応神天皇と「大隅宮」および「大隅島」

 はじめに

 前項「大隅国について」で、大隅という名称の古い例として、日本書紀の中から、第15代応神天皇時代の「大隅宮」と第27代安閑天皇時代(西暦530年頃))の「大隅島」を参考に挙げた。ここではこの「大隅宮」と「大隅島」について考察する。


 応神天皇紀に掲載の「大隅宮」

 応神天皇紀には「大隅宮」が二ヶ所に見られる。以下の通り。

@応神天皇紀22年・・・難波に行幸し、大隅宮に滞在する。
A   同   41年・・・2月15日、天皇、明宮にて崩御。【割注】あるいは云う。大隅宮にて崩御、と。


 以上のように、応神天皇紀では難波に行幸して大隅宮に滞在したことと、崩御の場所として本文では「明宮」とあるのに対して、割注で「大隅宮」で崩御したとあり、二ヶ所に「大隅宮」が登場する。

 不可解なことに応神天皇の皇居について、実は、書紀ではAの41年条に「明宮」とあるのが最初にして最後の記載なのである。ふつうは天皇が即位すると、その元年の条に皇后名・皇居名・皇子皇女名が記述されるのだが、応神天皇にはそのうち皇居名の記載がない。
 
 一方で、古事記ではいの一番に「軽島之明宮(かるしまのあきらのみや)」が皇居であると記されている。
 また、陵墓についても古事記には「川内恵賀之裳伏岡陵(かわちのゑがのもふしのおかのみささぎ)」と記されているが、書紀には記載がない。古事記が皇居も陵墓もはっきりと記しているのに、古事記よりはるかに詳しく事績を載せている書紀が皇居(死の場所としての明宮は記されているが即位の場所ではない)も陵墓もともに記していない。これはまことに不可解千万である。

 さて、難波に行幸して「大隅宮」に滞在した―とあるので大隅宮は難波地方のどこかにあると考えるのが、まずは順当な見方であろう。
 そのことについて「大隅宮」は「大隅島」にあったのだとする伝承がある。
 それは、大阪市東淀川区に鎮座する「大隅神社」のあるあたりが大隅宮の比定地―というものである。そこで「大隅神社」について管見を次に掲載する。


 大隅神社(大阪市東淀川区大桐に所在)とは

 インターネットのウィキペディアの「大隅神社」によるとおおむね次のような神社である。

《 この神社の祭神はまさに「応神天皇」で、昔はこの辺りは島で、「大隅島」(上中島)と言ったという。
 応神天皇が崩御したあと、里人が天皇の徳を慕い大隅宮の址に神祠を建てて祀ったのが起源とされる。

 そののちある時、淀川が氾濫を起こした際に加茂明神の御神体が流れ着いて霊光を放ったので合祀して祭るようになった。そのため近世まで神社は「加茂明神」(別雷神=ワケイカヅチ神)が通称であった。大隅神社となったのは明治以降である。 》


 以上から大隅神社という名称は古くはなく、「大隅島」という淀川河口のおそらくは三角州または中洲由来の島にあったがために明治時代になって名付けられたようである。
 そうなると「大隅島」がいつから大隅島と呼ばれていたかが問題となる。そこで次は「大隅島」の記載のある安閑天皇紀を調べることにする。


 安閑天皇紀の「大隅島」について


 安閑天皇は第27代天皇で継体天皇の長子とされる。この天皇が難波の「大隅島」に放牧をさせたという記事が見える。

○安閑天皇紀2年・・・大連らへの詔―「宜しく牛を難波の大隅島と姫島松原とに放つべし。願わくは名を後世              に垂れむ」と。

 安閑天皇が大連たちへ「大隅島と姫島に牛を放牧しなさい。後世までその名が残るように」と詔した―というのである。この時代の大連は大伴金村と物部麁鹿火であった。
 なぜ島に放牧するのか? 島に放牧する利点は周りが海(川)なので、牛や馬が島から逃げることができず、管理しやすいということである。この事で思い出すのが『肥前風土記逸文』にある「隼人によく似た風貌の島人が50頭とか100頭とかの牛や馬を飼育していた」という五島列島の値嘉の島に関する記述だ。同じことは今日でも隠岐の島や見島などに通有する現象である。

 大隅島と姫島は、現在は陸地化してそれぞれ東淀川区と西淀川区に組み込まれて市街化し、島を思わせるものはないが、それでもどちらも淀川べりに展開する市街区であるのが共通している。だが、姫島については現在でも「姫島町」という名が残っているのに対して大隅島のほうは「大桐」であり、近辺に大隅町とか大隅島町というのはない。上記の大隅神社もその名称は明治以降である。

 安閑天皇紀の記す大隅島と姫島が淀川の河口に横たわる三角州由来の島々であることに間違いはないが、安閑天皇のその時代にすでに「大隅島」「姫島」と呼ばれていたのかどうかまでは分からない。特に「大隅島」の方はあやしい。
 
 というのも、もし大隅島に応神天皇の「大隅宮」があったとすると、そんな大切な場所に牛などを放牧するであろうか。もちろん安閑天皇の時代には応神天皇の大隅宮が跡形もなくなっており、誰も知る者もいないというのであれば可能かもしれないが、上記の大隅神社の由来がいうように<応神天皇亡き後、里人が応神天皇の大隅宮があったことを思慕して神祠を建てて祀った>云々という伝承はあったらしいことからすれば、やはり牛などの放牧地にするはずはないであろう。


 「大隅宮」の所在地は―

 
以上から考えると、「大隅宮」の所在地は淀川べりの大隅神社の周辺―との見方には疑問が涌く。
 まず、「大隅」という地名そのものがかなり新しいことからもそう思われる。前項「大隅国について」で提示したように、「大隅」という地名は白村江の戦いに敗れて半島における権益が絶たれ、唐軍の占領政策に危うく呑み込まれそうになった後、天武王権の強く指向した「中央集権的律令体制」制定過程で、南九州の大隅半島側を古日向国(宮崎と鹿児島)から分離する際に新しく名付けた、いわば「政治的命名」であった。

 この新名称「大隅」を過去に遡及させ、書紀には、「応神天皇の大隅宮」、「安閑天皇が放牧させた大隅島」と記載したのではないかと考えられる。安閑天皇が姫島とともに牛を放牧させたという大隅島は別の名称であったろうし、その島にあったので大隅宮としたというのも「大隅島」ではなかったのだから、そこに大隅宮があろうはずもない。しいて古地名を当てれば大隅島は「鴨島」だったかもしれない、加茂明神が流れ着いたというのであれば・・・。

 では大隅宮はどこにあったのだろうか。それはずばり、たとえ新名称であったとしても大隅国が南九州にある以上、大隅地方にあったとするほかない。

 そのことは実は上記の大隅神社の由緒から見えてくるのである。中でも「加茂明神」が漂着したとある所にヒントがある。

 大隅神社は応神天皇を祭る社であったが、いつしか加茂明神が流れ着いて合祀されて「加茂明神」化したという。加茂明神とは加茂(鴨)大神であり加茂(鴨)大神と言えば、京都の下鴨神社・上賀茂神社が総本社である。この両社の始祖というべき神は「カモタケツヌミ」であり、『山城風土記逸文』によれば、「(古日向の)曽の峯に天下り、神武東征の御先に立って大和の葛城地方に渡り、奈良地方に移動し、最終的に現在の京都北部に鎮まったのがカモタケツヌミ」である。
  
 この説話の根幹は南九州の鴨族の首長であるカモタケツヌミが、南九州からのいわゆる<神武東征>の先導者として大和地方に入り、のちに北上して京都北部に本拠地を構えた―ということである。逆にたどると京都最大の大社・加茂(鴨)両神社の淵源は大隅地方を含む古日向であったことになる。

 このように「南九州由来の鴨神が漂着した」という意味は、この島は南九州からの鴨族(航海民)の船着き場のような場所であったということだろう。

 応神天皇の22年条の、「天皇が難波に行幸し、大隅宮に滞在した」という記事からは、<難波に所在する大隅宮>と解釈されがちだが、「難波に行幸した」ことと、「大隅宮に滞在した」こととは分離して考えるべきではないか。つまり「難波に行幸し、難波の大隅島(鴨島?)から船に乗って大隅地方の大隅宮(鴨の宮?)へ行き、そこに滞在した」―との解釈も可能だろう。

 大隅地方に応神天皇の鴨の宮という宮居がありとすれば、肝属川河口の大きな潟湖(ラグーン)が最上の場所である。ここは航海民「鴨族」の蝟集地であるがゆえに「鴨着く島(かもどくしま)」と呼ばれた所で、縄文時代から北部九州・瀬戸内海(近畿)・薩南諸島への水運に恵まれた地域なのである。

淀川水系図。
 左下の赤四角に大隅神社がある。大隅神社のすぐ北に「南江口」という地名があるが、そのあたりから左(西)へ神崎川が流れ、神崎川と淀川に挟まれるように「大隅島」があり、大隅神社こそが「大隅宮」とする伝承がある。
 しかしそのような神聖な場所を牛の放牧場にする(安閑天皇時代)とは考えられないし、加茂明神が漂着したという伝承からは鴨族の往来の地であったことを窺わせ、鴨族の淵源地が大隅地方(鴨着く島)であったことから、大隅宮は大隅地方にあったと考えたわけである。
 ただし、同じ鴨でも淀川の上流、京都の鴨川沿いの下鴨神社のではなく、淀川べりの「三島鴨神社」(地図の右上の赤四角)が寄り付いた可能性も考えておきたい。(大隅神社から三島鴨神社までは約8キロある)
 三島鴨神社は祭神がオオヤマツミ神とコトシロヌシ命であるので下鴨神社のカモタケツヌミとは違っている。だが、オオヤマツミは南九州の薩摩半島の阿多地方の山の神で、南九州由来の神である。またコトシロヌシは葛城地方に鎮座する「鴨都味波八重事代主神社(かもつあじなみ・やえことしろぬし神社)」の祭神でもあり、この神社名には同時に鴨族の首長でもあることが示されており、これまた鴨神の一員であった。
 以上から、安閑天皇紀に言う「大隅島」に寄り付いたという鴨神は、南九州との濃厚な関係を示唆するものであり、この島を中継地として難波・河内・大和と南九州とが瀬戸内海を通路として濃厚に結びついていたと考えて何ら差支えない。

 さらにもう一つ結びつきを示すものがある。それは地図の上端近くの赤四角で示した「溝咋神社(みぞくいじんじゃ)」である。祭神はヒメタタライソスズヒメ・ミゾクイタマクシヒメ・ミゾクイミミ他三神。最初のヒメは神武天皇の皇后、二番目はヒメの母。最後のミゾクイミミは二番目の父(最初のヒメの祖父)で、このミゾクイミミは南九州にあった投馬国の王(ミミ)族の一人であると考えられる(私見の投馬国=古日向説による)。

 以上から、同地域と言ってよい場所に「大隅神社(大隅島)」「三島鴨神社」「溝咋神社」という南九州鴨族と密接な関係のある古社がまとまって鎮座するということは、古くからの水運往来の姿を彷彿とさせ、「大隅宮」が大隅地方にあってもおかしくないことが説明できると思う。(三社は揃いもそろって水運に好都合な川べりに鎮座している。前二社は淀川河畔近く、溝咋神社は安威川に沿っている。)

    
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