おおすみ歴史講座 〜歴史探訪編
   
   鹿児島城下に伴掾館址を訪ねて 】
     ( H25.7.28 
 ※大隅の古族で天正2年(1574)に島津氏に降伏した肝付氏。その肝付氏の始祖は鹿児島郡の「神食邑」に入部した伴兼行(とものかねゆき)で、当時の被官名は大宰府大監・薩摩国掾。役職名は薩摩国総追捕使であった。
  時代は冷泉天皇の安和元年(968)
で、鹿児島市伊敷村の神食(こうじき)に館を建てて居住したのでそれを「伴掾館(ばんじょうのやかた)」と後世に伝承されてきた。
  今回、その館がどの辺りにあったのかを訪ねてみることにした。総勢15名。

【コース】 桜島フェリー鹿児島港(桜島桟橋)−石橋公園−仙巌園−祇園の洲公園−大龍寺跡(内城址) −今和泉島津家本邸跡福昌寺跡南洲墓地−(昼食)−伊邇色神社妙谷寺跡(後山       一帯が伴掾館址とされる)お由羅屋敷跡玉里庭園−鹿児島神社−桜島フェリー港

    
(※太字で記した場所が実際に訪ねた史跡。シティビュー号・市バス・市電一日乗車券を利用した。)

1.大龍寺跡(内城址)
現在は大龍小学校。
 ここにはまず15代
貴久が館を建てた。内
城という。天文19年(1
550)であった。
 その後、慶長7年(16
02)に本城(鶴丸城)が
築かれたので役目を
終え同16年に南浦文之を開山として大龍寺が創建された。

学校の正門横に一区画があり、学僧・文之の業績を顕彰している。文之の墓は加治木安国寺にある(国指定)。
2.今和泉島津家
      (本邸跡)
現在は某氏邸。
 徳川13代将軍家定に嫁いだ篤姫の生家。
 実父は今和泉家第5代の忠剛。1835年に生まれた篤姫は33歳の時に江戸城総攻撃を食い止め、明渡しに立ち会っている。

天璋院篤姫(1835年〜1883年)の誕生地にて。夫の家定が病弱短命だったのは薩摩の献上した黒糖にあるーとのうがった見方もある。
3.福昌寺跡@
鹿児島市立玉龍中高の裏手にある。曹洞宗。
 薩摩藩随一の禅寺。
 開山は石屋真梁(伊集院氏)で創建者は第7代元久。応永元年(1394)のことである。
 明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、盛んなころは1500名の修行僧がいたという。
 旧字名が「長谷場」とあるので長谷場氏の故地だった可能性がある。

玉龍高校の真裏に福昌寺跡の入り口がある。現在は歴代藩主の墓地になっている。但し、ここに初代忠久から5代貞久までのはない
4.福昌寺跡A
 山川石で造られた墓が多い。夫婦単位で並んでいる様は武士のいかめしさを感じない。
 特に28代斉彬の夫婦墓は美しささえ感じられた。
 また6代氏久の墓は本来は鹿屋市大姶良町の旧龍翔寺墓地にあったのを移設しているので別区のような場所にある。

27代斉興側室「お由羅」の墓もある。斉興のと並んでいないのはやはり正室でなかったためだろう。
5.南洲墓地
     (南洲神社)
明治10年の西南戦争で亡くなった西郷軍の将士2千余が眠る。かっては同じ敷地にある浄光明寺(時宗)の墓地で一般人のもあったが、西郷墓地として整備された時にすべて移設したそうである。もっとも若くして戦死したのは庄内藩から学びに来ていた14歳(満では12、3歳)である。

真ん中が西郷隆盛墓。左右に薩軍首脳陣だった桐野利秋・篠原国幹・村田新八等の墓がずらりと並ぶ。
 賊軍の汚名は明治23年の憲法施行を期に解かれたが、靖国神社には祀られていない。
6.伊邇色神社
下伊敷町の東に連なる岡(妙谷寺山)の中腹にある。
 『三代実録』貞観2年(860)の記事に「伊爾色神に従五位下を授く」とあるのがこの神社とされる。
 イニシキから伊敷に転訛したと考えられ、伊敷町の地名起源と言われている。

ちょうど「六月灯」の当日で、神社への道には幟旗とお供えの灯篭をぶら下げる支柱などが立てられていた。また境内には青々とした茅で「茅の輪」が作られ、夕方からの行事と参拝客を待っていた。
.妙谷寺跡
妙谷寺は福昌寺の末寺で、16代義久の時に上伊敷からここへ移設した。
 『三国名勝図会』によるとこの寺の境内地の裏山に「伴掾館址」があった。
 鹿児島(鶴丸)城の北方の通称「妙谷寺山」の山麓にあり、幽邃の地であると『図会』には書かれている。
 開山は9代忠国の6男、桂山和尚。

伊敷病院の左手から登っていく道がある。3軒目の家の角を右に曲がって行くと、僧形の仏像(?)があり、周囲に坊さんの墓が散在している。「妙谷寺跡」の説明看板が立つ。塀の向こうはお由羅屋敷に続いている。
8.伴掾館址@
伴兼行が安元元年(968)にこの地に入り、館を建てたとされる。『三国名勝図会』では妙谷寺の後山高い所にあったように描かれているが、平安時代の中期に山城的な居住は不自然である。館は妙谷寺の境内地を含むこの辺り一帯に築かれたと考えたほうが自然だろう。

伊敷病院と左の旧家の間に細い路地があり、登って行くと突き当りに広い墓地がある。おそらく妙谷寺の墓地だったろう。
 ここの右手3軒目を右折したところに「妙谷寺跡」がある。
9.伴掾館址A
7.で書いたように、妙谷寺とお由羅屋敷は一続きであり、その一続きを併せた広さに築かれていたのが、伴氏の館と考えられる。
後述のようにお由羅屋敷には水が滾々と 湧き出しており、屋敷を作り住むにはもってこいの場所である。
 伴氏は兼行−行貞−兼貞と3代にわたってここに居住した。

下伊敷町の旧道沿いから眺める妙谷寺山。旧家の佇まいと相まって歴史を感じさせる眺めである。
 しかし兼貞は諸県(都城)の平季基の娘を嫁にしてから、
当地を離れることになる。
10.お由羅敷跡
お由羅は27代斉興が江戸屋敷で暮らしていた時に愛妾となり、参勤交代で国元に帰る時にも連れ帰った。
 薩摩藩江戸屋敷に出入りしていた棟梁の娘とも八百屋の娘とも言われるがはっきりしない。お由羅は側女なので城中には住めず、玉里に屋敷を与えられた。

伊敷病院に囲まれるようにある庭園。30坪ほどの池が2つあり、どちらも豊富な湧水が得られる。
 お由羅の子・久光は藩主にはなれなかったが、斉彬(母は弥姫)の男児が次々に夭折したため、実子の忠義を斉彬の後継者とした(29代)。
11.玉里庭園
 (旧島津氏玉里邸庭園)
斉興の玉里別邸は大部分が鹿児島市立女子高の敷地となったが、庭園の部分はほとんどそのまま残された。
 創設は天保6年(1835)、江戸末期の書院造り庭園様式と回遊式庭園様式が共に残り、貴重な文化遺産として、一般に開放されている(国指定名勝)。

池の周りはうっそうとして樹木が茂り、閑静で蝉の声が響く。
 ただ湧水の量が池の広さの割には少ないようで、スモークグリーン色の状態であった。
12.鹿児島神社
  (宇治瀬大明神)

鹿児島神社の由緒として挙げられるのが『三代実録』の貞観2年(860)条の「鹿児島神」で、神階・従五位上を授かった―という記事である。
 しかし『図会』では「宇治瀬大明神」としてあり、神名の齟齬が気になる。だが立地条件からは宇治瀬のほうが合っているようだ。

鹿児島神を荒田八幡のこととする説もあるが、荒田が確認されるのは薩摩国図田帳(建久8年=1197)に鹿児島正八幡宮領として「荒田荘80町」であり、荒田は「新田」の意味であろうから、860年の頃はまだ砂浜だった可能性が高い。
歴史探訪(鹿児島城下編)終    目次に戻る