「大隅国」について

    はじめに
 平成25年(2013年)は鹿児島の東半分にあった律令制下の国「大隅国」が旧日向国から分立して1300年にあたる記念すべき年である。
 そこで「大隅国」について、その成り立ちと前史を見ていくことにする。

    大隅国の成立

 
 大隅国が旧日向国から分離したのは、和銅6年(713年)の4月3日であった。旧暦の4月3日であるから太陽暦で言うとおおむね5月半ばということになる。その史料は『続日本紀』であり、和銅6年は第43代元明天皇の7年目に当たる。

 ・『続日本紀』元明天皇7年の和銅6年(713)4月3日の条(注:旧字体は新字体に直してある。)

 丹波国の加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割きてはじめて丹後国を置く。備前国の英多・勝田・苫田・久米・大庭・真崎の六郡を割きてはじめて美作国を置く。日向国の肝坏・曾於・大隅・姶羅の四郡を割きてはじめて大隅国を置く。・・・(ア)

 
 同じ日に大隅国を含めて三ヵ国が建国されている。丹後国も美作国も同時に1300年を迎えたことになる。
(※正史に建国の年月日が掲載されるのは珍しく、他の令制国は既地名としていきなり登場するのが通例である。)
 さて、大隅国は旧日向国から分割されたとあるが、実は薩摩半島側の「薩摩国」も旧日向国から分割されてできた国である。だが、薩摩国の建国年月日は不明である。しかし次の史料によっておおむね大宝2年(702年)であろうということが分かる。

 ・『続日本紀』文武天皇6年の大宝2年(702)・8月1日の条

 薩摩・多祢、化を隔て命に逆らふ。是に於いて兵を発して征討せしむ。ついに戸を校し、吏を置く。

 「王化に浴さず逆らったので武力で制圧し、戸籍を調べ、官吏を置く」とあるので大和王権から出兵があり、制圧されたのち官吏が配された時点で薩摩国建国の条件は十分であろう。

 以上から旧日向国(現在の鹿児島県と宮崎県を併せた国)はまず、702年に薩摩国が分離し、さらに713年には大隅国が分立して令制国の「日向国」となり、713年以前の広大な日向国から現在のほぼ宮崎県に重なる日向国に縮小したことになる。ここを押さえておかないとたとえば「日向神話」などを読む際に<筑紫の日向の小戸の阿波岐原>の場所を「日向だから宮崎県のことだ」と早とちりをしてしまうことになる。これは広大だった時代の旧日向国での語りであることを忘れてはならない。


    日向・薩摩・大隅という地名

 ところでこの「日向」「薩摩」「大隅」という国名は何に由来するのだろうか?
 まず、「日向」であるが、これは神話時代から使われており、「日に向かう」つまり東と南が豁然と開けた地形からの命名であることは論をまたない。九州では宮崎と鹿児島がこれに相当し、本州では茨城県が「日立つ地」から「常陸」と命名されたのと軌を一にしている。
  
 次に「薩摩」だが、これは意外に難しい。というのは初めて史書に登場するのが地名ではなく、人物名だからである。

 ・『続日本紀』文武天皇4年(700年)・6月3日の条

 薩末の比売・久売・波豆、衣評督(えのこほりのかみ)衣君・縣(えのきみ・あがた)・助督(すけのかみ)衣君・弖自美(えのきみ・てじみ)、又、肝衝難波(きもつきのなにわ)、肥人等を従え、兵を持ちて?(「不」に「見」でベツと読む)国使・刑部真木等を剽劫(ひょうきょう)す。是に於いて筑志の惣領に勅し、犯に准じて決罰せしむ。

 ここに見えるように「薩末(薩摩)」地方の首長(ヒメ・クメ・ハヅ)が、薩摩半島の衣(頴娃)地方の郡司ら、及び肝属地方の肝属難波とともに、南九州を調査に来た大和王権の官僚・刑部真木ら一行を脅迫・妨害したので、筑紫の惣領(のちの大宰府)に命じて罪なわせたという剽劫事件の首謀者として出てくるのである。
 漢字は「薩末」だが薩摩を表していることは疑いがない。だが、この「薩摩」という地名がいつからあるのかというと、史料上には見いだせない。
 そもそも薩摩国の前身は阿多(国)であった。この阿多は神話時代からある名称で天孫の初代ニニギノミコトが国まぎして阿多の笠狭の岬に行き、そこで出会ったのがオオヤマツミノカミの娘「神吾田津姫」(カムアタツヒメ)であった。吾田は阿多と同じである。大分あとになるが次の史料が見える。

 ・『日本書紀』天武天皇紀10年(682年)7月3日の条

 隼人多く来たりて方物を貢げり。是の日、大隅隼人と阿多隼人、朝庭に於いて相撲を取り、大隅隼人これに勝てり。・・・(イ)

 相撲の節会の起源としても興味のあるこの一節によると、まだ薩摩隼人とは呼ばれずに阿多隼人としてあるので、682年の時点では薩摩という地名はまだ存在しなかったことが分かる。このあと、686年・687年と「阿多隼人」で記録され、日本書紀での最後の記載は次のようである。

 ・『日本書紀』持統天皇紀6年(692年)閏5月4日の条

 筑紫大宰の率・河内王らに詔して曰く、「宜しく沙門を大隅と阿多に遣わし、仏教を伝ふべし。」
…(ウ)

 この時点でもまだ薩摩は阿多と呼ばれていた。
 ところがこれから8年後の上の剽劫事件のあった700年までには、阿多が薩摩に改変されたとみられる。しかしアタからサツマでは似ても似つかない変化である。一体どうしてこのようになったのであろうか。
 サツマはよく言われるように「海幸・山幸神話」の「幸(サチ)」から、「サチツマ(幸の間=幸の国)」となり、サツに仏教用語で観音菩薩をあらわす「薩」が当てられて「薩間」から「薩摩」へと定着したのであろう。「摩」も「摩訶般若」の「摩」である。
 持統天皇の詔勅にあるように中央集権国家への求心力の手段としての仏教が大隅・阿多という南九州にもたらされた結果と言え、広い意味で政治的命名と言えるだろう。

 最後になったが、「大隅」について。
 大隅を含む史料は、上に提示した(ア)(イ)(ウ)以外に次のものがある。

 ・『日本書紀』天武天皇紀14年(695年)6月20日の条

 大倭連・葛城連・・・大隅直・・・など併せて十一氏に、姓を賜ひて忌寸といふ。 

 ・『同上』同天皇紀15年(朱鳥元年=686年)9月29日の条

 次に大隅・阿多の隼人及び河内の馬飼部造、各々誄
(しのびごと)たてまつる。

 (これは9月9日天武天皇が崩御したあとのの宮でもがりをした時の様子を描いたものである。)

 ・『同上』持統天皇紀元年(687年)5月22日の条および7月9日の条

 是に、隼人の大隅・阿多の魁帥、各々衆を率ゐて互いに進みて誄たてまつる。

 辛未に隼人の大隅・阿多の魁帥ら三百三十七人に賞賜ふ。各々差あり。


 (大隅・阿多から上京し、5月22日にもがりの誄をたてまつったその返礼に337名の隼人たちに賞与を行っている。)

 ・『同上』同天皇紀9年(695年)5月13日および21日の条

 隼人の大隅を饗す。
 
 隼人の相撲とるを西の槻の下に観る。


 「大隅」が確実な史料として記載されているのは以上だが、年代的には史料(イ)の682年というのが最も古く、これ以前にすでに「大隅」という地名が出来上がっていたことが分かる。「薩摩」が692年の仏教の導入以後であるのに比べると10年以上さかのぼることになる。建国が薩摩国は702年ごろ、大隅国が713年と、大隅国建国のほうが10年余り遅れているのとは対照的である。
 以上のどの記事においても「大隅」が記される場合、割注でたとえば「意富須美」というような訓読みの指定はない。実は日本書紀にはもっと古い「大隅」の使用例があるのだが、その場合でも同様な訓読みの指定はなく、日本書紀では大隅は最初から「大隅」という漢字とセットで使用されてきたことが分かる。

 その古い使用例とは次の三ヵ所である。

@応神天皇紀22年(年代不詳。おおむね400年代初期)
 <天皇、難波に行幸す。大隅宮に居させたもう。>
A同天皇紀31年(同上)
 <天皇明宮において崩ず。時に年百十一歳。(割注)あるいは云う、大隅宮に崩ずと。
B安閑天皇紀2年(535年)9月の条
 <(天皇が)別して大連に勅して云う「宜しく牛を難波の大隅島と姫島の松原に放つべし。ねがわくば後に名を垂れむことを」と。>

 これらの記事に共通しているのも「大隅」に対する訓読み指定、たとえば割注で「意富須美」というような書き込みはないので、ここでも「大隅という漢字ありき」との編集姿勢が見られるのである。

 以上からすでに「大隅」という地名は現地に元からあった地名ではなく、新たに大和王権側から付けられたいわゆる政治的命名であることがうすうすは分かろうというものだが、『倭名類聚抄』(930年頃成立。源順著)の「諸国郡郷一覧」を見れば、そのことは明らかである。


   「大隅」は政治的命名であった

 『倭名類聚抄』の「諸国郡郷一覧」の大隅国は建国当初より郡の数が倍に増えて8郡になっている。大隅国内に新たに二郡が誕生し、さらに種子島・屋久島の二郡が加わったためである。8郡は以下の表に示した。

郡名 読み
菱 刈
桑 原

大 隅
姶 羅
肝 属
馬又 
熊 毛
  比志加里
  久波々良
  曾於
  (なし)
  阿比良
  岐毛豆岐
  五牟
  久末介
  ヒシカリ
  クワハラ
  ソオ
  (オオスミ)
  アヒラ
  キモツキ
  ゴム
  クマケ

 「郡郷一覧」では郡名の下には必ず小字で訓が付されている。聴きなれない地方名を間違いなく読ませるためであり、地方官吏などの便に供してもいるわけだが、大隅国の郡名を見ると「大隅」だけ訓が付いていないことに気づかされる。

 大隅は誰が読んでも「おおすみ」としか読めないから付けなかったとも考えられるが、それなら「菱刈」「桑原」「熊毛」なども誰が読んでもそうとしか読めない到って平凡な漢字であるから、これらにも訓は付けなくてよさそうなものである。それが付いているとはどういうことか。これらは現地の土着名だからであろう。つまり地元で付けられた名前をそのまま採用して郡名にしたのである。

 その一方で、訓を付けない「大隅」は地元由来の地名ではないということになろう。「大隅」と書けば「おおすみ」としか読めない、というか読まないとして創作してきた地名だからだろう。音読みではダイグウだが、もし地元の地名であるならばそう読むことも無きにしも非ずで、そう読まれないためにも「意富須美」というような訓注は「菱刈」や「桑原」と同じように必要不可欠だったはずである。

 以上から「大隅国」の大隅も、「大隅郡」の大隅も、「大隅郷」の大隅も「薩摩」と同様、すべて大和王権側からの命名と考えてよいと思う。その意味するところは大和王権側から見て「大いなる隅の国」だからである。千葉県には「夷隅郡」という郡名があるが、これはやや侮蔑的な用語で「王化に浴さない隅っこの夷人の住む郡」戸の意味である。これに対して同じ隅っこではあるが、「大」が付されているので逆にやや尊重されたようなニュアンスを持っている。ここではその理由は省くが、上代から古代にかけて大きな勢力を有していた大隅の歴史を無視できなかったためだと考えたい。
 
 それでは大隅全体を現す現地語はそもそも何であろうか。薩摩の場合いは「阿多」であったが、上記の表から判断してまず、「曽」が最も普遍的な地名であり、大隅半島部に限れば「姶羅」「肝属」がそれに次ぐ現地名だろう。
 また「姶掾iあいら)郷」が姶羅郡に含まれず、「大隅郡」に入っているのは、大和王権側が大隅国を分立させた際に、姶羅郡のもっとも肥沃な中心地(姶搴ス)を強制的に新しくできた「大隅郡」に取り込んだからである。それによって強大な姶羅郡勢力の分断を図ったのであろう。

 大和王権の強制的な支配は薩摩国側でも大隅国側でも大きな反発を招いたが、特に大隅国司・陽候史麻呂の時に大隅隼人は大規模な叛乱を起して大和王府の心根を寒からしめた(養老4年=720年)が、ここからはこの小論の範囲を越えるので立ち入らない。                   (この項終り)

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