〜三国名勝図会から学ぶおおすみ歴史講座〜

[ 第四回 大隅国・肝属郡 高隈郷・串良郷 

(1) 高隈郷・・・串良川の上流に所在する。下流の串良郷とは隣り合う。かっては「鹿屋院」に属していた。
            地頭の館は上高隈にある。

 < 山水 >

1 高隈嶽
・・・大隅半島随一の山岳で、北から盆山・大菎柄(おおのから)嶽小菎柄嶽・妻嶽・権現嶽・鷹羽嶽・中嶽が連峰を形作っている。
 このうち鷹羽嶽を除き、麓の近戸宮(瀬戸山神社)を加えた七ヶ所を巡拝して回る「七嶽参り」が昔から盛んで、旧暦3月4日の日は近郷の男女がこぞって繰り出すという。
  森林が深く、藩内で山中に神異霊怪が多いのは、霧島山とここである。

2 谷田瀑布・・・高隈村の下高隈にある。串良川の上流(高隈川とも言う)が、谷田地区で滝となる。高さはさほどではないが、巨岩の連続する様は見ごたえがあり、途中「高隈三所権現の御手洗の池」などと言われる場所がある。
  本藩の諸瀑布のうち、曾木の滝は名高いが、それに匹敵する景観をもつ。

 
 < 神社 >
 
3 中津宮・・・高隈村の上高隈にある。祭神は「中津少童命(なかつわだつみのみこと)」。勧請の歳月は不明だが、永禄年間(1558〜1570)の肝付兼続(かねつぐ=肝付氏第16代)の社殿修築の棟札と、慶長年間(1596〜1615)の敷根頼幸の棟札が残されている。
  当邑の総鎮守である。
       ※2月に開催される「かぎ引き祭り」は有名である。

4 石照宮・・・地頭館から西方の高隈山中にある。
 寛政のころ(1780年代)、鹿児島本府の武士・児玉仲左衛門が高隈山中で神人と出会い、宝石の原石をもらい、それを自宅に祠を建てて祭っていたところ、時の藩主・島津重豪(しげひで=第25代)の知る所となり、ついに現地にお宮を建立することになった。それが石照宮である。

5 池之八龍王社・・・上高隈にある。棟札に「慶長三年、当檀那・三位法印・幽斎」と記されたものが残っている。幽斎とは細川幽斎のことで、かって大隅の検地を行ったゆえ、当地と細山田、串良の一部をあわせて3500石の領有を赦されたため、とくにこの龍王社を尊崇したのであろう。


 < 仏寺 >


6 高岳山慈現院浄聖寺・・・上高隈にある。坊津一乗院の末寺。真言宗。当邑の祈願所である。

7 宝持山法音寺・・・下高隈にある。清水楞厳(りょうごん)寺の末寺。曹洞宗。当邑の菩提所である。


 < 旧跡 >

8 松尾城・・・高隈城ともいう。上高隈にある。古くから肝付氏の領有する城であった。だが観応2年(1351)に、禰寝(ねじめ)清成(第7代当主)と従兄弟の清種および楡井頼仲の連合軍に攻められ敗走した。しかし楡井頼仲が1357年に志布志の大慈寺で死ぬと、今度は島津氏久(第6代当主)は、田代以久を城主とし、島津方に組み入れた。
 時代は降って、享禄年間(1528〜32)には志布志城主・新納忠勝が領し、永禄年間(1558〜70)には肝付兼続(かねつぐ=第16代当主)により再び肝付氏に帰している。だが天正2年(1574)に肝付氏が島津の軍門に降ると、一時、高山郷などの地頭として赴任してきた伊集院忠棟がこれを支配下におさめた。(忠棟は8年ほどして都城へ栄転する)
 文禄4年(1595)、文禄検地後の賞与として、高隈・岩広・細山田の3500石が、細川幽斎に与えられ、一時島津氏の手を離れるが、島津義弘の慶長の役(朝鮮征伐)の際の軍功によって慶長4年(1599)に返還された。


(2) 串良郷――地頭館は鶴亀城の麓(今日の串良公民館付近一帯)にある。

 < 山水 >

1 高隈嶽・・・高隈郷の<山水>に詳しいので省略。
          ただし、高隈郷は明暦2年(1656)に串良郷より分立した、との記事がある。

2 高隈川・・・今日の串良川のこと。下流は肝属川に合流し、柏原浦で志布志湾に注ぐ。
         平駄船なら岩広地区まで自在に通行できる。
           (※岩広地区は今日の串良中心部よりさらに3キロほど上流)

3 肝属川・・・串良郷と高山郷の境を流れる大河である。満潮時には入り江が奥まで広がり、
         500石船が運航できる。平駄船なら鹿屋方面へ3里半(14キロ)も通行可能である。
           (※鹿屋郷のところでも出てくる記述)

4 柏原浦・・・肝属川河口左岸。柏原村に属す。


 < 神社 >

5 一之宮大明神社・・・地頭館の北約8町(850m)の所に鎮座する。祭神は「月読命」。
  慶長8年(1603)の宝殿再興を記した棟札が現存する。当郷の総廟である。神主は宮地氏。

6 上諏訪大明神社・・・岡崎村にあり。祭神は「建御名方命・南方刀美命」。神主は八木氏。

7 下諏訪大明神社・・・上諏訪社のさらに南にあり。祭神「事代主命・下照姫命」。
  伝承に上諏訪社とともにかっては当郡(肝属郡)の鎮守で、得佛公(島津初代の忠久)時代の建久年間   に、 祭田を寄付したという古文書があったという。神主は八木氏。

8 万八千大明神社・・・小原村にあり。祭神「別雷(ワケイカヅチ)命」。神主は宮地氏。
  伝承によると、肝付兼経(かねつね=第2代当主)の勧請になるという。
    蒙古襲来の時、九万八千の童子が出現し、手に手に「萩弓」と「薄の矢」を持って蒙古軍を退治したと   いい、十一月初午の祭礼日にはその「萩弓」と「薄矢」を持った若武者が舞を奉納するという。

9 神社合記

   妙見神社―岡崎城内にあり。永禄8年=1565の棟札が現存する。

   大塚大明神社―新川西にあり。唐仁大塚古墳の墳丘上に鎮座。祭神はオモイカネ命(秩父権現)。
              社伝に「大塚大明神は武蔵国の秩父権現を勧請したもので、島津忠久に先んじて
              赴任し、新川西一帯と対岸の高山塚崎一帯に九十九の塚を築いて本領安堵を祈願
              した」とある。

   宮貫大明神社―柏原村の川東にあり。祭神は不詳。

   新熊野三所権現社―柏原浦にあり。神鏡の裏面に「大永4年(1524)・・・願主・伴兼興(かねおき=
                第15代肝付兼興のこと)」と銘がある。
               (※境内地の一角に一対の五輪宝塔がある。第2代肝付兼経夫婦のものとされる)

   霧島熊野天神社―細山田村にあり。永禄4年(1561)別当・普門院再興の棟札がある。普門院は
               大塚山成願寺の末寺で、山号を「霧島山」と言う。
               (※熊野権現ではなく「天神」なのが奇妙である。もとは熊野系ではなかったか?)


 < 仏寺 >

10 大塚山医王院成願寺・・・有里村にあり。坊津一乗院の末寺で真言宗。開山年は不明だが上古は
     「高山寺」と称し、最初、大塚山の麓にあったのを、中古、高隈川(串良川)の上流に遷し、成願寺と     名を変えた。その後水害などにあい、正徳2年(1712)現地に再興した。当郷の祈願所である。

11 瑞雲山安住寺・・・岡崎村にあり。福山郷の大安寺に末寺で曹洞宗。肝付氏没落の後、廃されてい
              たのを鹿屋院打馬に再興し、のち天正年間(1573〜92)に当地に移したという。
   
12 竹林山志福寺・・・岡崎村にあり。相模国藤沢山清浄光寺の末で時宗。享保15年(1730)に火災に
              遭い、由緒は不詳となった。

13 仏寺合記

   慈雲山弘誓寺―岩広村にあり。志布志大慈寺の末。臨済宗。開基は文和年間(1352〜56)、島津
             氏・第6代氏久。

   西台山極楽寺―有里村にあり。志布志大慈寺の末で、開山は大慈寺2世・剛中和尚。

   無量山安養院専念寺―柏原村にあり。浄土宗不断光院の末。天正年間(1573〜92)に島津義弘
              (松齢公=第17代当主)の命で建立。火災に遭い、由緒不詳となる。

 
 < 旧跡 >

14 鶴亀城・・・地頭館の裏山にあった。慶長年間(1596〜1615)以前は岩広村に属していたが、その後 は岡崎村に入る。
  初代島津忠久が三国の地頭職を補任されたころ(建久の頃=1190年前後)は、肝付氏の一族・北原延  兼が領有していたが、やがて日向国真幸院の院司となって移る。
  正中年間(1324〜26)に串良院地頭・津野四郎兵衛尉が一時入城したが、建武年間(1334〜38)に は楡井頼仲の拠るところとなった。元久公(島津第7代当主)の時代、文明6年(1474)には平田重宗が  領したが、明応4年(1495)に島津忠朝(豊州家の第3代=日向国飫肥領主)によって攻略される。
  永正17年(1520)年、肝付兼興(第15代当主)がこれを攻めたが落ちないでいたのを、志布志の新納忠 勝が加担し、大永4年(1524)、ついに島津方は降伏し、天文年間(1532〜1555)以降は肝付氏の居城 となった。だが、天正2年(1574)には肝付氏も島津に降り、同6年(1578)島津忠長(図書頭=伊作家島 津忠良の三男・尚久の子)が地頭となる。

15 城営等合記

   伊倉城―串良川が肝属川に合流するあたりに築かれた平城。城主は不詳。今は樹木が茂る。

   立小野坂之上―細山田村にあり。肝付氏征伐の時、御陣を置いた岡で、肝付郡一帯を遠望できる。

   寺之上―岩崎村にあり。安住寺の後の山がそれ。島津忠朝の家臣で鶴亀城を守っていた平山忠康と
         肝付軍が激しく戦った場所。戦死者の塚が多い。


 < 物産 >

16 飛禽類・・・鶴・鴨・雁・雉・鶉など。
          当邑の地、・・・水田、高山・大崎の二邑に接し、一望して広く、その際を知ることができない
         ほどである。本藩の中で、水田の広いことにおいては、当邑(串良)と高山とがまず第一で
         ある。次いで広いのが日向国真幸院であろうか。
          故に、ツル・カモ・ガン・カモメなどの水鳥の類、降り集まることはなはだ多い。

        ※肝属川河口地帯の水田の広さは鹿児島藩随一であると記している。また水田を含む河口の
         干潟の広大なことも読み取れ、そこに蝟集するツル・カモなどの冬の渡り鳥の多さにも驚いて
         いるような書き振りである。私見ではこのような渡りのカモを航海民にダブらせて名付け
        たのが「カモツキ(鴨着き)」であり、「鴨着く島」であるとみる。



                  
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