〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

    第9回  [ 大隅国 大隅郡 田代郷
および佐多郷
 ] 

 
      田代郷
 (根占郷を割いて地頭を置く。仮屋の位置は田代支所の向かい側)

位 置 概      要 備  考
<山  水>
諸山合記 最高峰を荒西嶽という。絶頂に大きな平石がある。俗に
天狗の住処と言っている。その他、白石ヶ塚峰・重嶽・六郎館嶽・赤木牟礼嶽などがある。みな高峰である。
 土地の者は多く狩猟を業としている。
荒西山は834b。六郎館岳は754b。重岳はどの山を指すか不明。
花 瀬 地頭館より東南、1里余 大根田村川原にある。六郎館岳を源にもつ花瀬川の中流で川底が一枚岩を呈しており、その長さは8町余りもある。川幅は30余間。流れの深さは1〜2寸しかなく、川水が岩の表面を紋をなして流れるため白い花に見えるので「花瀬」と名付けている。
 24代円徳公の時、宝暦元(1751)年11月にここを巡検し、遊覧をしたあとの茶亭が今に残る。
 花瀬より1里半下ると大瀑布(小川瀑布)となる。
 応永五(1398)年、田代領主の田代刑部少輔清久が田代の境界を記した文書に花瀬川の名が見えるので、その頃から知られていたことは確実である。このように天下に又とない景観でありながら、訪ね来る人は稀であるのは、辺陬の土地柄のゆえで、花瀬にとってはまことに不幸と言わざるを得ない。
・円徳公は島津家24代重年のこと。この領主の時にかの「木曽川改修工事」の幕命が下り、1年半の難工事の末、見事に治水は完成したが、藩士50数名が命を落とし、あまつさえ資金計画(予算)9万両と見積もっていたのが40万両近くに膨れ上がり、それらの責任を取り、工事総奉行・平田靭負(ゆきえ)が自決している。
麓 川 水源は荒西嶽。小川瀑布より1町ばかり上流で、川原川に合流する。
小川瀑布 地頭館より西23町ばかり 花瀬川と麓川が合流してから落ちる高さ25、6間(47〜8m)、幅50間(90m)。滝壺の深さは33尋(50m)あるという。滝の下流の両崖は30間(48m)の高さでまるで屏風のように屹立している。
 宝暦元年、円徳公はここにも遊覧している。
・現在「雄川の滝」と言っているが、大正年間に雄川発電所が設けられ水流は発電用に取られて豪快な落水はない。
<神 社>
鵜戸権現社
 (鵜戸窟)
地頭館より東南2里6町 大根田村川原に「鵜戸山」があり、その直下に洞窟がある。北向きで深さ13間、横幅15間、高さ3間。洞窟入口の左手に小瀑布が落ちる。「鵜戸の滝」と呼んでいる。
 土人は神代の陵であると言い伝えている。この陵の形状は姶良郷の鵜戸の陵によく似ている。また同じく土人の説では、この地はウガヤフキアエズ尊の養老の場所だそうである。高千穂山の四周には神代皇居の伝説地が多いが、この地も高千穂に近いので何か縁故のある所なのであろう。 ○近戸神社がすぐ上にある。
・現在は「大原地区」に属し「鵜戸野」という地名になっている。
 明治6年の皇孫三代御陵選定に当たっては、ここもウガヤ尊陵(吾平山上陵)の候補地に挙げられている。
北尾
  大権現社
地頭館より東方6町 当社は古来、田代郷の宗社だが、祭神は不詳である。初めは北尾六所権現と称したが、安永8(1779)年に京都の吉田家へ請い、大権現位の免許を得たという。
 元禄6(1693)年、社殿再興時に20代大玄公より白銀4枚喜捨あり、との棟札がある。
・大玄公は第20代藩主・綱貴である。
<仏 寺>
  如意山
威勝寺宝寿院
地頭館より東南東9町 鹿児島本府の真言宗大乗院の末寺で、本尊は虚空蔵菩薩。当邑の祈願所である。
  妙浄山
   宝光寺
地頭館より東11町余 大根田村麓にあり、本府福昌寺の末で曹洞宗。開基年月は不明だが、開山の竹窓知巌和尚は応永30(1423)年に遷化している。
 小根占郷の園林寺第四世・梅屋宗英和尚を中興開山として勧請している。当邑の菩提所である。
・宝光寺には「年代記」が伝世されている。いわゆる「九州年号」であり、和年号より古いとされている。
  妙清山
   祟忠院
地頭館より北西40間 曹洞宗・宝光寺の末寺で、本尊は聖観音菩薩。
<旧 跡>
勝尾城 地頭館より南南西3町 大根田村麓にあり、本丸・二の丸・三の丸・西丸などが残る。得仏公の頃から、田代次郎兼盛の所領であった。兼盛は伊予坊時盛の二男で、ここを所領とした。
 建治2(1276)年、石築地の賦に「田代十町、御家人七郎助友」とあり。応永年間(1394〜1428)に祢寝清平が田代を併合したことが旧記に見えている。しかし同17年には恕翁公が田代刑部少輔久助に与えている。
・得仏公は初代島津忠久のこと。
・伊予坊時盛とは、佐多の領主である。
・祢寝清平は祢寝氏第10代。
・恕翁公は第7代元久。
原田城 地頭館より東27町 大根田村を流れる麓川上流の山城で、本丸・二の丸が残る。応永年間から田代久助の居城であった。

       佐多郷 (地頭館は伊座敷にある)
位 置 概     要 備  考
<総 説>
北極出地の
 度数
貞享暦では、北極出地の高さは京都35度、江戸36度、熊野34度、高知33度半、長崎32度半、そして佐多は本土最南端でその度数は31度である。
 南方の琉球国はおおよそ25度で、北の蝦夷松前が42度・南樺太が51度であるから、その南北差は26度で、統治の及ぶ範囲が26度もあるのは世界でも大国の部類に入る。
・本土最南端という認識を強く押し出して議論している。「北極出地」という語はすべて「度」(北緯)で表した。
橘氏
東西遊記抄
『東西遊記抄』にも、津軽が極北で42度2分、、極南は佐多で31度、その南北差は12度ほどもあり、日本はけっして小国ではない―とある。 ・橘氏は橘三渓のこと医師だが諸国を行脚して地歴書を書いている
<山 水>
御崎山
御崎三所権現
地頭館より南西5里余 山崎村にある。御崎(岬)は海に3里ほど突き出ている。尖端は断崖絶壁で数十丈の高さがある。山上には石巌堆積し、その間にソテツが繁茂している。
 その中腹に神社がある。御崎三所権現という。祭神は底津少童(そこつわたつみ)・中津少童(なかつわたつみ)・上津少童(うわつわたつみ)である。ただ六所権現という場合もあり、その祭神は後述の「近津宮」と同じである。
 正月19日・20日に「浜殿下り」の祭典がある。19日は本社より御輿を担ぎ、田尻・大泊・外之浦・間泊・竹之浦などの浦々を経て、郡の近津宮へ出向き、翌20日には近津宮境内に運びいれ、打植え祭(春祭り)を行う。
 社伝では、当社は和銅元年(708)、3月3日の霊訓により創建したという。
 ○近津宮・・・郡村にある。祭神は六座。三座は御崎権現と同じだが、さらに底筒男命・中筒男命・上筒男命の三神が加わる。
・御崎は佐多岬のこと
・祭神の三少童は俗に綿津見と書くが「海神」のことで、住吉大社の奉祭する神々(底筒男・中筒男・上筒男)と同じである。
 私見では住吉三神は「港の守護神」である。
御崎の迅潮
 (はやしお)
海に突き出た岬によって潮が跳ね返り檄し易く、岬から種子島の間の数里は常に暴浪逆巻き、海路の難所中の難所になっている。
 船人がここを通過する時はその潮の流れを察し、満ち干きに乗じて舟を走らせる。昔、大きな船が通りかかった際、大渦の中にひき込まれてたちまち海底に沈んだが、何と種子島近海に浮かび出たことがあったという。
稲尾嶽 地頭館より東方6里余 佐多郷の東北は連山重畳としており、小根占・田代・内之浦各郷の山と接している。稲尾嶽はその連山の中で突出しており、山頂には祠がある。稲尾権現である。
 本社は高山にあるため、山麓に近津宮が設けられ、白佐権現と称する。
・現在一般的に「稲尾岳」と呼んでいるのは「枯木岳(959m)」のことで、祠のある佐多町側のピークこそが稲尾嶽である(930m)。
下平川 水源は当邑の木場嶽で、この川が小根占郷との境をなしている。 ・木場岳(891m)は稲尾岳の真西8キロほどにある。
島泊浦 地頭館より西方1里半 伊座敷村にある。島泊浦の海上に岩礁が二つ並び、一方を初島、他方を島山と名付けている。初島には弁才天が祀られ、弁天島ともいう。少しばかりの海浜があって家々は漁を業としている。小さな塩田もある。
大泊浦 地頭館より南3里ほど 辺津加村にある。良湾になっており、種子島・内之浦へ往来する舟はみなここに停泊する。港湾の景色はすこぶる佳い。 ・大泊は佐多岬への入口である。縄文時代の貝塚があり、指宿式土器が出ている。薩摩半島との繋がりもあった。
<居 処>
薬 園 地頭館に近接する 当邑は本藩の最南部にて暖気の地ゆえ、種々の奇薬・珍菓を植えている。創立の年月は不詳だが、家老・菱刈實詮が宝暦・明和の頃、建議して創設したと言われている。 ・現在も同じ場所に残り、竜眼などの珍菓が実る。国指定文化財である。
立目野牧馬苑 地頭館より西方16町 伊座敷村の高台にある。周囲およそ3里24町、東南は陸地、西北は海に面する。元禄年間(1688〜1704)に創設されたと伝える。馬は130頭ばかり飼われている。 ・3里24町はおよそ14、5キロ。
潦 哨 地頭館より西方28町 潦哨の「潦(リョウ)」は「口へんのリョウ」だが、字がないので代用したが、潦哨は「とおみばんどころ(遠見番所)」とルビがふってある。
 立目崎の海岸、海上を一望できる岩山にある。
・遠見番所は辺路番所(いわゆる関所)と並んで薩摩藩では極めて重要な部署であった。
<神  社>
稲牟礼大明神 地頭館より南西10町 伊座敷村にあり。祭神は道祖神(神体は鏡)。土人の伝承では、ここは開聞神社の内で、往古、開聞神を勧請して創建した時、御輿を稲倉に置いて休息したゆえ、稲牟礼社と命名した。
十三所大明神 地頭館より東方4里 辺津加村にある。祭神不詳。社記に、当社は往古、日向国福島の十三所明神が社司の童に懸かり霊訓があったため勧請した、とある。 ・日向国福島とは串間のこと。
<仏  寺>
蓬莱山
医王院来迎寺
地頭館より南1町 伊座敷村にあり。本府大乗院の末寺で、真言宗。開基は不詳だが、当邑の祈願所である。
薬王山曹源寺 地頭館より南5町 小根占郷・園林寺の末寺で、曹洞宗。当邑の菩提所となっている。開山は可参寿印和尚(寛文元年=1661年遷化)。
補陀洛山
極楽寺
地頭館より東南2里 郡村の高木城址の下にある。本府・大乗院の末寺で、真言宗。開基は不詳。御崎権現の別当寺である。
<旧  跡>
高木城 地頭館より東南2里 山崎村にある。本丸・二の丸等の跡が見える。往古、源頼朝公の頃、佐多新太夫高清が領主だったという。
 建久図田帳(建久8=1197年)の大隅国図田帳に「佐汰十町、賜大将殿御下文、建部高清知行之」とあるが、そのことを証明している。
 また野上田伊予坊時盛が佐多を領有したが、その後裔の佐多太郎久秀が承久の乱で戦死して佐多家は絶えてしまった。
 その後、島津氏第4代忠宗の三男・島津三郎左衛門忠光が佐多を領有し「佐多氏」の祖となった。南北朝時代高木城は祢寝氏との攻防の場となり、永徳元(1381)年、3代目の氏義の時に祢寝氏第9代久清により攻略され、4代目の親久は佐多を離れて薩摩の知覧へ移った(知覧佐多氏の開祖)。その後は代々祢寝氏の領有が続いた。
・佐多新太夫高清は図田帳に見える祢寝(ねじめ)氏の鼻祖・建部高清である。高清の父方は平清盛につながるという。清盛―重盛―維盛―高清。嵩清は出家して妙覚となったが許されて佐多を得た(建仁三年=1203年死去)。子の清重は祢寝氏を名乗った。
 その後5代目の清治の時に根占の富田城に移ったとされる。
城址合記  ○圍之城・・・辺津加村にある。里人の言に「祢寝氏の城で、竹崎駿河守が守っていた」とある。祢寝氏系図、第10代清平の弟に清息(号:竹崎)がいるが、この人物らしい。
 ○城之崖・・・伊座敷村にある。里人は「佐多氏の城跡なり」と言う。佐多氏3代目氏義の弟に二郎五郎忠重がいて伊座敷村を領有したとあるので、おそらくこの人であろうが、確証はない。

 
      <大隅郡 田代郷・佐多郷の項は終わり>             歴史講座の目次に戻る