大隅の歴史ロマン探訪
 
 ●その壱
   
 神武天皇の旧跡を巡る(H25.10.14)
・・・参加者41名

   【コース】 北田公園駐車場(出発9:00)桜迫神社(肝付町宮下:神武天皇誕生伝説地)
         ―唐仁大塚古墳(東串良町新川西:鹿児島県最大の前方後円墳)
         ―戸柱神社(東串良町柏原および肝付町波見:神武天皇発航伝承地)…昼食
         ―塚崎古墳群(肝付町塚崎:1号墳の大楠と11号前方後円墳)
         ―飴屋敷(吾平町飴屋敷:タマヨリヒメが姉トヨタマヒメの子・ウガヤフキアエズを養育)
         ―吾平山上陵(吾平町上名:ウガヤフキアエズの御陵で崖窟の中にある)
         ―北田公園駐車場(帰着16:00)

 【桜迫神社】(おうさこじんじゃ)
 この神社は肝付町立宮富小学校に隣接し、裏手には笠野原台地(シラス台地)が肝属川によって断ち切られたなだらかな丘が迫る。
 明治以前の神社名は「宮下六所大権現」あるいは「三宅六所権現」と呼ばれていたが、明治以降は桜迫(おうさこ)神社と改称された。祭神は熊野権現とも「天孫三代」ともいうが、後者の伝承を継承して神社名にしたのではないかと思われる。「桜迫」とは「王迫」のことに違いない。
 というのも旧名「三宅」は「屯倉」とも書くが、王室の直轄地の意味であり、この地に残る神武誕生地伝承と、『日本書紀』に記載の「…久しくましまして、ウガヤフキアエズ尊は西洲の宮に崩じましませり」とを勘案して、ここにウガヤフキアエズの宮があると考えられていた。
 時あたかも昭和15年、ちょうど皇紀2600年を宣揚し、大東亜戦争遂行への戦意高揚の目的もあって、神武の父・ウガヤフキアエズの宮処「西洲宮(にしのくにのみや)」の所在地と裁定され、「西洲宮址」という石碑が建立された。
 それと同時に肝属川べりに「神武天皇誕生伝説地」という碑も建てられた。
 しかし敗戦後は神武天皇はもとよりウガヤフキアエズ以前の天孫時代もその史実性はないものとされ、顧みられなくなっていたが、最近は不復活の兆しが見えて整備が施されるようになった。

 
 


参加者の後ろが比高10bほどの裏山で、電柱の左に「西洲宮址」の石碑が、右端の岡のすぐ下に赤い鳥居の「桜迫神社」がある
 【唐仁1号墳(唐仁大塚)】
 唐仁古墳群は肝属川の流れにほど近い東串良町新川西地区に群集する140余りの古墳群である。
 唐仁1号墳はその中でも最大の全長180m(墳長は126m)の大前方後円墳で、築造は5世紀半ばとされ、当時の肝属・大隅地区一帯最大の豪族の墓であろう。大和王権認可の豪族「大隅直(あたい)」の先祖とする説が強いが、昭和7年に山崎五十麿が後円墳頂の石室の内部調査をして鉄製鎧と刀などの副葬を確認したあと、閉鎖され、2年後の昭和9年には国の指定史跡になったため調査はなされておらず、被葬者の特定は非常に困難になった。
 ウガヤ―神武という歴代が大隅のこの地方に存在したのは確実と考える私見では、畿内大和への「東征」の後に残った神武の子・キスミミの後裔と考えていいように思われる。
 それにしても新川西地区の比較的狭い範囲に140もの高塚古墳があり、しかもその古墳群に南九州特有の地下式横穴墳が一つもないのは不思議である。
 このあとにここから北に6キロほど行ったところにある「横瀬古墳」も見ておこうとバスを走らせ、車中から眺めた。横瀬古墳は全長140m(墳長120m)ほどで、唐仁大塚に次いで県下2番目の大前方古墳だが、こちらは単独である。これは唐仁古墳群とは実に対照的であり、不思議と言えないこともない。大崎町史によると古墳のある地区名(小字)を「えさい町」と言うそうで、「えさい」は「いざり・びっこ」の方言であることから、海路流れ着いたという伝承のある国分の「蛭児神社」の祭神で足の立たなかったヒルコ(イザナギ・イザナミの子)のことを連想させる。

 唐仁1号墳の後円墳の上に建てられた大塚神社入口の鳥居
  大塚神社にはオオナムチ・チチブヒコが祭られている

   神社の下に石室があり、その蓋石が露出している
  【戸柱神社】(神武東征発航伝承地)
 肝属川の河口、東串良町柏原と肝付町波見に河口を挟んで対のように建立されている。どちらにも「神武天皇発航伝承地」の石碑が建っている。
 志布志湾と肝属川の堆積作用でできた砂丘上にある柏原の戸柱神社は祭神・須佐之男命・ヤチマタヒコ・ヤチマヒメ。ヤチマタヒコ・ヒメは「道祖神」的なハタラキの神であり、道中の安全などを司るから祀られる理由は分かるが、須佐之男を祀る理由は不明である。
 対岸の大隅花崗岩の岩盤上に建立されている波見の戸柱神社の祭神はサルタヒコ・オオナムチ・オオワタツミなど8柱である。柏原の戸柱神社の祭神と重なるものはない。不可解なことであるが、サルタヒコ・オオワタツミは海路の道案内に関わるとして了解されるが、オオナムチを祀る理由は不明である。

 柏原の戸柱神社。志布志湾に面する砂丘上に建つ。社記によると千年前は新川西の田畑というところに鎮座していたのをここ              へ遷座したという
  【塚崎古墳群】(つかざきこふんぐん)
 塚崎古墳群は肝付町塚崎の標高20b内外の舌状台地に展開している。前方後円墳5基、円墳38基、地下式横穴墓13基からなり、その盟主墳と言えるのが40号墳の通称「花牟礼古墳」で全長66.5mの本土最南端の前方後円墳と言われている。
 花牟礼古墳の築造年代は5世紀初頭かもしかしたら4世紀代に入る古式古墳であるという。5基の中で最も新しい16号墳は唐仁大塚とよく似ており、時代的にも5世紀半ばが想定される。
 最初に訪れたのが1号墳(円墳)で、この古墳の墳丘上には樹齢1300年とも言われる大楠が生えていることで著名である。近年、大楠は樹木医の治療によってすっきりと蘇り、周りに木の歩道も設けられ、根を痛めない策が施され面目を一新した。
 次に11号墳(前方後円墳)の後円墳丘にに上がってみた。
 この古墳は県道高山ー波見線沿いにあり、簡単に見て回ることができるようになった。全長など詳細は不明だが、見たところでは50メートル弱位かと思われた。
 塚崎台地の最東端の辺縁部に築造された姿は、西都原古墳群のうち、やはり同じように台地の東端に築かれた古式古墳群を連想させるものがあった。 
 ここは肝付姓の始めである「肝衝難波」の祖先が眠っているのではないかと思う。

    塚崎1号墳とその上にそそり立つ大楠(樹高25m)
 蒲生八幡神社、志布志山宮神社の大楠に次いで県下では
           3番目の大きさである
  【飴屋敷】(あめやしき)
 吾平町の鶴峰地区の田んぼ地帯の一角に「飴屋敷」という名の小さな集落がある。
 神武天皇の父であるウガヤフキアエズ命が叔母であるタマヨリヒメ(母・トヨタマヒメの妹)に育てられた場所であるという。
 処女と思われる叔母にお乳は出ないので、おそらくコメの胚芽を材料にして発酵させて飴を作り、ウガヤ皇子に与えて育てたと思われる。そのことは飴屋敷の所在するような田園地帯では造作もないことであり、おとぎ話と考える必要はない。
 それに比べると宮崎の鵜戸神宮の「お乳飴」は神社の土産となっているように、あくまでも観光用の演出に過ぎず、あのような場所に穀物由来の「飴」が作れるわけがなく、子育てのできるような場所でもない。
 実母であるトヨタマヒメも育ての親のタマヨリヒメもともに海神の娘であり、トヨタマヒメが海辺(渚)に産み残したという記紀の記述に合致させるべく、どうしても海辺で育てなければおかしい(育てたことにしたい)と考える人たちの創作であろう。
 観光用にはそれでよいかもしれないが、かえってウガヤの誕生養育説話を現実を離れたおとぎ話にしてしまうだけであり、困ったことと言わなければならない。

   「飴屋敷跡」という昭和10年の建立碑の前で
昭和10年は宮崎・鹿児島で陸軍大演習があり、「元帥」であった    昭和天皇はその途次、吾平山陵を親拝された
周囲は盆地状の田んぼ地帯であり、遥か向こうの岡の裾を姶良            川が流れている
 【吾平山上陵】(あいらやまのうえのみささぎ)
 神武の父・ウガヤフキアエズ命の御陵と言われており、宮内庁書陵部が管轄をしている。
 周辺のたたずまいから「元伊勢」の異称もあるほど、陵域は清々しい環境にある。
 御陵入口の橋を渡って行くと、伊勢の五十鈴川の流れを思わせる姶良川が間近に迫り、流れの向こうに鳥居のある岩壁が見えてくる。その岩壁の内部がウガヤフキアエズと后・タマヨリヒメの陵墓ということになっている。
 『三国名勝図会』によると、「窟口、北に向かい、深さ10間、横12間、高さ1丈余、窟内清浄にして(広さは)4畝あり・・・」で、北向きの洞窟の奥は入口からの奥行きが18b、幅は21、6b、高さは3bほどで、広さは120uはあるという。中には高さ120pほどの土壇があり、そこにウガヤ命が埋葬されているという。そして土壇の左手三尺ばかりを隔てて一回り小さな土壇があるが、それはタマヨリヒメの御陵だと書く。
 岩窟の中に御陵があるというのは他に例を見ず、同じ天孫である先代のホホデミ命、先々代のニニギ命との違いが著しいが、『三国名勝図会』にその説明のないのが残念である。(ホホデミの御陵は溝辺の高屋山上陵。ニニギのは薩摩川内市の新田神社の裏山の可愛(えの)山陵で、ともに高塚式である。)
 私見ではウガヤ時代は火山噴火等の災害が多発していたため、洞窟での祭祀や埋葬を余儀なくされたからではないかと考えている。
 神武東征という行動さえも、こういった災害からの退避、もしくは移住(移民)という苦渋の選択だったという見方もできよう。
 たとえば、『続日本紀』延暦7年(788)には霧島山の大噴火があり、「噴石が雨のように降り、山麓は5、6里まで火山灰が積もった。その深さは2丈(6b)・・・」という記事が見え、江戸時代の享保元年(1716)から2年にかけての大噴火では、山麓周辺の寺社はすべて焼失し、さらに「諸県郡諸県村の田園、前後の被災は13万6千3百余区」とあり、都城を中心とする諸県郡域では、田んぼの実に13万6千枚余りが火山灰に埋もれている。
 このような災害に見切りをつけて、活火山のない中央(畿内)を目指したと考えても何ら不思議はないだろう。

         姶良川の清流にある御手洗場
 清流の奥に鳥居が見える。その奥の岩窟内が御陵である
  吾平山陵入口にて(遠くは指宿、姶良市より参加)

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