応神天皇紀を読む

誕生     父:仲哀天皇(タラシナカツヒコ) 母:神功皇后(気長足姫=オキナガタラシヒメ)
         
筑紫の蚊田(宇美町)に生まれる。西暦364年ごろ。

和風諡号
  日本書紀:ホムタワケ尊
          古事記:ホムダワケ命


       吉野行宮・大隅宮…どちらも行幸先として登場する。
         明宮(あきらのみや)…ただし即位時点での記載ではなく、ここで崩御した―とあるのみ。
         古事記軽島之明宮

陵墓      記載なし(ただし明宮で崩御。割注に「一
(ある)は云ふ。大隅宮に崩ず、と」とある。)
          古事記:川内惠賀裳伏岡(えがのもふしのおか)

正妃    ナカツヒメ(景行天皇の曾孫)

皇子・皇女  ナカツヒメ…アラタヒメ・オオササギ・ネトリ
         タカキイリヒメ…オオナカツヒコ・オオヤマモリ・イザノマワカ・オオハラヒメ・コクミタヒメ
         オトヒメ…アベヒメ・ミハラヒメ・ウヌヒメ
         ミヤヌシヤカヒメ…ウジノワキイラツコ・ヤタヒメ・メトリヒメ
         オトヒメ(川俣仲彦の娘)…ワカヌケフタマタミコ
         イトヒメ…ハヤブサワケ
         イズミナガヒメ(日向)…オオバエ・オバエ


  宮の注で述べたように、書紀では古事記のような宮を記さず、「吉野の行宮」(19年条)と「大隅宮」へ     の行幸」(22年条)のように正宮ではないと思われる「吉野行宮」「大隅宮」の2宮を記す。
  また、御陵について古事記では「川内恵賀之裳伏岡に在り」と記すが、書紀には陵名はなく、分注で「明宮に崩御する。一説では大隅宮で崩御とも」と書くだけである。
  書紀のこの「宮も御陵も書かない」のは、書紀の編集方針と考えられる。(注)でも書くが、応神天皇が実際には大和地方に宮がなく、九州を本拠地としていた、したがって正宮も御陵も九州にあるのを隠すためだと思われる。


         < 年代順の事績 >

紀 年 事        績 備    考
元年(390)  太歳庚寅(390年)に即位。  26歳の頃。
 2年(391)  仲姫を皇后にたてる。 「辛卯の年(391)倭が渡海し、百済新羅を破り臣民となす」(広開土王碑)
 3年(392)  大浜宿禰(安曇連の祖)を海人の宰領とする。
 百済、阿花王を立てる(辰斯王を殺害)。
 紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を百済  に派遣する。
 木菟宿禰(ヅクノスクネ)は皇子オオサザキ(仁徳天皇)と同日生まれ。
 8年(396)  百済人が来る(『百済記』に言う。王子・直支を天朝に遣わして、先王のよしみを修めせしむ、と)。  阿花王の即位(百済本紀)
 この頃、仁徳天皇即位(仁徳王朝=河内王朝との並立)か
 9年(397)  武内宿禰を筑紫に派遣する。異母弟のウマシウチスクネの讒言に遭うが、壱岐真根子の献身に救われる。 応神紀では武内宿禰登場の最後の場面。
 13年(402)  諸県君牛諸井の娘・日向髪長姫を召す。皇太子のオオサザキに与える。
 ※分注に「諸県君牛諸井は長く朝廷に仕えていたが、高齢のため国に帰ることになった。代わりに娘を入内させるため船でやってきたが、鹿皮を身に纏っていたため鹿子の群れと間違われた。彼らが寄港した場所を鹿子に因んで鹿子水門(かこのみなと)と名付けられた」とあり、船子が「かこ」と言われるゆえんと、兵庫県加古川が「かこがわ」と呼ばれるようになったという二つの命名譚となっている。
 諸県(もろかた)は南九州の霧島山東麓の宮崎県東諸県・北諸県・都城市および鹿児島県志布志市・曽於市をカバーする一大地域で、住人はいわゆる熊襲の一類である曽人であった。
14年(403)  弓月君を迎えに葛城ソツヒコを加羅に派遣する。
15年(404)  王仁博士を招くため、荒田別らを百済に派遣する。 「倭が帯方界に侵入したが、壊滅させた」(広開土王碑)
16年(405)  百済王・阿花の死。直支を後継に擁立する。
 ヅクスクネ・的戸田宿禰を加羅に派遣し、帰路、弓月君以下120県の人民を連れて帰る。
的戸田宿禰(いくはとだのすくね)は元来「盾人宿禰」で「的戸田」と改名したのは、仁徳天皇の十二年のことであり、時系列的に逆転している(→応神・仁徳朝並列説の根拠)。
20年(406)  倭漢直の祖・阿知使主とその子・都加使主が一族17県を率いて到来する。
22年(407)  大隅宮へ行幸。妃の兄媛(吉備の御友別の娘)の望郷。
※大隅宮こそが応神天皇の故地であろう。これ以後の25年条、28年条、31年条、37年条、39年条、40年条は仁徳天皇の年紀に入ってしかるべき内容である。
28年(411)  ウジノワキイラツコを太子とする。 応神王朝の後継としてウジワキイラツコの宇治王朝を指名した。
41年(412)  (軽島)明宮にて崩御(110歳)。※分注に「一に云う、大隅宮にて崩御(ともいう)」とある。
 宇治王朝元年。また仁徳王朝は16年ほど経っていた。
ワキイラツコの宇治王朝開始。だが、河内には仁徳王朝もあった。
宇治王朝2年  オオヤマモリ皇子の叛乱を防ぐ。 「仁徳紀即位前紀」
宇治王朝3年  ウジノワキイラツコの自害により宇治王朝は終焉。
 仁徳天皇紀の元年でもある。
「仁徳天皇即位前紀」に、オオヤマモリ皇子の死を悼むワキイラツコの長歌の直後に「既にして宮屋を菟道(宇治)に興して居ます」とあり、しかも、3年経っても位をオオサザキ(仁徳)に譲ろうとして即位しなかった、とも書く。

(注)
木菟宿禰・・・ヅクノスクネ。武内宿禰の子でオオサザキこと仁徳天皇とは同じ日の生まれ。そのため名を替え合ったという(「仁徳紀元年条」)。応神天皇3年に武将の一人として百済に派遣された。
 この年、応神天皇は28歳ごろであったが、ヅクノスクネは武将としての半島への派遣であるから、少なくとも18,9歳であったはずで、これと同い年の仁徳天皇が、応神天皇の子であるとすると仁徳天皇は応神天皇が10歳か11歳くらいの少年の時に生まれたことになり、これはどうみても不合理である。
 したがって応神天皇と仁徳天皇に父子のつながりはないと見るのが妥当といえる。

武内宿禰・・・前節の神功皇后紀でもふれたが、武内宿禰は実在人物で南九州の大首長だったとみる根拠を4つ挙げておく。
@<名前の分析から>…武内宿禰は「たけし・うち・すくね」と読むが、「武」を古事記では「建」と書き、国生み神話の九州島の4つの国の内の「建日別は熊曽国なり」の「建」であり、「建」一文字で「熊曽」を表しているとしてよい。また「内」は「うつ」であり、「うつ」は古語で「全剥ぎ(うつはぎ)」の「全」の意味であるから「まったき状態」すなわち「すべて、完全無欠な」という意義を持ち、これを南九州では「宇都(うと)」地名で表している(ただし本来的に「宇都」は「うつ」と読むべきなのに「うと」と読み慣わしているのは間違いではあるが・・・)。
 さて、以上の「武」と「内」から、「武内(たけしうち)」とは「南九州熊曽国の完全無欠な状態の土地がら出身」ということを表している、と言うことができる。
 次に「宿禰」の意味だが、これは大方の解説書が「少兄(すくなえ)」すなわち長男を表す「大兄(おおえ)」に対して弟であることを意味している、と解く。しかし書紀には「宿禰」は数限りなく登場するが、それに比べると「大兄」は数えるほどしか出てこない。もっとも有名なのが天智天皇の「中大兄皇子」の「大兄」で、あとは彦人大兄という景行天皇の皇子、勾大兄皇子(安閑天皇)、山背大兄王(聖徳太子の長子)など十指に満たない数しかいないのである。この点について、長兄は概して活躍せず、次兄以下の者の方に著名人が多かったからだ――などと言うのは現代ならいざ知らず、古代の長兄の重要性を知らない妄見だろう。
 そうでないことは、他ならぬ当の長兄である武内宿禰からしてそうだし、武内の7人の息子たちもそうなのである。その7人の息子とは「ハタノヤシロノ宿禰・コセノオカラノ宿禰・ソガノイシカワノ宿禰・ヘグリノヅクノ宿禰・キノツヌノ宿禰・カツラギノナガエノソツヒコ・ワクゴノ宿禰」(古事記・孝元天皇記)というように、長兄だろうが次兄だろうが三兄だろうが、ソツヒコ以外すべてが「宿禰」になっていることから「宿禰=少兄」説は明確に否定できる。
 では「宿禰」とは何か?私見では「宿根」で、「土地(領地)に根を宿すこと」の意味だろうと考えている。
 「宿禰」という漢字自体は天武朝で新設された「八色の姓」制の宿禰を援用したのだろうが、その八色の姓のうち、宿禰は真人、朝臣に次ぐ第三の姓で、もっと昔の身分制で言えば「君」に当たる姓だろう。「君」とは臣下への姓である「臣、連」よりは上で、地方豪族の臣姓と言われる「直(あたい)」よりも独立性の強い豪族に与えられた。この独立性の強い豪族のことを「宿根(すくね)=土地に根を宿した=土着の豪族」で表現したのではないかと考える。それを「宿根」では野卑なので「宿禰」と好字化したのだろう。
 以上から「武内宿禰」とは「南九州熊曽国の完全無欠なウツ状の土地に土着した首長」と捉えて差し支えないものと思う。
 また生まれは、父であるヤヌシオシオタケヲココロが「阿備柏原(あびのかしわばら)」に滞在中に「紀直の遠祖・ウジヒコの娘・カゲヒメを娶って生まれた――とある(景行紀3年条)が、「阿備(あび)」とは「阿比」「阿比良」のことで、大隅半島の中心部は神武天皇の妻となった「阿比良ツヒメ」の居住地であった。したがって生まれからも南九州であることが分かる。

A<熊襲を討つ、という手柄がない>…武内宿禰は仲哀天皇が「熊襲を討つ」ために北部九州まで遠征したのに、肝心の熊襲を討とうという際になると、決まって登場しない。
 また、神功皇后が仲哀天皇に代わって新羅を討つ際にも、肝心の新羅征討軍の中には参加したような書き方がなされていない。北部九州における神功皇后の事績には近臣として数々の活躍をするのに、征討中は姿を見せていないのは不自然。
 
さらに新羅からの凱旋後、神功皇后は筑前、筑後の熊襲の一党らしき「ハジロクマワシ」や「タブラツヒメ」を誅伐するのだが、この時も武内宿禰の関与は全くない。
 以上から察すると、武内宿禰こそはクマソ族の首長であった、としておかしくない。

B<いつも北九州からは南海航路を使用している>…武内宿禰が北部九州から畿内に戻る描写が2回あるが、そのどちらもわざわざ「南海航路」を通って帰っていっている。その2回とは
 T北九州の宇美で生まれたホムタワケ(応神天皇)を、神功皇后の頼みで大和に連れて行く時に「武内宿禰に命じて、皇子を懐きて横しまに南海より出でて、紀伊水門に泊まらしめ・・・」(神功皇后摂政元年2月条)た。
 U応神天皇の9年、宿禰は筑紫(九州)の巡察を命じられて赴くが、異母弟のウマシウチ宿禰に「兄は三韓と図って筑紫の王者になろうとしている」と讒言され、危うく命拾いをしたあと畿内に戻るが、その際「時に武内宿禰ひとり大いに悲しみ、ひそかに筑紫をさりて海に浮かび、南海より廻りて紀水門に泊まる・・・」
――というように北部九州から畿内に戻る際には、必ず南海の黒潮ルートを使っている。
 南九州には討つべきクマソがうじゃうじゃ居るのに、わざわざ南海のルートを選ぶのは不可解である。T・Uとも瀬戸内海か日本海ルートを利用すれば距離的にも近く、波も穏やかだろうになぜ南海航路を選ぶのだろうか?
 これも武内宿禰が南九州のクマソの首長であれば説明がつく。

C<筑紫を我がものにしようとしている――と讒言された>
…腹違いの弟・ウマシウチノスクネ(母がヤマシタカゲヒメではなくタカチナヒメ)が筑紫に居る武内宿禰を「・・・ひとり筑紫を割きて、三韓を招き、おのれに朝(拝)せしめて、ついに天下を有たむとせり」(応神紀9年4月条)と讒言したが、この讒言の内容はウマシウチノ完全なでっち上げではないだろう。また、書紀編纂上の造作(粉飾)でもないだろう。
 書紀における造作論の骨子は「天皇の権威をより一層高めるために、わざと反逆的人物を仕立てて誅殺し去る」というもので、それまでさんざん大忠臣として描き尽くしてきた武内宿禰をこの期に及んで貶めて何になろうか。それでは探湯(くがたち)の末に敗れ去ったウマシウチ宿禰の方を貶めるために造作したのだろうか?
 それもなさそうである。ウマシウチは誕生記事以外には、この応神9年に突然登場し讒言を吐くだけの役回りである。それ以前の専横的な活躍でもあれば話は別だが、全くない人物を引き摺り下ろしても造作上の効果はほとんどあるまい。

 それより、事実これに近い事態があったとして良いのではないだろうか。武内宿禰が南九州クマソ族の大首長であればこのような事態も説明がつくのである。

 以上の4点で「武内宿禰が南九州クマソ族の大首長であった」という論証は終わるが、それにしても宿禰の超長寿が実在性をためらわせる張本人である。
 今度は宿禰の寿命について考察したい。
 武内宿禰は景行天皇の3年条にその誕生が記され、登場の最後は仁徳天皇50年3月条となっている。書紀の各天皇紀の紀年をそのまま加えると、58+60+9+69+41+50=287年という膨大な寿命になる(ただし仁徳天皇50年が死亡年であるとした場合)。もちろん各天皇の治世期間が書紀の長さでは不合理極まりないことは、今日誰もが認めることである。
 武内宿禰はじめ神功皇后など、神武東征やその前史の日向四代記(二ニギ・ホホデミ・ウガヤ・ワカミケヌ=神武)と同様、造作のおとぎ話に過ぎないと一蹴してしまう「科学的歴史学者」ならいざ知らず、おとぎ話にも話を創作するモチーフ(種)や創作(誇張)方法というものはあり、その方法を逆探知していけば「種」がおぼろげながら分かろうというものである。
 もっとも方法論を探知するまでもなく、応神紀に登場する「百済王・王子の去就」「半島への出兵」などから、『三国史記』の「百済本紀」や『広開土王碑』の紀年からして、応神天皇の在位はおよそ西暦390年頃であるという大枠が分かっているので話は早い。また古事記には武内宿禰が仕えた天皇・皇后6名のうち「成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇」の4人については崩御年が干支で記されているから、それを考え合わせれば宿禰の大体の寿命が特定されるはずである。4人の天皇の崩御年を干支と共に西暦に直すと次のようになる。

     成務天皇・・・乙卯年三月十五日・・・西暦355年
     仲哀天皇・・・壬戌年六月十一日・・・西暦362年
     応神天皇・・・甲午年九月九日・・・・・西暦394年
     仁徳天皇・・・丁卯年八月十五日・・・西歴427年


 このうち応神天皇と仁徳天皇は、私見では親子でなく別の王朝の並立と考えるので、応神天皇の崩御年は仁徳天皇の治世期間にかなり食い込み、西暦で412年を想定している(上の事績表参照)。
 それ以外はおおむねこの西暦で正しいと思われる。
 武内宿禰が生まれた景行天皇3年が特定でき、仁徳天皇の治世期間中に死んだことが間違いないとすると、宿禰の寿命は最大で<427年−景行3年の西暦>歳となる。
 では景行天皇3年の西暦は何年であろうか。これを特定する手がかりはやはり天皇の崩御年しかない。今度のは景行天皇の2代前の祟神天皇の崩御年「戊寅年」がそれである。この年を西暦で言うと、268年か318年が該当するが、上の崩御年の分かる4代の天皇の平均在位が18年であるから、成務天皇からは3代前となる祟神天皇の崩御年は西暦301年の頃となり、「戊寅年」は西暦318年として大過ないことになる。祟神天皇の次の垂仁天皇も仮に18年ほどの在位とすると、景行天皇の即位は330年台と見てよい。したがって景行天皇3年は330年台と特定されよう。 
 
これを上の式に投入すると、以下のようになる。

      88歳 ≦ 武内宿禰の寿命 ≦ 97歳

 長生きでもこの範囲であれば有り得ない話ではない。
 しかし、90歳と言えば現代でも長寿の部類に入る。97歳となれば超長寿で、まして1600年前の古墳時代の人物がそんなに長生きするものか――という疑問はもっともである。だが、魏志倭人伝には「その人(倭人)、寿考、或は8,90、或は90、百(歳)」と書かれている。三世紀当時から倭人は長生きだったのである。
 ※この「80、90、百歳」を「倭人は2倍年歴で数えたから、実際は40、50歳である」とする学説があるが、魏志倭人伝は倭人の言葉を中国人が解釈し、中国人読者向けに書かれた史書であることを無視する臆説である。   
 
 以上の証明から、武内宿禰は「南九州クマソ国の大首長であり、90歳くらいまで活躍した実在の人物」ということが言えたのではないかと思う。

諸県君牛諸井・・・もろかたのきみ・うしもろい。諸県は備考にも記したように、南九州の大隅半島北半分と宮崎県の諸県郡(東・北)を併せた地域で、クマソ国がのちに隼人族(薩摩隼人・大隅隼人・日向隼人)の住むところと言われるようになってからは「日向隼人」の地域に重なる地帯である。中心は都城市で牛諸井と娘の髪長姫は、市内の早水神社に祭られている。
 牛諸井の「牛」は動物の牛ではなく「大人」の「うし」であろう。すなわち「首長」の意味である。
 応神天皇の12年条の分注の書き方からすると、諸井は「航海族」でもあり、それまで応神朝に仕えていたが年老いたため日向諸県に帰ることになった。そのため娘を入内させようと船で連れて来た、という。
 不思議なことにそれまで大活躍していた武内宿禰は応神紀からは消えうせ、次に登場するのは仁徳紀元年のオオサザキ誕生説話とずっと飛んで50年条の最後の場面だけである。したがって牛諸井という首長は実は武内宿禰のことではないか、とも思えてくる。このことは「武内宿禰が南九州のクマソ国の大首長であった」とする私見とは矛盾しない。牛諸井はわずかこの分注に現れるだけなので、特定のしようがないのであるが、少なくとも武内宿禰と同じ南九州の首長であったことは疑いない。

加羅・・・カラ(『賀洛国記』の「賀洛」のこと)。カラは広開土王碑に「任那加羅」として登場するので、4世紀終りにはあった地名。ただ三世紀の魏志倭人伝では「狗邪韓国」というように「カヤ」と呼ばれていた。カヤは「伽耶」とも書く。おおむね洛東江流域を指し、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)で言えば、弁韓を意味している。

的戸田宿禰・・・いくは・とだのすくね。元の名は「盾人宿禰」で、高句麗から鉄の的が送られてきたが、誰も射抜けなかったのに盾人宿禰だけ射抜くことができたため、天皇から「的戸田宿禰」という姓名を賜与された(「仁徳紀12年条」)。姓の賜与は仁徳朝での出来事なのに、前代の応神朝の16年に既に「的戸田宿禰」として登場しているのは間違いとしてもありえぬ間違いであり、このことから応神朝と仁徳朝は並立していたと考えておかしくはない

大隅宮・・・書紀には御陵の記載もないが、正宮の記録も無い。前代の神功皇后にしろ後代の仁徳天皇にしろ、どちらにも宮と御陵の記事はあるのだから、どちらもないということは真に不自然であり、ある意図から書かなかったと考えるほかない。このことを「だから仁徳天皇の分身として造作した天皇なのだ」と付会する学説が存在するが、それならそもそも応神天皇紀など書かなければよいわけで、はなはだ説得力に欠ける見解である。
 私見では大隅宮は文字通り大隅半島、つまり南九州のクマソ国にあったと考える。ただ、大隅という地名は天武朝のころに付けられたので、応神天皇時代の地名ではなかった。しかし、このことはまだ倭人国家が「日本」と呼ばれる以前から、はるか以前の天皇名に「大日本(おおやまと)」が付けられているのと同じ編纂上の脚色として問題はないだろう。

ウジノワキイラツコ・・・菟道稚郎子。応神天皇と武振熊の娘・ミヤヌシヤカヒメとの間の皇子。「仁徳天皇即位前紀に「既にして、宮屋を菟道に興して居ます」とあり、また『播磨風土記』の揖保郡・上はこ岡の項に「宇治天皇」と記されていることから、天皇位に就いていたとしてよく、応神天皇の28年条で高句麗からもたらされた上表文は、応神天皇宛ではなくワキイラツコこと宇治天皇あてだったのかもしれない。
 だが、宇治天皇はわずか足掛け3年にして仁徳王朝に滅ぼされた。妹の八田皇女はワキイラツコが与えたのではなく、仁徳側に連行されたのだと思われる。



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