〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

第4回 都城への歴史散歩
(都城・三股・山之口・高城・高崎各郷)  H23.8・7(日)

 平成23年度の5月〜7月で学んだ都城方面の歴史について、実地に歩いてみた。

 夏の盛りとはいえ、台風9号の影響がまだ残っており、曇り空のもと程よい風が吹いていて散策するにはありがたかった。

 ・午前8時に城山下(北田池)公園駐車場を出発した。総勢は8名。行程は以下の通り。

史  跡(見所) 写  真
  1、檍神社(あおきじんじゃ)…末吉郷
 曽於市末吉町の檍(あおき)地区にある古社。祭神はイザナギ・イザナギ命以下26柱に及ぶ。
 大淀川最上流のこの地はイザナギ命が妻のイザナギが火の神・カグツチを産んで死んだあと、死後の妻を訪ねて黄泉の国に行ったところイザナミの腐乱した屍を見て驚き、這う這うの体で黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが「 禊(みそぎ)」をした場所とされている。
 その時に左目からアマテラス、右目からツキヨミ、鼻からスサノオが生まれたとする。
 また航海民の尊崇する海の神「ウワツワダツミ・ナカツワダツミ・ソコツワダツミ」も祭られていることから見て、海人族が勧請したと思われるが、どうだろうか。
  
                  檍神社の「小戸の池」
 
  2、平季基(すえもと)の墓
…末吉郷・中橋野
 曽於市末吉町の橋野にある伝承地。
 中橋野バス停手前を左折して「若一王子神社」を過ぎて畑の広がる台地の突端にある。うっかりすると見落としそうな場所で、道路にはこれといった標識はない。
 平季基といえば、中世南九州最大の荘園「島津荘」の基礎となった土地を都城に開発し、藤原頼通に寄進した人物で、晩年はここ橋野に隠棲し亡くなっている。
 いわば島津荘開発の恩人だが、その人の墓にしては全く寂れ果てている。榎のような木が2本生えた下に苔むした五輪塔の一部がごろごろ転がり、横には道祖神と思われる半円形の光輪状の石仏、その後ろには五輪塔の笠の上の部分(風輪・空輪)のみぽつんと置かれている。
 同行の人たちもこれには唖然としていた。曽於市教育委員会の「平季基の墓」という標柱がなければ、誰のものか何なのかさっぱり分からない。


 畑地帯の中にひっそりと建つ「平季基の墓」
  
  3、黒尾神社(くろおじんじゃ)
…梅北町益貫
 中橋野バス停のある道路に戻り、梅北小学校を右手に見て車で5,6分、「梅北」信号を右折して200メートルも行くと右手に杉木立に囲まれた「黒尾神社」がある。
 明治6年までここには「神柱神社」があった。神柱神社は平季基が伊勢神宮から勧請したといい、季基の旧居もこのあたりにあったとされる。
 現在の黒尾神社の前身は愛宕神社で、永和3(1377)年、都城(北郷氏)が伊東・北原氏の連合軍により危機に陥った時、救援に来た島津氏久(第6代)はこの社に戦勝祈願をして無事勝利を収めたため、立派な社殿を寄付している。その際黒尾権現と名を改めたという。
 
 4、都城島津家の墓(龍峯寺跡)…都城市大岩田
 都城島津氏の墓地で、廃仏毀釈で廃寺となった龍峯寺があった場所である。都之城跡(現・歴史資料館)に向かう途中の左手の高台一帯にある。
 「都之城」は、島津本家の第4代忠宗の6男・資忠(すけただ)が足利将軍家から山田町の北郷・薩摩迫の300町の水田をもらって移住した後、その子の北郷義久が天授元年(1375)に築いたが、その後、菩提寺として禅宗の龍峯寺が建立され、代々の領主が眠っている。
 現在、入口より下の部分を拡張する工事が行われているが、駐車場を整備するのかもしれない。
  
  5、都之城址(現・歴史資料館)

 都城は都市の名であり、かつ城の名でもあるので紛らわしく、この歴史散歩記では「都之城」と間に「之」を入れて書いていくことにする。
 現資料館の場所に本丸があったのだが、この都之城が廃城になったのは、江戸時代に入った元和元年(1615)の「一国一条令」の時で、その頃までの250年間、都城島津氏は「北郷氏」を名乗っていた。北郷を「ほんごう」と読むが、これは「ほくごう」の転訛だろう。(普通、「ほんごう」といえば「本郷」と書くが、鹿児島方言に多い「促音便」の多用で、「く」が「ん」に変化したのである。)
 さて入館料210円也を払って入ったが、以前に来ている人も多く、「ここはいつ見ても、展示が分かり易い」と好評であった。
 
  6、都城島津邸…都城市早鈴町
 現都城市役所と図書館・美術館さらには道を隔てた明道小学校の一部までが藩政時代に都城島津氏の領主館があった場所である。
 しかし明治維新後、都城島津氏は鹿児島市内に住むようになり、同時に現市庁舎の前身である都城県庁が領主館の大部を転用したため、しばらくして帰って来た島津家に早鈴大明神境内があてがわれて本宅が建築された。その跡が現在公開されている島津邸である。
 本宅と伝承館が公開されており、入館料はそれぞれ100円と210円であった。
 

        島津邸の入り口で
 
  7、早水神社…都城市早水町
 島津邸近くのレストランで昼食を済ませ、再び車中を早水神社に向かった。途中、明治6年に時の都城県令・桂久武が強力に移転を進め現在地に鎮座する「神柱宮」(祭神はアマテラス大神ほか。摂社には平季基・菅原道真を祭る宮がある)のすぐ横を通過し、都城農業高校前の五差路から早水方面へ3分ほどで、早水神社入り口。
 このお宮は周囲を池で囲まれている。周囲の山々からの伏流水があるらしい。池の中の島のようなところに早水神社は建つ。
 祭神は応神天皇・仁徳天皇妃になった髪長姫、そして髪長姫の父である牛諸井(うしもろい)を祭る。牛諸井はこの地を治める大首長だったのだろう。水は豊かだからのちの島津荘のような巨大な田園が開けていたのかもしれない。
 ただし、応神天皇記によれば牛諸井は水主(かこ。船を操る人)でもあったらしく、兵庫県加古川の「加古(かこ)」のいわれが、牛諸井が髪長姫を都に届けに来た時の船上の装束(鹿の皮を着ていた)に由来し、「鹿児(かこ)」から「加古(川)」と名付けられたとある。
 写真下は髪長姫の陶製人形(大15000円、小8000円)

  
 
  8、祝吉御所跡…都城市祝吉町
 祝うに吉というめでたい町名の場所に島津氏初代忠久が頼朝によって薩摩・大隅両国守護、総地頭を補任された後、ここに移り住んだ時期があったとする伝承の地。
 「島津」という姓もここの「島津(島戸)」を採用して、惟宗から改めたともいう。確かに奈良時代の官制の中で駅馬制度があり、「島津駅」がこのあたりの郡元に置かれたのは史実らしいので、島津地名がここから発祥したことは言える。
 しかし数代前の都城市長が書いたらしい「島津家発祥の地」(写真真ん中奥の石碑)はいただけない。忠久がここに住んだという文献はないのである。「島津姓の発祥地」なら正しいが・・・。
 
  9、三俣(松尾)城址…都城市山之口町
 三股町ではなく隣の山之口町にあるのに「三俣城」と名付けられているのは、山之口郷がもと「三俣院」の内にあったからで、三俣院は建久8年(「1197)の図田帳によれば島津荘最大の700町を擁する地域であり、現在の三股町・山之口町・高城町を抱合する広さを持っていた。
 三俣は古くは「水俣」と言い(水俣駅があった)、中心部は山之口町を流れる沖水川沖積平野部であったろう。
 城は南北朝の頃、高城に居城していた肝付兼重が築いたというが、兼重が高山本城に移り去った後は足利方の日向守護・畠山氏の有するところとなった。
 都城盆地を見晴るかす丘の上には模擬天守閣が建ち、誰でも天守の展望所まで登ることができる(無料)。
 
 3層の天守閣最上部から眺める都城市街地

  10、月山日和城址
…都城市高城町
 山之口の三俣城址から高城へは、いったん山之口中心部を目指し、旧町役場への道をとって山之口駅前を通過してから信号を左折し、そのあとはほぼ一本道で高城町に至る。15分ほど。
 途中の車窓から月山日和城の模擬天守閣がよく見えるから、道を誤る心配はない。
 現在の天守閣は高城町郷土資料館になっていて210円を支払って入館する。4層の天守の中は意外に広く、一階と二階に歴史資料が展示されている。
 中でも圧巻は「錦の御旗を受け取る肝付兼重」のコーナーだろう。元弘元年(1331)にこの城を築いた兼重は初期こそ躊躇したものの、その後は一貫して南朝方に付き、畠山氏らと戦火を交えた。しかし暦応3年(1340)、畠山直顕率いる足利方の大軍に攻められ、城を明け渡して肝属郡の高山本城に引き下がった。
 その後は和田氏・島津氏・伊東氏と城主が変遷したが、天文年間に伊東氏の手から都之城主・北郷氏の支配するところとなった。
 戦国時代の最終期の文禄年間には島津一族の伊集院氏がこの高城を含め都城8万石を領有したが、慶長4年の庄内の乱により伊集院氏は頴娃に左遷され、再び北郷氏のものとなった。
 しかし元和の一国一城令により、都之城をはじめ高城などの城はすべて廃され、地頭館が置かれることになった。

         
  
  11、東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)
                    
…都城市高崎町
 高城郷土資料館を出たのがちょうど午後の5時で、高城の町並みを散策する余裕がなかったのは残念だったが、東霧島神社までは行っておきたいということで、高城町の「立喰(たちばみ)」信号から北へ広域農道に入った。途中、周辺は「観音寺池公園」という広域公園で時間があれば立ち寄りたい所だったが、農道をひたすら神社に向かって道を急いだ。15分ほどで自動車道をくぐり到着。意外に近かったのに驚く。
 駐車場に入れて参道に入るともう社務所も閉められつつあり、皆の疲れ具合も考慮して本殿までは上がらずに下の霊石「神石」だけを見物して帰ることにした。
 この神社は昔、霧島山の噴火によって尾根筋にあった霧島神社が壊滅したときに、いったんここへ避難した場所で、その後、文明年間に島津8代忠昌が再び霧島神社に遷したと言われる。現在の霧島神宮がそれである。

 見事に割れている神石。イザナギ命がトツカノ剣で3段に斬ったという。その片割れが宮崎市         の方にあるという。
   
  12、(伝)景清の墓
…曽於市大隅町柳井谷
  寄るまいかどうしようかと思案したが、また出直すことも難しかろうと、景清の墓というのを見に立ち寄ったのが大隅町の柳井谷。
 269号線で鹿屋方面に向かうと、末吉町の中心部から県立末吉高校前を通り過ぎ、300メートルくらい行くと衣料品の店「しまむら」があり、その先のJAスタンドの信号を右折。2キロほどで丘を越え柳井谷地区に入るとすぐ右手の畑に「景清の墓」の道標が見えた。
 畑の中の道を100bほど歩き、杉林の傾斜面を上ると薄暗い中に、古石塔群があった。その中の最も古く大きいのが景清の墓らしい。
 景清は藤原氏の出身だが源平合戦では一貫して平家方についた。没落後、頼朝から源氏方への仕官(御家人化)を勧められるが、拒絶して「目をえぐって地方に落ち延びた」との伝承がある。
 その目をえぐったという故事が宮崎市の生目神社の由来譚となっているのは、景清が浄瑠璃などの題材に取り入れられたからだろうか。

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