大隅の歴史ロマン探訪
 
 ●その弐
   
 曽の国の中心と「国司塚」を巡る (H26.1.13)
・・・参加者32名

   【コース】 田崎親水公園駐車場(出発9:00)国司塚(鹿屋市永野田町:国司死亡の地)
         ―国司城址(国司がここで襲われ、永野田まで落ち延びた)
         ―国司山址(国司城の北に隣接する小山があった)
         ―曽田町入口(旧国鉄鹿屋駅の跡。昭和13年までの鹿屋駅跡)
         ―中央公園下(向江町:藩政時代の安養寺が今も残る)
           (昼食:ホテルこばやし)
         ―北田池公園・鹿屋城址(北田池の上の岡一帯に展開する鹿屋城を探索)
         ―曽原橋界隈(曽原という曽田と並ぶ古地名)
         ―田崎親水公園駐車場(帰着16:00)

   【探訪行程図(田崎池から赤い線の行程で一周。約7キロ。明治37年発行の地図を基本とした)】



※田崎池周辺が田崎親水公園で、その駐車場に集まり、9時過ぎに8台の車に分乗して出発

<1> 国司塚 
 田崎親水公園駐車場から東南東へ約5キロ。
大隅国建国の頃に起こった隼人と朝廷軍との戦い
で、ここに居た国司が隼人に襲われて落ち延び、
「白馬」で永野田まで来て絶命した場所とされる。
 この塚を守り、祭祀を続けてきたのが国司の子孫
とされる永田家である。永田家の現在の当主は永
田良文さん(68)で、その祭祀の様子について話を
うかがった。
 永田家のこの祭祀にいつも伺候される年貫神社
宮司の田島さんという方が解説をして下さった。
 毎年旧暦10月の中丑の日の晩に潔斎して祭祀
に臨み、家から塚まで黙止して出かけ、祝詞も黙読
であげるという。塚でお供えする金幣18本・白幣3
6本の合計54本の準備も自生の竹を切って手作り
するのだそうである。

 国司と言えば大隅国の初代国司は陽侯史麻呂
(やこのふひと・まろ)であるが、塚の主がそうであれ
ば永田家はその子孫になる。しかし政府軍は勝利
したのであるから、勝った方の国司の遺骸を祭った
塚がそのまま現地に残ることは有り得ず、政府(大
和)が引き取り、陽侯史麻呂の一族の墓に改葬す
るのが常識である。
 それではこの塚に眠り、1300年もの間祀られているのはいったい誰だろうか―。

 田島宮司は「永田家先祖代々」と黙祷してお祀りし
とくに「陽侯史麻呂の御魂」と念じてはいないそうで
ある。

 私見では官軍に敗れた当地の大首長・肝衝難波
(きもつきのなにわ)ではないかと考える。

左が現当主の永田良文さん。手前が解説して
くれた田島宮司。奥に祭った幣が見える。

耳を傾ける参加者。いくつか質問もあった。
<2> 国司城址
 永野田の永田家を辞し、再び親水公園駐車場に戻る。
このあとは徒歩で、国司城址ー国司山ー曽田町入口ー
中央公園下(旧鹿屋駅跡)とたどった。(午前中)
 国司城は親水公園とは下谷川を挟んだわずかな距離にある
 今現在は国司城のあったとされる小山は跡形もないが、昭和36年の5月に永田良文さんの祖父で当時の鹿屋市長・永田良吉が建立した花崗岩製の「
国司城址」という石碑が残る。
 上掲の地図によりここから鹿屋城に向かってなだらかな岡が続いているのが分かる。この岡を東は肝属川、西は下谷川が挟むようにして流れ、下谷川はこの国司城と田崎池の間を流れたあとすぐに肝属川と合流するのであるが、このような地形は古代人が好んで「聖地」「墳墓の地」にする地形である。
 

人家の入り口に建つ「国司城址」の石碑。昭和
36年にはまだ小山が向こうに見えていた。
<3> 国司山跡
 現市役所の7階建ての庁舎の裏、地図の上では変電所のマークのある小山が該当するが、この山も取り崩され、国司城と同様に今は跡形もない。
<4> 曽田町入口
 現市役所から昭和13年までの鉄道路線を歩き、300m足らずで旧鹿屋駅舎跡。ここは向江町だが、ここから東へ肝属川に架かる曽田橋界隈が古代からの中心的な田園地帯である。
 駅舎跡から少し北上すると、左手に中央公園に上がる細い道があるが、この道は遠い昔から岡に上がる通路であり、岡を横切って西側の下谷川流域・曽原に至る最短路でもあった。

 岡の麓には安養寺がある。ここは曹洞宗の寺で、藩政時代にもあった。廃仏毀釈運動で一時衰退したが、再び禅寺としての復活を果たしている。
 かって安養寺墓地に垂水島津氏第4代・久信の墓があったが、現在は垂水島津家の墓地に改葬されている。

安養寺に入る。向こうに観音立像が建つ。
<5> 北田池公園
 北田池は笠野原シラス台地から湧き出る地下水によって形成された池だが、この湧水があることで台地が断ち割られ、鹿屋城(写真:奥に見える岡の上)の展開する丘陵が造られたのである。
 昭和30年代まで湧水量は非常に豊富で、池のすぐ下に市営のプールが作られ、子どもたちの遊びの場であった。
 また池のほとりにはいくつかの料亭・旅館も設けられ歓楽・観光にも一役買っていた。

 写真に写る「観光ホテル富士」の前身は翠泉閣という著名な料亭であった。
<6> 鹿屋城址
 鹿屋城は一名「亀鶴城」。築城主は不明だが、承久年代に津野四郎兵衛という人物が城主だったと古記には記されており、少なくとも鎌倉初期には出来上がっていただろうという。
 本丸のある北田池の北側の丘陵とは反対側の南側の丘陵にも今城・大明城などがあり、全部で7つの城郭部から成っていた。
 鎌倉時代末期の頃は肝付氏の一族が居城していたが、栄枯盛衰の後の戦国末期、肝付氏が島津氏に降りるとこの城は島津氏一族の伊集院忠棟が接収し、15年間治めた。忠棟は鹿屋城下の整備を進め、道路の拡張と河川の流路変更以外の地割りは今に面影を留めている。

 江戸時代は島津藩の直轄地となり、地頭の支配のもとにそれなりの町の発展はあったが、特色ある物産や文化の発達では停滞して来たと云える。

城郭をぐるっと一周してきたところ。
<7> 曽原橋界隈
 <4>の曽田町入口で触れたように、肝属川と下谷川に挟まれた鹿屋城址から続く丘陵は、東に曽田、西に曽原という「曽の国」の原型を証明するような地名にも挟まれており、いかに古代人がこの丘陵一帯を神聖視していたかが分かる。(上掲地図を参照)
 ヒンターランド(後背地)という用語があるが、ここはまさに鹿屋・吾平・肝属のヒンターランドであろう。


※写真は田崎親水公園にて(午後4時)

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