〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみの歴史講座〜

     [ 日向国・諸県郡・大崎郷 ]

     大崎郷
       現在は鹿児島県曽於郡大崎町だが、藩政時代以前は日向の諸県郡に属していた。

 <山水> 位置 概要 備考
 1、二石岡 地頭館の北北西1里12町の所にある 野方村にある。大崎郷で最も高い岡で、頂上に大きな石が二つある。郷内が一望のもとに収められる。 現在の草野丘(268m)である。
 2、菱田川 百引村から流れる百引川と市成村からの市成川が当郷の北で合流し「菱田川」と呼ばれるようになる。
 3、上瀬川 野方村に源流がある。田原川とも言う。河口付近を腸打川といい、昔、龍相城下の戦ヶ島で合戦があった時、戦死者の腸がこの川に多数引っ掛かっていたゆえ、腸打川と名付けられた。 大崎郷を貫流するのはこの田原川と西側にある「持留川」で、両河川は海の近くで合流している。
 4、菱田浦 地頭館の東1里10町ばかりに住む 益丸(ましまる)村にある。当郷の南の外れで、海沿いには漁師の家々が立ち並ぶ。 『大隅国風土記』によると、この川は現在の菱田川である。
 5、原野合記 ・藍之原 ・千間堀原 ・五色糸原(岡別府村・今村にかかる) 
 <居所>
 6、荒佐野原 あらさのばる。地頭館の北西2里15町あたりにある 野方村にある開墾地。元禄11(1698)年に藩の許可を得た泉州・摂州・土州の百姓51人(24戸)が入植し、同15年までに官田144石余りの地を拓いた。今(天保年間)は260人となり、徭役は免除されたままである。 泉州は和泉国、摂州は摂津国、土州は土佐国のこと。
 「荒佐野文書」が残っている。
 <神社>
 7、妻万五社
    大明神
地頭館の東南東7町に鎮座 仮宿村にあり、祭神はコノハナサクヤヒメ。勧請の年月は不詳。日向国五郡ごとに一社ずつある妻万宮の、諸県郡に於ける一社である。本宮は日向西都原にある。『三代実録』の天安2(858)年の記事に「日向国従五位上都萬神に従四位下を授く」とある古社で、日向国総廟と言われる。
 はじめ当社は志布志郷の原田村にあったが、天文9(1540)年に当地に遷った。
 当地の総鎮守で「一宮」とも言う。建久図田帳によると当社の宮領は98町もあった。
現在も同じ場所に鎮座する。ただし、ここは天文年間までは別の神が祭られていたようである。
 割注にあるように本田親盈の『日州神社考』では祭神を大足皇女・立速主命とする。後者は事代主命らしい。
 8、新熊野
   三社権現
地頭館の東北東23町ばかりに鎮座 益丸村の飯隈山照信院の境内にある。照信院開山の義覚上人の勧請という(慶雲5=708年)。照信院はその別当寺である。 祭神の記載はないが、熊野権現は一般に「イザナギ・イザナミ・ケツミコ」を祭っている。
 9、神社合記 ・二宮大明神(妻万宮に次ぐ社格。持留村にある) ・稲荷大明神(持留村) ・尾鼻権現(清泉が湧く) ・彦山三所権現(永吉村) ・三宮若王子社(益丸村)
・八幡社(仮宿村) ・伊勢大神宮(野方村)
最後の伊勢大神宮は荒佐野にあり、現在は「照日神社」となっている。
  <仏寺>
 10、宝捧寺
    多聞院
山号は如意山。地頭館の東北東半町にあり 鹿児島城下の大乗院末寺で、真言宗。当郷の祈願所である。
 11、翁松寺 山号は大龍山。地頭館の南12町 永吉村にある。高山郷の瑞光寺末。永正10(1513)年、開山の真翁慶観和尚が座禅している時、大松の上に白髪の守護神が現れたので、寺名が翁松となった。守護神は大黒天という。
 12、心慶寺 山号は大崎山。地頭館の東6町 曽於郡福山郷の大安寺末で、曹洞宗。高山領主・肝付兼久の建立という。当郷の菩提所である。 肝付兼久は14代当主
 13、飯福寺
    照信院
山号は飯隈山。地頭館の東北東23町余り 益丸村にある。京都の天台宗聖護院の末寺で、国内28正先達家の一つ。九州五ヶ国法頭かつ三州の年行司職を兼ねる。
 開山は義覚尊師。由緒記と今の住職修験・救仁郷氏の系図によれば、慶雲5(708)年に役行者の弟子である義覚(天平20=748年に示寂。90歳)が当地に下って開山し、併せて熊野権現を祭った。
 天平15(743)年、聖武天皇の勅旨により勅願所となり、寺領千石を賜った。以後、毎年、朝廷に鎮符を貢献するようになった。
 当寺の第36世別当・朝元法印は志布志蓬原城主・救仁郷頼綱の六世孫・頼世の弟である。延文4(1359)蓬原城陥落の際、頼世の弟・朝元が出家して飯隈山別当となった。勝者の島津第6代氏久は朝廷に別当の妻帯認可を求めて受理され、以後、救仁郷氏の子孫が法灯を継いで今に到っている。
 当初は寺領域が周囲4里20町余りあったが、のちに減じて2里20町、田領も473石になった。
・役行者は修験道の始祖と言われ、大和葛城山を本拠地とした。「神変大菩薩」と敬仰されている。
・救仁郷氏は肝付氏初代・兼俊の子・兼綱が始祖である。兄弟に兼幸(北原氏祖)、兼友(検見崎氏祖)、兼高(梅北氏祖)がいる。
・重要文書や御真筆などの書跡などが多数所蔵されていたが、廃仏毀釈の騒動で京都の聖護院に多くが移されたようである。
 14、仏寺
     合記
・月笑寺(仮宿村) ・浄円寺(野方村) ・杉谷寺(持留村) ・正明寺(益丸村) ・観音寺(野方村)
  <旧跡>
 15、大崎城 地頭館の南南西2町のところ 仮宿村にある。当郷は往古より肝付氏の所領で、肝付氏12代兼忠の三男・兼光が本家と不和になり、ここへやって来た(文明13=1481年)。
 以後、兼光は島津方に拠ったため、子の兼固は取り立てられて溝辺郷に移った。そして、その跡を志布志城主・新納近江守が兼領した。
 天文7(1538)年、北郷忠相と島津忠朝が襲い、島津忠朝の所領となるが、同13年には肝付氏16代兼続が攻め取った。しかし天文の末頃から島津忠親や北郷氏の交戦が続き、天正になると同8(1580)年、ついに肝付本家は滅亡することになった。
・北郷忠相は都城城主。島津忠朝は串間城主。
・肝付氏の降伏は天正2(1574)年で、当主は18代兼護の時で、兼護は阿多移封後も20年存命した。
 16、龍相城 地頭館の東南東18町ばかり 横瀬村にある。天文13(1544)年のころ、肝付16代兼続が大崎を知行していたが、23(1554)年に兼続は捕縛されたようである。その際、肝付家臣の薬丸弾正と蓬原地頭の大野出羽守の一騎打ちがあって双方ともに討ち死にしている。それを含め、戦死者が多く、その場所は戦ヶ島と言われて霊威・魔風の強いところとして怖れられている。 ・龍相城跡は大崎中学校の南東の海を望む台地の縁にある。比高15〜20mの台地は、田原川と持留川の両川に挟まれており、神領古墳群が広がっている。
 17、胡摩ヶ崎
      城
地頭館の西16町ほどの所 仮宿村にある。南北朝時代前期に楡井頼仲とその弟・頼重の拠る城であったが、延文2(1357)年に祢寝(ねじめ)清種・清増に攻められて頼重は戦死した。
 志布志の松尾城に逃れた頼仲は、進駐してきた武家方の将・畠山直顕の攻勢を支えきれず、大慈寺に入り自害して果てた。
 18、天守城 地頭館の東北東23町ばかり 益丸村菱田にある。楡井頼仲が志布志を領有していた時代、しばしば戦いのあった城という。
 19、大塚山 地頭館の南南東19町ばかり 横瀬村にある。
 周囲3町くらいの林叢で、往古は戦場だったと思われ、頂上には大きな石棺がある。事績の伝承無く、また石棺に年月・姓名の刻みも無い。
 古陶器などが今でも崩れて出てくることがある。
・現在の「横瀬古墳」のことである。天保時代にはまだ古墳時代という時代区分はなく、石棺を後世の戦死者の物と考えている。
 20、鳥井ヶ段 地頭館の北4里5町ほどの古戦場 野方村にある。元亀元(1570)年、北郷氏と肝付氏が戦った跡。北郷雲庵の戦死石塔や首塚などがある。時に甲冑・刀剣の類が掘り出されるという。
 21、遠見ヶ尾
      岡
地頭館の西北西2里30町ばかり 野方村にある。
 応永年間(1394〜1428)、肝付氏が鹿屋の肝付周防介を攻めた時、義天公(島津第8代久豊)が援軍を送ったが、その際にこの岡から鹿屋へ狼煙(のろし)を上げたという。草屋の跡が二ヶ所残っている。
・鹿屋氏は肝付本家5代兼石の子・宗兼が始祖だが、当時の領主・忠兼は本家に反して島津方であった。
           大崎郷の項終り                  歴史講座の目次に戻る