履中紀・反正紀・允恭紀を読む

この三天皇はいずれも父は仁徳天皇、母は磐之媛(葛城襲津彦の娘)であり、一括して取り上げることにした。考察の上でもそのほうが扱い易く、分かりやすいという点も考慮した。

履 中 反 正 允 恭
父母 父:仁徳天皇(オオサザキ)
母:イワノヒメ
葛城襲津彦の娘)
      〃            〃
和風
 諡号
 去来穂別(イザホワケ)  瑞歯別(ミズハワケ)  雄朝津間稚子宿禰
  
 (ヲアサツマワクゴノスクネ)
 磐余稚桜宮
    
(イワレノワカザクラ宮)
 河内丹比柴籬宮
(タジヒノシバカキ宮)
 不明。行宮に藤原宮と茅渟宮がある。(古事記には遠飛鳥宮とある
正妃  クロヒメ
  
(羽田矢代宿禰の娘)
 ツノヒメ
(大宅臣祖木事の娘)
 オシサカオオナカツヒメ
(応神の子・稚渟毛二岐皇子の娘
皇子
皇女
 イチノベオシハノミコ、ミマノミコ、アオウミノ皇女、ナカシ皇女  カビヒメ皇女、ツブラ皇女、タカラ皇女、タカベノミコ  キナシカルノミコ、ナカタオオイラツメ皇女、サカイノクロヒコノミコ、穴穂皇子、カル皇女、ヤツリシラヒコノミコ、オオハツセワカタケルノミコ、タジマタチバナノオオイラツメ皇女、サカミ皇女
陵墓 百舌鳥耳原陵
※古事記では毛受陵
書紀には記載なし。
※古事記では毛受野陵
河内長野原陵
※古事記では河内惠賀之長枝陵


       < 年代順の事績 >

紀年 事    績 西暦年
履中紀
即位
  前紀
 住吉仲皇子がクロヒメを犯す(住吉仲皇子の叛乱)。仲皇子は露見をおそれ、太子の宮を焼き討ちにする。太子イザホワケは予知して逃げおおせ石上振神宮に入る。太子はヅクノ宿禰を派遣し、皇子の近習隼人サシヒレを甘言で騙し、皇子を殺害させる。   428
元年  磐余稚桜宮において即位。   429
2年  ミズハワケ皇子を太子とする。ヅクノ宿禰・ソガノマチ宿禰・物部イコフツ大連・ツブラ大使主に国政を参与させる。   430
3年  両枝船(ふたまたぶね)を磐余の市磯池に浮かべて宴する。
4年  諸国に国史(くにのふびと)を置き、言と事を記させる。
5年  春3月、筑紫の三神が宮中に現れ、「わが民を奪うな」と託宣する。
 秋9月、天皇が淡路島に狩猟に行った際、河内の飼部(うまかいべ)を連れて行ったところ、淡路のイザナギ神が飼部のげい面の刻み目の血の匂いが臭い、と託宣。以後、飼部に対する刻み目を廃止する。
 冬10月、春3月の託宣は車持君が筑紫国に行き、筑紫の三神に充当してあった車持部を奪い取ったためであることが判明。禊祓いを行ったうえ、元に戻させる。
6年  クサカハタヒ皇女(大草香皇子の妹)を立てて皇后とする。
 冬10月、百舌耳原陵に葬る。
  435
反正紀
即位
  前紀
 淡路宮で誕生した、とする。 
元年  ツヌヒメ(大宅臣・木事の娘)を皇夫人とする。河内の丹比に柴籬宮を造営。  436?
5年  崩御。   440?
允恭紀
即位
 前紀
 大草香皇子とワクゴノ宿禰のうち、群臣はワクゴを推すのだが、本人はなかなか受け入れなかった。正妃のオシサカオオナカツヒメの決死の願いを容れて、ようやく即位する。  442?
元年  オシサカオオナカツヒメを皇后とする。  443
3年  新羅の良医を招いき、天皇の病を治療し、完治する。
4年  探湯(くがたち)によって、氏姓の乱れを糺す。 
5年  葛城襲津彦の孫・玉田宿禰に反正天皇のもがりを行わせるが、玉田宿禰は怠っていたので誅殺される。反正天皇を百舌耳原陵に葬る。
7年  オオナカツヒメの妹・ソトオリノイラツメのために「藤原宮」を建てる。
8年  河内の茅渟に宮を造り、ソトオリイラツメを住まわせる。
9年  一年に三度(2月・8月・10月)、茅渟宮に行幸。
10年  皇后に「茅渟宮への度々の行幸は民を苦しめることになる」と言われ、回数を減らす。
11年  ソトオリイラツメの為に藤原部を定める。
23年  木梨軽皇子を太子とする。皇子、同母妹のカルノイラツメを犯す。  
24年  上の件が露呈し、カルノイラツメは伊予国に流される。
42年  崩御。年齢不詳。御陵は河内長野原陵。  453?

(注)
住吉仲皇子
・・・スミノエノナカツミコ。住吉は「住之江(墨之江)」で「すみのえ」と読む。今、大阪市住吉区の住吉神社のある地域を指す。仁徳天皇の高津宮を大阪城付近とすれば、住吉神社はその南南西7〜8キロに当たる。
  ナカツミコの大王権争奪の叛乱に加担したのは、近習のサシヒレ(隼人族)、淡路の海人アズミ連ハマコ、そして倭直アゴコであった。サシヒレ以外の二人はどちらも海人族であることに注意しなければならない。住吉(すみのえ)は要津であり、瀬戸内海以西の海人族の畿内最大の拠点であったことを窺わせる内容である。
  サシヒレの属する隼人族も通説的には「近衛部隊」的な陸戦に強い剽悍な戦士といったイメージで捉えられているが、海人である安曇族や、その祖先が神武東征において海路を導いたが故に倭直の地位を得たアゴコらと行動をともにしていること注目すべきだろう。なにしろ南九州から服属にしろ内附(ないふ)にしろ、畿内へは船でやって来るほかない。つまりは航海部族(鴨族)でもあったのである。
  私見では「隼人」という部族名は律令的中央集権国家が形成されてからのちに名付けられており、決して南九州人の「自称」ではなかった(これについては熊襲と隼人を参照されたい)。

石上振神宮・・・現在の石上神宮。祭神が「布留之御魂」なので「振(る)」が付いた。石上神宮に関しては「垂仁紀」の87年に、五十瓊敷命が製作した「千振りの剣」を神倉に納めたことと、それを妹の大中媛に管理させようとして断られたこと、そして結局は物部十千根連に依頼したこと――などが記述されている。
  物部十千根といえば同じ「垂仁紀」に、出雲の神宝を検校するために派遣された武将として登場しているから、いずれにしても石上神宮の祭神(神宝)は武器である「剣・刀」であろう。したがってイザホワケがここに逃げ込んだということは、大和平野東部の豪族の支援を得たことを意味しよう。

隼人・サシヒレ・・・古事記では「曽婆加里(そばかり)」。
  天孫降臨の日向神話でニニギノ命の第1子・ホスセリを割注で「隼人らの始祖」(古事記では第1子・ホテリ命で「隼人・阿多君の祖」)と書くが、隼人という名称が登場するのはその時以来である。こののち「隼人」名称は、書紀では持統天皇9年条まで8回記載されるが、いずれも王権に帰属した形での登場となっている。
  このあたりから次のような<隼人蛮族説>が唱えられる。
  <天孫降臨神話で隼人が日向時代に天皇家とは兄弟だった――と書くのは全くの造作である。つまり7世紀から8世紀にかけての記紀編纂期において王化に浴さず反抗極まりない南九州種族も、かっては皇族の一員でもあった。そして隼人の始祖となった長子のホスセリ(古事記ではホデリ)は末子の皇祖・ホホデミ(古事記ではホオリ)に敗れ「今より以後、吾れまさに汝の俳優の民たらむ」(古事記では「僕は今より以後、汝が命の昼夜の守護人と為りて仕え奉らむ」)――というストーリーを記紀編纂課程で創作し、南方辺境の隼人族の服属ははるか昔に既に行われ、列島の隅々まで大和王朝の王域だったことにしたのである>(隼人学では第一人者の前鹿児島国際大学教授・中村明蔵氏説=要旨)
  たしかに「隼人」という名称は大和王朝側の政治的命名であったことはその通りであるが、そもそも隼人という名称をもらった南九州族が王化を拒む遅れた種族であると言うこと自体、記紀の説話から採用されており、その当の記紀の内容なんて造作ばかりで信用できないのであれば、隼人という名を冠せられた南九州族が蛮族であるという事も言えないことになってしまわないだろうか?矛盾を感じるのは筆者だけか?
  実は南九州族を蛮族にしておきたいのは「南九州から神武東征があった」ことを否定したいからなのではないか?米作りを王権の基礎に据えた中央集権的大和王朝が確立してからのちの南九州が次第に「遅れた地域」になったのは否定できないが、そのことをはるか昔の神武東征時代にさかのぼらせて「あんなろくに米もとれない遅れた南九州の連中が、大規模な船団を仕立ててはるかな海路を東征し、大和地方に入って王権を築くなんて有り得ようがない」という考えが一般的だが、実はそこに史実的な根拠はなく、唯物論的な生産量の多い地域でなければ王権など樹立することはできない、という臆説に過ぎない。これと相俟って大和王権は自生的に大和で発展して確立されたのだ、とする、私見で言う「大和中心主義史観」が重ねられてそう言われているのだ。硬直しきった理論といわざるを得ない。
  
ソガノマチ宿禰・・・蘇賀満智宿禰。履中王朝で国事を司った4人の内のひとり。蘇賀氏は武内宿禰の第3子・蘇賀石河宿禰から始まっている(古事記「孝元紀」による)。
  満智宿禰は百済の将軍「木羅斤資(モクラコンシ)」が新羅婦人に産ませた「木満智(モクマンチ)」(「応神天皇紀」25年条)のことではないか、とする説がある。  

飼部(うまかいべ)に対する刻み目・・・刻み目とは「げい(黒へんに京)面」のこと。罪人としての印(刑罰)として目の横を刻んだ。初出は「履中紀」元年。住吉仲皇子の叛乱に加担した淡路の海人「阿曇連浜子」を捕らえてその目に刻みを入れ、それを時の人が「阿曇目(あづみめ)」と呼んだという。
  ただ河内の飼部に対してなぜ刻み目を施したかについては記載がない。ただ同じ条で、車持君が筑紫から「車持部」の民を奪ってきた――とあり、これとの関連かもしれない。
  車を動かすには牛か馬が必要で、その車を管理運行する部民の中に牛馬を飼育する民もいなくてはならないはずで、そういった民はもともとの素性は海人だったのではないか。と言うのも『肥前風土記』の「値賀ノ嶋」条に「その嶋の白水郎(海人)の容貌は隼人に似ており、牛馬を飼育し、騎射を能くする(要旨)」とあるように、海人のくせに牛馬を飼育している部族がいたとあるからだ。また同じこの条はその海人は隼人に似ているという。隼人が陸上ではなく海上にいたということも十分考慮しなければならないことをこの文書は示しているのである。

大草香皇子・・・仁徳天皇と日向のカミナガヒメとの間の皇子。妹はハタヒ皇女(のちに雄略天皇の正妃)。
  「草香」は「日下」とも書き、今日の東大阪市に属する生駒山山麓地帯をいう。仁徳天皇時代まであった「河内湖」の東岸から南岸に当たり、肥沃な地域であった。皇子はこの地域を基盤として隆盛を誇っていたと思われる。

淡路宮・・・淡路島にあった宮であろうことは思い付くが、それまで一度も現れていない宮である。不明とする他ない。生まれもだが、反正天皇の事績たるやほとんど無いに等しいので、実在が疑われてならない。

オオクサカ皇子とワクゴノ宿禰・・・既述のようにオオクサカ皇子は仁徳天皇と日向カミナガヒメの子。一方のワクゴノ宿禰は仁徳天皇とイワノヒメの間の第3子であり、両者は腹違いの兄弟である。
  群臣はワクゴを推挙したが、ワクゴは首を縦に振らず、結局、妃のオシサカオオナカツヒメの機転によって即位する運びとなり、允恭天皇となった。
  この天皇の事績で大きな不可解が一つある。それは前の反正天皇が逝去してから、何と5年も経ってから「もがり」を挙行したことである(五年条)。本葬は事情によっては2年くらい遅れることがあるが(仲哀天皇など)、もがりが年を隔てて行われることはまず有り得ない。まして死後五年経ってからというのでは「もがり」の意味をなさないのである。
  いよいよ反正天皇は実在の天皇ではなかったとしてよいのではないだろうか?そうすると反正天皇紀は全くの造作だろうか?
  ここで、允恭天皇即位前紀の記事に戻ってみる。そこでは編集者が「反正天皇の後継者はオオクサカ皇子とワクゴノ宿禰だけになったけれども、ワクゴノ宿禰のほうが仁孝であるから、群臣はワクゴノ宿禰を次期天皇に推挙した(要旨)」と書いている。一見、もう誰が見ても次期天皇はワクゴで決まりだ、というような書きぶりだが、逆に考えるとオオクサカ皇子にも十分天皇位に就く条件はあったとも取れるのだ。
  一方の母は葛城系のイワノヒメであり、他方の母は日向系のカミナガヒメという違いだが、彼女らの父はともに皇族でもなんでもない葛城襲津彦と諸県君牛諸井で、尊卑の差はほとんど無いに等しい。したがってオオクサカが皇位についても不思議ではない。
  そこで私見だが、反正天皇は実はオオクサカ皇子ではなかったか、と考えてみたいのである。そして反正天皇の「もがり」とはオオクサカ天皇の「もがり」で、実は允恭天皇の4年まではオオクサカ天皇の時代だったのではないかと思う。
  その証拠を一つ挙げておきたい。それは和歌山県橋本市の「隅田(すだ)八幡宮」所蔵の「人物画像鏡」に刻まれた銘である。それを次に掲げる。

 <癸未(きび)の年の八月日、日十大王の年、男弟王が意柴沙加宮に在りし時、斯麻、長寿を念じ、開中費直穢人(かわちのあたいアヤヒト)・今州利(イマスリ)の二人等を遣り、白上同二百旱を取り、この鏡を作る>
 
  この銘文によると、この人物画像鏡は斯麻(しま)と言う人物が、日十大王の443年(癸未年)の8月にアヤヒトとイマスリの二人を派遣して白銅200カンを採取して造らせたものであることが分かる。
  古来、問題になっているのが「日十大王」の読みと人物、それに「男弟王」の人物像であるが、私見では「日十大王」は「日下大王」すなわち「クサカ大王」であり、その弟王の方は「ヲアサツマワクゴ宿禰」である。ワクゴノ宿禰はクサカ大王すなわち大草香皇子が皇位に就いていた時は、まだ妻・オシサカ(忍坂)オオナカツヒメの実家の「忍坂宮」に居たのだろう。
  その期間が允恭5年までであり、その年に大草香大王(天皇)が崩御したのですぐに「もがり」をしたと考えられる。つまり反正天皇の「もがり」と見えたのは、実は大草香天皇の「もがり」だったのである。
  アヤヒトとイマスリの二人を派遣した「斯麻」という人物については皆目分からないが、神功皇后時代に「斯麻宿禰」という半島の卓淳国へ派遣された人物がいたが、その後裔であろうか?はたまた『魏志倭人伝』によると倭の「伊都国」及び「奴国」に大官の「シマコ」がいたが、そのような王クラスの人物であろうか?どちらにしても「シマ」は「島」と同音であり、意義的にも同じではないかと考えられる。少なくとも九州島の航海民系の人物ではあろう。

年齢不詳・・・記事の分量は多いのに肝腎の天皇の年齢について崩御の時の年が「年若干なり」とは解せない。そう言えばこの天皇、書紀では宮の名も記載が無い。そうなるとそもそも允恭天皇は造作ではないか、という疑いももたれてくる。しかしそれにしては記事が豊富である。今は後考を待つことにしておく。


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