無く、娘に伴兼貞を娶わせ後を継がせたが、兼貞は平姓には改めず伴姓を通した。兼貞の五男兼高が斎宮介となって祭祀を継いでいる。
伴兼高…梅北の地を継いだため「梅北氏」を名乗った。
宇佐八幡宮 領主館の南南東1里  梅北村にあり、平季基が神柱神社を創建した時、この八幡宮も建立した。
正一位
兼喜大明神
領主館の西方7町余  祭神は北郷相久。父は時久。天正9年(1581)、讒言によって安永村金石城にて自害。29歳。その相久を祭る。
 須久束
  大明神
領主館の南8町  五十町分村にあるが、祭神や創建由緒などは不明。当地では最も古い社だが、大永6年(1526)、火災に遭って焼失。北郷忠重が再建した。
黒尾権現社 領主館の南南東1里6町  梅北村益貫にある。祭神は愛宕神。永和3年(1377)、島津第6代氏久(齢岳公)が勧請した。伊東・相良・北原の諸氏が北郷義久の都城を攻めた時、氏久が西生寺の井上坊に愛宕神を祭って祈願したところ、首尾よく勝利を得たのでここに愛宕神を勧請し、黒尾権現と称した。 愛宕神…京都の愛宕山に本社がある。祭神はイザナギ命・カグツチ命など。
島津稲荷宮 領主館の北東21町  郡本村にある。祭神は倉稲魂命・ニニギ尊・イザナギ尊。当社は得仏公(初代忠久)が祝吉御所に在住の時、建立した。摂津住吉社の近辺で生まれた時、末社の稲荷神の擁護があったことに因んでいる。
 建久8(1197)年、出水の山門院からここへ移住の際、9月7日に創建した。地名を採り島津稲荷宮と命名された。
倉稲魂命…ウカノミタマ命は穀霊とされる。とりわけ稲を重視している表現である。
華舞
六所権現社
領主館の北北西3里  上中原村と梶原村の間にあり、祭神はニニギ・ホホデミ・ウガヤの各尊と正妃。近衛信輔公配流の時、ここに止宿したという。
荒嶽権現社 領主館の北西5里  安永村、西嶽にある。御神体は高千穂峰山頂の逆矛の折れ刃である。霧島山の南門に当たるという。
諏訪
上下大明神
領主館の北西2里  安永村、前川内にある。都城領主北郷家の祖某(資忠か?)が鹿児島の諏訪神社に参詣の折、鎌が飛来して某の袖に入ったのを持ち帰り、御神体として祭ったのが由緒である。応安5(1372)年6月1日の樟札が残っている。 資忠…都城島津家(北郷氏)の祖。島津本家4代目忠宗の子。兄の資久は樺山氏の祖。
今霧島
  権現社
領主館の北1里  横市村の今房にある。弘治3(1557)年、都城領主北郷時久(10代目)が創建した。橋を作るため山中から大楠を切り出したところ、災厄が続いたため神木として社を建てる。松齢公(島津義弘)から屋久杉板10万枚の寄進があった。
神社合記 ○貴船大明神…梅北村益貫にある。 ○鶴岡八幡宮…安久村。 ○湯田八幡宮…宮丸村城内。北郷時久は伊集院忠棟によって横領された都城への回復を願い、改易地の湯田の八幡に願掛けをしたが、願いがかなったため、当地に勧請した。 ○新義六所権現社…梶山石寺村。和銅元年に霧島六所権現を勧請建立したという。 ○安原霧島大権現社…安永村。往古、当社は霧島六社の一つだったという。
<仏寺>
天長寺 領主館の南西14町  五十町分村にある。大乗院の末で真言宗。北郷讃岐守忠相(8代目)が天文7(1538)年に建立した。
龍峰寺 同南南西10町  五十町分村にある。福昌寺の末で曹洞宗。上記忠相が母(豊州家出身)のために建立した。 ・豊州家…島津一族で豊後守を名乗った
正応寺 同東南1里7、8町  安久村。真言宗。往古、藤原家が荘園領主になったころに建立した。荘官は伴兼高であった。
西生寺 同南南東
1里18町
 梅北村益貫にある。大乗院の末で真言宗。当寺の由来記によれば開基は平重盛(小松殿)である。伴兼高が創建したという説もあるが、平重盛の寄進したという仏像があるので、開基は重盛であろう。
興金寺 同北北東
10町余
 宮丸村にある。臨済宗関山派である。
龍泉寺 同西北西
10町
 五十町分村にある。京都妙心寺の末で臨済宗。北郷氏二代義久の嫡子兄弟(久秀・忠通)の戦死を悼み、建立した。菩提所(墓所)でもある。
光明寺 同南南東
14町
 五十町分村にある。鹿児島の浄光明寺の末で時宗。貞和2(1346)年、畠山治部大輔直顕の創建である。はじめ梅北村にあったが、天正の頃、現在地に移った。 ・畠山直顕…足利尊氏の直臣で貞和元年に日向守護職となっている。
二厳寺 同北北西
14町
 宮丸村にある。京都妙心寺の末で臨済宗。開山は北郷氏2代目義久の第二子・秋江和尚。
明観寺 同北西
5里
 安永村の西嶽にある。荒嶽権現社と同所。鹿児島南泉院の末で天台宗。開山は性空上人。霧島山の南門という。
仏寺合記 ○延命寺…五十町分村。時宗。 ○十念寺…五十町分村。鹿児島不断光院の末で浄土宗。 ○西明寺…五十町分村。上記の二厳寺の末で臨済宗。 ○山久院…安永村。二厳院の末で臨済宗。 ○大昌寺…石寺村。上記龍泉寺の末で臨済宗。 ○薬師堂…五十町分村、薬師院にある。天和2(1682)年の棟札によると<往古、漁師が網に薬師像を得たが、平重盛がこれを聞き尊崇して御堂を寄進した>とあり、上記西生寺の縁起と通じるものがある。
<旧跡之一>
神代皇都  都城は神代の皇都であった。古事記で言う「高千穂宮」である。往古、ここは都島と言ったが、承和元年(1375)、北郷氏二代義久が城を築き「都城」としたため、一邑全体が都城となった。
 高千穂宮の跡は「宮丸村」として残っている。
 都城には神代の旧跡が多い。高千穂峯は天孫二ニギ尊の降臨地であり、ホホデミ尊の皇居地であり、高原郷にはウガヤ尊の皇居があり、神武天皇はそこで生まれ狭野尊と言った。
●ホホデミ尊の遷都
 はじめホホデミは笠沙にて生まれ、成長後に国分の宮内に皇居を造営した。そこで兄のホスセリと幸換えをして頴娃開聞宮の近辺から海神宮に行き、3年後に帰ってくると、今度は都城を皇居と定めた。
島津御荘  しまづみしょう。筑前大宰府の役人(大監職)に平季基という人がいたが、万寿の初めにこの地に来て田圃を拓き関白藤原頼通に寄進した。(弟の良宗はさらに南方の姶良庄を拓いている。)長元年間には伊勢宮・宇佐宮以下五社を建立して鎮守とした。そのうち伊勢宮には御神託があり神柱宮と称し、格別に尊崇した。
 島津御荘は綸旨や関東御教書により、郷内の寺社の修繕・造営以外の一切の課役は除外されており、また正八幡宮の課役にも掛からなかった。
 平季基は三俣院を領有し、梅北の益貫に住んだ。男子が無く女子を伴兼貞に娶わせ、三俣院を譲り箸野(橋野)に隠居した。その後兼貞の後継に兼俊(肝付氏祖)・兼任(萩原氏祖)・俊貞(安楽氏祖)・行俊(和泉氏祖)・兼高(梅北氏祖)が繁栄した。五男の兼高は斎宮介となり、神柱宮の神事に仕えた。
 島津御荘の荘官に冨山氏がいた。御荘設置後、すぐに任命された氏で、近衛氏の一族に当り、多く「二郎太夫」を称しているが、それは近衛氏の「諸太夫」でもあるからだろう。
 およそ当時、荘園を尊び、公田が衰えたのは、荘園のほうが取立てが薄かったからで、ために七道諸国の内に荘園所領が多く、その害は大変なものであった。後朱雀天皇の寛徳2年(1045)、また後三条天皇の延久元年(1069)に「新立の荘園を停止する令」が出され、諸国に通達され、新規荘園の廃止などにより、貴族諸侯の動揺があったが、薩隅日三州は班田すら正規に行われていなかったことから、自墾の田地が荘園化するのを停められず、島津御荘の肥大はますます進んだ。
 島津初代忠久公と島津御荘とのかかわりは、頼朝の寵愛を受けた実母の丹後局が政子によって日向に流されようとしたところ、しばらく近衛邸に匿われた後、日向国司に任命された惟宗廣言(ひろこと)に嫁して日向に下ったのが初縁である。その後、丹後局は忠久が成人してもし適うならできるだけ遠方の荘官にでもと願い、ついに元暦2年(1185)島津御荘の下司職に任じられ、翌年には総地頭職をも得、最初は出水の山門院に赴任し、その後いったんは関東に帰ったものの、建久7年(1196)になって改めて島津御荘の地に赴任、そこで姓を惟宗氏から島津氏に替えたのである。
 南北朝時代の文和元年(1352)、足利尊氏は島津本家4代の忠宗の6男・資忠に庄内北郷の地300町を与えた。この資忠が北郷氏の始祖である。
島津の名義
 島津の名義、島は水中に山在りて(鳥が)依り止まる(嶋)ことから、また津は人の往来出入りの枢要の場所を意味する。島津の古字は島門または島戸の字を用いた。みな同義である。島津と名づけたのは、霧島の山麓で人の出入りの多い枢要の地ということで名づけたのであろう。
 狭い意味では島津は郡本村のあたりを指している。ここは忠久公の治所であり、いわゆる「祝吉御所」と言っている場所である。
 
・万寿…1024〜28年
長元…1028〜37年
御荘…荘園に御を冠して呼ぶのは帝王・三宮の所領に限られるが、島津荘は位准三宮に上り詰めた関白頼通に寄進されたため「御荘」となったか――との本文割注がある。
・冨山氏
…とみやま氏。島津御荘については冨山・梅北氏と並び称されていた。
・島津御荘の肥大

建久8年(1197)の図田帳によれば薩摩に2900町余、大隅に1400町余、日向に3800町余、合計およそ8300町に及んだ。・惟宗廣言
 惟宗氏の初見は日本後紀の讃岐の永原忌寸が朝廷に姓替えを願った「惟宗」姓だろう。その後の惟宗氏は文章博士などの学者を輩出している。
 三国名勝図会では忠久の頼朝御落胤説を採るが、史学会では惟宗氏説である。

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