「大隅宮」と唐仁古墳群

  【 鹿児島考古学の陥穽と新しい取り組みの必要性 】

鹿児島県の大隅半島部には多くの古墳群がある。
鹿児島県全体を見比べても、いわゆる「畿内型高塚古墳」が突出して築かれた地域である。
 これらの被葬者をめぐってはこれまでの考古学的見地から、「クマソ・ハヤトという蛮族の住む地域にも畿内から前方後円墳という首長層の墳墓が伝播し、かなり遅れて築かれるようになった。」という学説が盛行していた。
 この状況に異議を唱えたのが鹿児島大学の考古学者・橋本達也氏で、2009年10月24日に開催されたシンポジウム「熊襲・隼人の時代を語る」(鹿児島県歴史資料センター黎明館主催)の中で
大略次のように述べている。(引用は当日配布されたレジュメからである)


 「大隅においても少なくとも古墳時代前期中葉段階(4世紀前葉〜中葉)以前には古墳築造の始まっていたことが明らかとなっている。塚崎古墳群中の前方後円墳はそれをさらにさかのぼる可能性が高く、九州南部の古墳時代を停滞した社会、他地域より相当遅れて「古墳が伝播する」とする視点は正しくない。また、古墳時代前期に限らず情報は徐々に伝播するものではなく、常に同時代併行で連動している。従来強調されてきた「隔絶」・「孤立的な社会」・「世の進運に取り残された」は当たらない。」

 「古墳時代においても(とくに畿内からのー引用者注)移住者も存在するだろうが、地域ごとの首長系譜や同時代他地域との地域間関係の中に位置付け、その移住者が古墳を築造する要因・社会的背景の説明が必要である。個別の古墳を捉えて畿内からの派遣者としても印象論・思い込みに過ぎない。前方後円墳の出現は対畿内の一方的な「畿内古墳文化」の伝播などで説明されるものではなく、首長系譜の展開と地域間関係の分析が必要である。」

 「熊襲・隼人は7世紀後半以降の古代国家の枠組みの中に位置付けられた存在であって、九州南部の古墳時代人の実体ではない。先ずは、資料分析に基づいた古墳時代研究が基本である。各種資料の形式学的研究、他地域資料との比較による地域間関係、首長系譜の展開など古墳時代全体の動態の中で地域を再検討する視点が必要である。
 それらを通して九州南部古墳時代社会の地域的特質が明らかになれば、地域の側からの多元的な視点による新しい古代国家形成史像の構築に大いに貢献し得ると思う。しかし、そこに『記紀』の記述を前提とした特殊性を強調したなら、古墳時代社会の中での相対的な評価から切り離されてしまい、新たな視点は生みださない。
 これからの九州南部の古墳時代研究に、熊襲・隼人は不要であると筆者は考える。」



 鹿児島県考古学界では古墳時代に関しては、1980年代からの全国的な古墳時代研究の進展から取り残されてきた、とも橋本氏は述べている。それだけ「熊襲・隼人=化外の民=遅れた種族」という先入観がはびこっていたのである。いや、今でも傾向としては抜きがたく脳裏に刻まれているようである。
 これでは一向に南部九州の古墳時代(をはじめ古代史)の客観的な研究は進まない―と危惧し、引用の最後の部分にあるように―「これからの九州南部の古墳時代研究に、熊襲・隼人は不要である」とまで氏をして言わしめている。

 筆者も全く同感である。自分は考古学など資料的なことは全くの素人であり、多少、邪馬台国関連の中国側史料や『日本書紀』『古事記』など日本側の文献を調べているのであるが、中国側史料はひとまずおいておくとして、 『記紀』の「南九州の反逆する民・熊襲を討伐する説話(景行天皇紀・記)」や「近習隼人サシヒレが住吉仲皇子を裏切って殺したので、逆に誅殺される説話」などで描かれた定番的な<熊襲・隼人化外の民>説を踏襲した考え方は改めなければならない。

 そしてまた、神話研究に見られる「隼人の祖は皇孫ホホデミの兄ホスセリである―と記述してあるのは、化外の民・反逆する民ハヤトを皇孫の一員として描くことによって懐柔しようとした」あるいは「古日向からの神武東征などと云うのは有り得ず、ただ日向という地名に付会させた造作である」というような説も改めなくてはならないと考える。

 前者に関して言えば、日本列島(世界全体)でも最古に近い土器群を1万数千年前に作っているのは南九州であり、7500年前には最古の壺(型土器)も製作している。しかしその直後くらいに鬼界カルデラが大噴火を起し南九州文化はほぼ壊滅する。ところが場所によっては轟式土器がその噴火による堆積物(アカホヤ)の上下に見られるので、南九州から最古の土器群を造った熊襲の祖先というべき南九州人が完全に消滅したわけではなく連続性は保たれたことが分かっている。

 また、後者に関しては筆者の魏志倭人伝及び記紀の研究から、古日向(宮崎・鹿児島)は「投馬国」であり、神武東征とは「投馬国王タギシミミの東征」に他ならず、南九州からの「東征」「東遷」は間違いなくあった―との結論を得た。これは、神武東征を「作り話」「おとぎ話」と毛嫌いせずに、真摯に取り組んだ成果と考えている。


    【 応神天皇の「大隅宮」と唐仁古墳群 】

 さて、先に応神天皇の亡くなったとされる「明宮」、一説に「大隅宮」(『日本書紀』)はどこにあったかについて論じ、大阪東淀川区にあったとされる「大隅宮」は造作で、本当は鹿児島の大隅半島部にあったのではないかと結論付けた。
 また、古事記では応神天皇の宮を「軽島之明宮」と記す。この「軽島」は一般的には大和の畝傍山と岡寺のある甘樫の岡との中間点の大軽町のことであろうとするが、宮跡などを特定する資料は出ていない。
 そもそも「軽島」とはどんな地名縁起によるのだろうか?
 「カルシマ」の「シマ」は「島」のほかに考えようがないが、「カル」は「カ」と「ル」の合成と見ると、次のような解釈も成り立つのではないか。

  軽島=軽+島=(「カ」+「ル」)+島=(「鹿」+「児」)+島=鹿児島

 「児」は今日は「ジ・二」と発音するが、中古音としては「ル」もある(全訳『漢辞海』135ページ「児」は「日(ル)」の平声、とある)。もともと「鹿児島」と書いて「カルシマ」と読んでいたのが、律令政策において「佳字二文字で表せ」という地名への規制により、「軽島」となったものであろう。

 以上のように「軽島」が本来は「鹿児島」であれば、鹿児島県の東の半島部「大隅」地名を遡上させて記述された「大隅宮」が「軽島之明宮」に他ならないことへの整合性は付く。
 
 この整合性が正当なものであるとの前提からは、次のような仮説が成り立つはずである。

 すなわち、<応神天皇の「大隅宮」と5世紀初頭より築造され始めた大隅の「唐仁古墳群」との間には密接なつながりがある>という仮説である。

 唐仁古墳群は鹿児島県肝属郡東串良町という肝属川(串良川)水系の下流域を擁する町に所在する。古墳群は東流して志布志湾に注ぐ肝属川に北から流入する串良川の合流点から下流へ2キロほどの左岸微高地(標高5b内外)に展開する。そこは縄文時代には波打ち際と言える地点で、肝属ラグーン(仮称)の中で砂丘化した部分であったとされる。

 その縄文砂丘と呼ばれる微高地一帯(最大幅1、5キロくらい)にいわゆる「畿内型高塚」のみ約140基が築造されており、驚くほど密集度の高い古墳群である。

 盟主級の前方後円墳は6基が確認されており、その内の最大のものが「唐仁1号墳」(通称で唐仁大塚)で環濠部を含む墳長は183m、後円部の径は98m、高さ12.5mを数える。昭和7年(1932)に後円部頂上に鎮座していた神社が損壊し、建てなおす際に墳頂の竪穴式石廓が開けられて調査されたが、石棺は舟形で内側は朱塗り、傍らには鉄剣の他、鉄製の鎧が置かれていたという。
 石廓を覆っていた花崗岩一枚板の石蓋は長大で270pもあり、この大きさは他では見られないものであるという。

 1号墳のほかに3基の前方後円墳があるが、最大でも60m台の墳長であり、1号墳の被葬者の卓越した勢力の大きさが推定できる。
 1号墳の築造年代は、副葬品に鉄製の鎧があったことから、5世紀代をさかのぼることはないとされ、おおむね5世紀の前半、上記の橋本達也氏の推定では5世紀初頭という。
 いずれにしても、4、5世紀(3〜400年代)に活躍し、その後ここに埋葬された当地の首長が眠っているとしてよい。

 その候補として挙げられるのが、当地に「大隅宮」を構えていた応神天皇である。しかし応神天皇には河内に「誉田山古墳」(420m)という大古墳がゆるぎない被葬地として挙げられており、今のところそれを否定し去る根拠を持ち合わせていないので軽々に述べることはできない。

 当ホームページ内の『記紀を読む』シリーズで「仁徳紀を読む」を掲載したが、注記の最後の仁徳天皇の寿陵(大仙古墳)の箇所で、そこの元の地名が石津原だったのに、古墳築造中に「百舌鳥に耳を食い破られた鹿」の出現と死があったので百舌鳥原と改名したとあるが、それは単なる地名変更説話ではなく、南九州の投馬国王ミミが仁徳と争って敗れたことの暗喩である―と書いておいた。
 すなわち仁徳天皇は河内から葛城までの勢力(葛城氏)を支持母体とし、一方の応神ーウジノワキイラツコ勢力は和珥氏(ウジノワキイラツコの母方)を支持母体とした二大勢力の確執があり、結果として仁徳側の勝利に帰したことを意味する説話(地名譚)であると考えるのである。

 このことはまた、応神王朝と仁徳王朝は並立して存在し、応神ー仁徳関係は親子ではないとしたことにもつながってくる。応神天皇とウジノワキイラツコは真の親子であろうが、仁徳天皇については武内宿祢の子・木兎(ヅク)宿祢と同じ日に生まれて名を交換し合ったとの記述があり、もしかしたら仁徳天皇は武内宿祢の子であるのかもしれない。

 応神天皇も武内宿祢にとって切っても切れない関係にあり、誕生のころから面倒を見続けて来ており、一説では真の父親は仲哀天皇ではなく武内宿祢であるともいう。

 どちらにしても南九州が本貫の武内宿祢という存在が応神と仁徳との間の亀裂を回避してきたのだろうと思われる。応神は九州島を舞台として半島における倭人の権益を守るべく高句麗への出兵を担当し、仁徳は河内において倭国内の統一を図ることに専念していた。その過程で畿内における一大勢力であるウジノワキイラツコとの争乱いがあり、勝利を収めた。

 その後、倭国内は仁徳によって統一され、半島における高句麗との戦いも終焉して「聖王仁徳の時代」を迎えるに至った。その証左が巨大な大仙古墳の築造であった。
 一方で、応神天皇(ホムタワケ)は本貫は南九州ながら、半島内の戦果・戦績に大いに関与したということで、当時の倭国の中心部であった河内に、もう一つの巨大古墳(誉田山古墳)が築造されそこに葬られたのであろう。

 以上のように考えると、大隅半島最大の唐仁1号墳(唐仁大塚)の被葬者は応神天皇ではないことになる。
 するといったい誰であろうか?
 次なる候補としてすぐに挙げられるのが武内宿祢であろう。

 武内宿祢は4,5世紀頃の歴代天皇に仕えた大和王朝側の重臣であるのに、なぜ熊襲の領域の大隅半島と関係があるのだ。話が逆さまではないか。―このように思われるかもしれないが、実は武内宿祢は仲哀天皇の時に仲哀天皇が「熊襲を討つ」場面でも、神功皇后が「熊鰐」や「羽白熊鷲」というような北部九州の熊襲系の部族を討つときも、ともに参加していないのである。不可解ではないだろうか? しかし武内宿祢その人が熊襲領域の出身者(首長)であれば、当然のことなのである。

 さて、武内宿祢は日本書紀の記述からは景行天皇3年に生まれ、成務・仲哀・神功皇后・応神・仁徳の5代にわたって重臣として仕え、紀年を合計すると280歳ほどになり、「こんな超長寿は有り得ない。武内宿祢は各天皇代の重臣群像を一人に負わせて記述したもの。そのような造作であるから武内宿祢という人間は歴史上存在しない」―と言われてきたスーパースターである。

 ところが、筆者が調べたところ、古事記では第10代崇神天皇以下16代仁徳天皇の各天皇の崩御年がそれぞれ干支で記されており、それを次に挙げてみる。(ただし、垂仁・景行の両天皇については記載なし)

      10代 崇神天皇  戊寅の歳  推定 西暦 318年
      11代 垂仁天皇  (記載なし)
      12代 景行天皇  (記載なし)
      13代 成務天皇  乙卯の歳  推定 西暦 355年
      14代 仲哀天皇  壬戌の歳  推定 西暦 362年
         ( 神功皇后  日本書紀では己丑の歳 389年 )
      15代 応神天皇  甲午の歳  推定 西暦 394年
      16代 仁徳天皇  丁卯の歳  推定 西暦 427年


 推定の西暦と治世期間との間におおきな齟齬はないと思う。ただし、書紀における神功皇后の崩御年389年が正しいとすると、応神天皇の治世はわずか5年ということになり、応神天皇紀の41年とは齟齬がありすぎる。応神王朝は仁徳王朝と並立していたので、実際には412年頃が崩御年である。王朝の並立を認めない記紀記述の限界・矛盾点がここに表れていると考える。

 さて、書紀によれば、武内宿祢は上記の第12代景行天皇の3年目に「阿備の柏原」に父・ヤヌシオシオタケオココロ、母・カゲヒメ(ウジヒコの娘)の子として生まれている。この景行3年を西暦何年と見るか。垂仁から成務まで3代・48年であるから1代平均16年としてみると、景行3年は330年代と推定される。
 次に武内宿祢の死亡年を考えてみると、仁徳天皇の時に久し振りに呼び出されて「日本列島で雁が卵を産むことがあるか?」という疑問(諮問)に「それは聞いたことがありません」と答えたという事績を最後に一切登場し亡くなるので、仁徳天皇の崩御を待たずして死んだと考えられる。すると死亡年は427年を過ぎることはないから、武内宿祢の寿命は最小が87歳、最大では97歳位が計上されこの程度の長寿なら上代にもいておかしくはなく、事実、魏志倭人伝には「その(倭)人は寿考(長生き)、ある(者)は90、あるいは100(歳)」と記述しているのと矛盾しない。

 さらに、武内宿祢が生まれた「阿備の柏原」であるが、書紀では紀国にあるように記述するが、紀伊には現実としては存在しない地名である。これが大隅半島なら「阿備」(アビ)を連想する「阿比良」(アヒラ)地名があり、柏原に至ってはそのものズバリの地名が肝属川河口部に存在する。

 以上から武内宿祢の実在は確実と言うことができよう。
 武内宿祢の墓としては大和の御所市南部にある「見瀬丸山古墳」等が比定地として挙げられているが、確証には至っていない。

 筆者としては大隅の唐仁大塚の被葬者こそが応神王朝(大隅宮)への最大の庇護者・武内宿祢ではないかと思量する。

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