〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

 
第8回 大隅郡 小根占郷および大根占郷 


   小根占(ねじめ)郷

位置 概要 備考
<総説>
古祢寝院
(ねじめ)
肝属郡南部
及びそれ以南
古文書には今の小根占・大根占・佐多・田代を祢寝院としている。また、大姶良を含む大祢寝院と、それ以南の小祢寝院に分けている時代もある。
 それ以外に北俣・南俣と分けるが、北俣はおおむね大根占地域、南俣はそれ以南の小根占・田代・佐多を指している。
・小根占と佐多は合併で「南大隅町」、大根占と田代は「錦江町」となった。
<山水>
諸山合記 郷の東南方面2,3里には連山重峰がめぐり波濤の様である。最も高いのを大塚山、次を中の塚山という。 ・大塚山は稲尾岳、中の塚山は木場岳
を指すか。
小根占川 上流は田代。小根占の地頭館の傍を流れる。 俗に「麓大川」と言っている。下大隅地域で1,2を争う河川で、河口は広く、横幅50間ばかり、満潮時には大きな船も出入りする。川南地区に唐人屋敷、唐人町の名が残り、昔は南蛮船もやって来た。郷士・池端弥次郎の伝に、永禄3(1560)年に唐人と南蛮人とが戦い、その際、弥次郎が戦死した、とある。 ・現在この川は「雄川」と言われる。
・池端弥次郎を一時、ザビエルを案内してきたヤジローとする説があったが、今は否定されている。
赤瀬川瀑布 横別府にある 俗に「雄川瀑」と言っている。高さ33尋(約50m)、幅12間(約22m)。 現在の雄川ノ滝。昭和初期に発電のため取水され、大雨の後くらいしか勇壮な落下は見られない。
永良星瀑布 横別府にある 俗に「雌川瀑」と言う。高さ31尋(47m)、幅3間(5m)。 こちらを今は赤瀬川ノ滝と言う。
大川瀑布 横別府にある 小根占と佐多の境界にある。高さ35尋(53m)、幅8間(15m)。海まで近く、大川浦に流れ込む。
   大浜 山本村にある 渚の長さ10町(1キロ余り)。松林と白砂。西方には開聞岳が麗姿を見せて絶景である。
<橋道> 橋道という項目は初めてである。)
石走の橋道 山本村の海辺 佐多に通じる海岸道路で、奇岩絶壁があるため海側に4間の桟橋を架設して人の通交を可能にしている。 俗に「辺田目」と呼ばれる海岸地域は風化花崗岩がごろごろしている。
<神社>
諏訪上下
  大明神社
地頭館より東11町余り 川南にあり、祭神は二座。タケミナカタ命とコトシロヌシ命。勧請年月は不明。明応4(1495)年の鰐口、天文20(1551)年の棟札がある。当郷の宗社である。座主(別当)は東漸寺。 現在の諏訪神社。
津柱
  大明神社
地頭館より西南西に11町 川南にあり、祭神は不詳。天文14(1545)年の建部高清(施主)修造の棟札がある。 現在は戸柱神社。
若宮八幡宮 地頭館の裏山に連なる岡の上。 祭神は応神天皇・神功皇后・タマヨリヒメ。社司鶴田氏の祖先が京都鶴田より勧請し、最初は水流(ツル)に安置したが、のち現在地へ遷した。小松家家蔵の文書に「延慶2(1309)年、若宮ほか数社に寄進云々」と見え、その頃には勧請されていた。 ・現在も同じ場所にある。
・小松氏は島津氏に降伏後の吉利郷における祢寝(ねじめ)氏のこと。
建部
  大明神社
地頭館より
北東9町余り
川北にあり、祭神はオオナムチ命。小松氏家譜によれば「祢寝清重、建永2(1207)年、鎌倉を発し、祢寝院に赴く時、暴風に遭い遭難しかけたが、建部大明神に祈願したところ、無事に当地にたどり着いたので、氏神とした云々」とある。 現在の建部神社。
弁才天社 地頭館より北北東31町余 国見城の跡に残る。黒木家文書に、天正10(1582)年、祢寝清長が病を発し、近江の竹生島の弁才天に祈願したところ神験があり勧請した、とある 国見城は阿多凝灰岩台地の上にあった。標高160m。
正八幡社 地頭館より
南南東13町
山本村にあり、祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三座。社司・黒木家文書に、延文2(1357)年、摂津国広田八幡を勧請した、とある。 旧根占中学校に隣接して建つ。
鹿父(しかち)
大明神社
地頭館より
南1里余
山本村大浜にあり、祭神は不詳。勧請年月も不明だが、若宮八幡と同じ延慶2(1309)年に寄進を受けており、その頃にはあった神社。 現在は横別府の山中に遷されている。
<神社合記>
鬼丸
  大明神社
地頭館より
東16町余
社山を鬼丸という。祭神は祢寝重長(しげたけ)。天正8(1580)年に死した後、後を継いだ重張(しげはる)が建立した。寛永19(1642)年の棟札がある。
 他に御霊神社、立神六所権現、山王権現、登尾六所権現、今嶽十二所権現などが有る。
重長は祢寝氏16代。死の7年前に島津氏の軍門に降っていた。
<仏寺>
宝資山光寿院
  東漸寺
地頭館より
北西5町
川北にあり、本府の真言宗大乗院の末寺。当郷の祈願所である。開基は祢寝氏の支族・山本氏(円妙禅門・知泉禅尼)。正龍寺由来記によると、山本某が海で大鯛を釣り上げ、腹を割いたら「黄金」がたくさん入っていた。これを元手に根占に「東漸寺」、山川に「正龍寺」を建立した、という。 ・山本氏は山本村山田城が居城。根占の東漸寺は跡形もないが、山川港には正龍寺が今も残っている。(山川郷参照)
清浄山瑞泉院
  園林寺
地頭館より
東南東10町
川南にあり、越前興福寺の末寺。曹洞宗不見派。小松家譜によると、応永24(1417)年、祢寝氏第10代清平が島津久豊の軍に加勢し、川辺の松尾城にて戦死した。その霊を弔うために園林寺を建立した、という。開祖の玄明和尚の師は妙見和尚で、妙見は曹洞宗の始祖・道元禅師の嫡弟子である。 諏訪神社の前に、仁王像などが残るばかりである。
 蓮基山
  成園寺
地頭館より
東南8町余
川南にあり、相模の藤澤山の末で、時宗である。16代重長(しげたけ)の菩提寺として天正5(1577)年に建立された。重長の法名が成園であった。
高牧山願成院
  安楽寺
地頭館より
南へ7町余
山本村にあり、国分弥勒院の末寺で天台宗。
 仏寺合記 他に、珍叟山宝屋寺、西城山柏庭庵、甘心山了叟寺などがある。
 岩屋不動 地頭館より
東34町余
川南の不動山に崖があり、その一角に天然の洞窟がある。窟内には清泉が湧き、水中に不動明王の石像を安置している。昔、洞泉庵があった。
 虚空蔵堂 地頭館より
東北東16町
川南にあり、木製2尺5寸ほどの虚空蔵菩薩を安置している。かってここに勝雄寺という真言宗の寺があった。初代・清重の菩提寺として建立の古寺であった。
 <旧跡>
富田城 地頭館より
東24町
川南にある。一名、南谷城。祢寝(ねじめ)氏代々の居城である。
 建久8(1197)年の『大隅国図田帳』には「祢寝院南俣40丁、本家八幡地頭、掃部頭。郡本30丁、建部清重知らす所」とある。
 小松氏家譜に「清重の祖父・高清は平惟盛の子なり」とあり、高清は許されて高雄寺の文覚上人の弟子となったが、殺害された。その子・六代は執権北条時政と同じ平姓のよしみにより、救われて大隅国祢寝南俣の地頭職に補任され、当地に下った。名を平清盛・重盛から取って「清重」と改め、建部氏の婿になって建部姓を名乗った――という(ただし、氏名は地名から祢寝氏とした)。
図田帳の40丁は田の面積で40町歩、30丁は30町歩のこと、
国見城 地頭館より
北北東22町
川北にあり、三面は絶壁で東側の野首(大手口)から外部に通じるだけである。南北朝時代には本城を富田城から一時ここに移している。
 文和元(1352)年、志布志の楡井頼仲が攻めて来たが、清成はよく防戦し、楡井軍を退却させた。
 文禄の初め(1592頃)、17代重張は本拠を富田城からここへ移そうと計画していたが、その間に日置の吉利郷に改易となってしまった。
天下の名城だが、人跡稀な地にあるため、さほど有用にはならなかった。
野間城 地頭館より
東北東9町
建部神社の並びの小丘の上にあった古城。祢寝氏の家臣・野間武蔵守の居城だったという。
瀬脇城 地頭館より
南西32町
別名・汐入城。大川河口の左岸にある。祢寝氏の家臣・税所篤長の居城であった。
山田城 地頭館より
東南25町
余り
山本村にあり。祢寝氏族・山本氏の居城。(上記「東漸寺」の項を参照)
了叟寺僧
  入定石龕
地頭館より
東北東19町
川北にあり。高さ6尺9寸、幅3尺の石龕(石製の巨大な灯篭状の甕)に了叟寺第9世住持・明山という僧が入定し、三年余生きてから亡くなったという。遺骨は中に残っている。 現在は鬼丸神社近くの県道沿いにある。
橘山 地頭館より
東6町余り
川北にあり。16代重長が中国温州から苗を取り寄せて植えさせたもの。
<叢談>
武楽 武楽(ぶがく)とは俗に「士踊り(さむらいおどり)」と言われるもので、毎年7月16日に園林寺の貫明公(島津家16代義久)の霊牌の前で催される。
 そのいわれは、文禄2年(1593)年の吉利郷への改易に当たって、旧祢寝氏家臣も士分として存続するのを許された事への感謝の奉納踊りである。その日は園林寺と成園寺の両寺の境内において踊りが披露される。
鎌倉実記抄 この書の第7巻に、根占に入部して種子島から沖縄までを征服しようとした長田致時(むねとき)の事が記載されている。
 致時は、頼朝の叔父で京都に入ったものの周囲から孤立してしまった木曾義仲に取り入り、これと組んで上のことを実施しようとしたが失敗した。寿永2(1183)年のことだという。
 

  
  
  大根占(おおねじめ)郷

位置 概要 備考
<山水>
諸山合記 当郷の高山を剥石峰(はぎいしのみね)と呼ぶ。土地の者の狩猟地である。 現在の地名は「半下石」と書く。
神之川 水源は剥石峰で、東から西へ流れて錦江湾に注ぐ
中原谷川、尾家谷川の渓流が合流している。
瀑布合記 川路瀑布(高11間、幅5間)、尾家谷瀑布(高7間、幅4間)、中原谷瀑布(高13間、幅4,5間)がある 川路瀑布が今の大滝だろう。
<神社>
 川上
  大明神社
地頭館より
東南東12町
仮屋村にあり、祭神は4座あれど不詳。社説に、上古、天竺の摩可陀国の末姫がここに渡来し、祭神はその姫であろうとするが、祭神4座では合わない。不詳とするほかない。ただし当社より北西1町に「マカダ」という所がある。姫の居所跡だという。
 当社は川上にある故に「川上大明神」と名付けられたとも云う。天正12(1584)年、建部重堅・重虎の棟札あり。
 若宮
  大明神社
地頭館より
北北東26町
神之川村の高城跡にあり。社記に「往古、当邑の高城主・祢寝五郎太夫藤原義光、若宮を勧請し、神鏡を安置す」。また「社内の木像は、元暦2(1185)年、義光の長男・義良が父の姿を模し、一刀三礼の所作にて彫刻した」とある。 高城は現在の肝属郡医師会立病院の脇の台地にあった。根占の国見城と似ている。
諏訪上下
  大明神社
地頭館より
北東30町
神之川村、鳥浜水田中の林にある。当社は嘉慶元(1169)年、神之川村の諏訪原に創建された。
 旗山
  大明神社
地頭館より
東南東2里30町ばかり
仮屋村にある。本殿に南北2座が並び、南位を旗山大明神、北位を狩長大明神という。旗山大明神の祭神は「大戸道尊・大戸閉尊」。あるいはサルタヒコともいう。狩長大明神の祭神は不明である。
 「旗山」名のいわれは、大岳公(島津氏9代・忠国)が肥前の志々岐岳より良竹を移し植え、その竹を使って朝鮮の役の時、松齢公(17代・義弘)が旗竿に使ったということで、神社が旗山神社と呼ばれるようになった。
狩長神社のことは詳しく触れられていないが、旗山神社よりはるか昔から祭られていたのが「狩長の神」であったはずである。
淵上
 三所権現社
地頭館より
西北西1里余
神之川村にあり。祭神は不詳。
神社合記 柴山大明神社、八幡宮がある。
<仏寺>
説法山慈眼院
  報恩寺
地頭館より
南南西26町
大根占村にあり。本府の大乗院の末寺で真言宗。当郷の祈願所である。
 竜樹山
  天松院
地頭館より
南南西15町
大根占村にあり。小根占・園林寺の末寺で曹洞宗。
当郷の菩提所である。
 天正2(1574)肝付氏と戦ったとき、島津・根占方として救援に来て戦死した喜入忠通(喜入氏は本を糺せば肝付氏の分流)の墓がある。
薬師堂 地頭館より
北北東23町
神之川村の瑞積庵の境内にあり。治承年中(1177〜1181年)に、祢寝五郎太夫義光が安置したという高さ1尺1寸余りの十二神将(木像)がある。
<旧跡>
高城 地頭館より
南南東1里余
神之川村にあり、一名、神川城。祢寝五郎太夫藤原義光が居城としたと言われる。その後、祢寝院南俣の富田城を居城とする建部姓祢寝氏が代々ここをも統治するようになった。
 だが、藤原姓祢寝氏と建部姓祢寝氏は同族ではない。藤原姓祢寝氏は当郷と大姶良郷とを併せ領し、分家に大姶良・獅子目・濱田・横山の4家がある。
 また建部姓祢寝氏はその祖・清重が祢寝院南俣地頭職を得て当地に下って建部氏の婿となり、次第に勢力をふるって藤原姓祢寝氏の所領の北俣に進出し、そのため藤原姓祢寝氏は北の大姶良一郷のみに追いやられ、そこさえも肝付氏の蚕食するところとなったのである。
藤原姓祢寝氏は「冨山(とみやま)氏」のことだろうと言われている。
 木場の上
   古戦場
地頭館より
南南西10町
大根占村にあり。天正2(1574)年、肝付氏などが祢寝を襲った。喜入季久・忠通兄弟がよく防いだが、弟の忠通と根占の東漸寺住職が戦死した場所が木場の上古戦場である。今は水田になっている。


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