梁書・諸夷伝・東夷条・倭(付:「北史」・「南史」)

『梁書』は唐の史官・姚思廉(ヨウ・シレン=?〜637年)が父・察(サツ)の後を継いで完成させた正史。二十四史の一つで、56巻からなる。

 同じく唐代には、二十四史に含まれる『北史』『南史』『隋書』が編纂された。ここでは『北史』と『南史』をも併せて倭人関係の記事を検討しておきたい。


 〈 梁書の描く倭人および倭国 〉

○倭は自ら太白の後と云い、俗は皆、文身す・・・で始まる倭人・倭国の描写はそれ以前の中国正史に見える倭人の内容をほぼ踏襲している。

 ただ、前代の『宋書』と若干違う点の見える箇所があるので、それを抜書きしてみる。

 晋の安帝の時、倭王・賛あり。賛死して弟・彌立つ。彌死して、子の済立つ。済死して、子の興立つ。興死して、弟・武立つ。
 斉の建元中、武を「持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。
 高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり。


(注)
太白の後・・・呉の始祖・太白の苗裔。要するに、倭人は使いして大陸に到ると「私どもは戦国時代に江南にあった呉の始祖・太白の流れを汲む者だ」と向こうの役人に言っているということである。
 これを「私ども倭人は呉国の末流に他ならない」と解釈する向きがあるが、倭人はそうは言っていない。呉(呉王・フサ)が滅びた後に、列島に亡命して倭国を築いた――というのではなく、あくまで―「始祖・太白」と同じ血筋である―というのだ。つまり「呉と倭は同じ祖先を持つ」と言っているわけで、その同じ祖先とはだれかと言えば、それは「太白(呉祖)・虞仲・季歴(周祖)」三兄弟の父である「古公亶父(ココウ・タンプ)」である。
 この「古公亶父」は「亶州(センシュウ・タンシュウ)」出身の王であり、『山海経』では東方の神仙の住む島と考えていた。これが日本列島、特に九州島であった蓋然性は高いと思われる。

倭王・賛、彌、済、興、武・・・いわゆる「倭の五王」だが、宋書では「彌」は「珍」であり、また「彌」と「済」の繋がりは書かれていなかったのに、梁書では親子と記す。

高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり・・・高祖は梁の初代・武帝のこと(在位502〜549年)。
この記事については両論があり、一つは倭人の使者が実際に朝貢し、武帝から「征東大将軍」の称号を除されたとし、もう一つは、朝貢はなくても新しく王朝を建てた始祖王は自動的に蕃夷を除正し、権威を内外に知らしめるものである、と考えている。
 しかし後者については疑問がある。それは武帝の長男である昭明太子は『文選』を著したが、その中に新羅の使者などと並んで、「倭人の使者」の図が載せられているのである。実際に使者を目の当たりにしなければ到底描けない写実性を持った図と思われる。
 だが、高祖・武帝の即位は西暦502年であり、日本書紀記載の雄略天皇が「武」であれば、その時は既に死して13年にもなろうかという頃である。日本書紀の記述に従えば、502年当時の天皇は武烈天皇であるが、「武烈」という名称は8世紀に過去にさかのぼって命名されているので「倭王・武」の「武」とは重ならない。
 ただ武烈と雄略で重なるのが和名「小泊瀬(おはつせ)」と「大泊瀬(おおはつせ)」である。可能性としては、漢風諡号の命名者が、この『梁書』の高祖・武帝への朝貢をしたのが「小泊瀬(おはつせ)」天皇であろうと推測し、そのため「武烈」としたのかもしれない。


以上の「正系の倭国」の他に、『梁書』では風変わりな倭人の国々を三つ挙げている。

 @ 文身国・・・倭国の東北七千里にある。人体には野獣のような文様があり、額に皺が三本あるが、その線の真っ直ぐなのは貴人で、短いのは賤民だとする。(中略)王の居る所は金や銀でもって飾っている。幅一丈(3メートル)もあり、そこには水銀を満たしている。雨が降ると、水は水銀の上を流れる。(後略)。

 A 大漢国・・・文身国の東五千里にある。兵隊はおらず、戦うことも無い。風俗は文身国と同じだが、言語は異なっている。

 B 扶桑国・・・南斉の永元元年(499)、倭国の僧・慧深(けいしん)が荊州にやって来て、こう言った。

           「大漢国の東二万里には扶桑国がある。扶桑の木が多く、そのため扶桑国と名付けられた。           扶桑の木は桐に似ており、芽が出るときは筍のようで、国人はそれを食べる。(中略)。国             王の名は「乙祁」といい、貴人の第一は「大對櫨(だいたいろ)」と言う。(中略)。嗣王が立っ           たが、三年の間、国事を見ることができなかった。その俗には仏法は無かったが、宋代の           明二年(458)、炎賓国の僧侶が5人、その国にやって来て仏法を伝え、以後、                風俗は改まった」と。

(注)
文身国・・・ブンシンコク。文身とは「入れ墨」のことで、九州の海人はおおむねこの文身を施していた。「魏志倭人伝」によると、倭人はもとより半島の弁韓・辰韓には文身をする者がたくさん居たとある。それはおそらく倭の水人で、弥生時代を通じて半島の鉄資源の開発・交易に携わっていたと思われる。
 倭国の東北7千里とあるが、この倭国は九州王権のことであろう。とすると「魏志倭人伝」の水行7千里と理解されるから、九州島北部から東北へ水行七日で到達するといえば山陰地方が考えられる。あるいはまだ先の敦賀などの北陸圏までが、文身国の領域に入るかもしれない。

大漢国・・・ダイカンコク。文身国の東5千里にあると言うが、文身国を山陰から福井のあたりと考えると、東には水行はできない。すなわち文身国から陸路で5千里東に行った所に「大漢国」があることになる。今日の中部地方がそれに当たると思われる。

扶桑国・・・フソウコク。永元元年(499)に「沙門・慧深(慧深僧侶)」が荊州(ケイシュウ)すなわち長江中流地域に到り、土地の者に語った国。大漢国のさらに東・二万里にあるという。陸行の二万里は倭人伝の換算法で「歩いて200日」である。中部地方から東に200日歩いた所というと関東圏だろうか?
 いま、その当否は措かざるを得ないが、それにしても不可解なのが「慧深僧侶」の存在だ。日本列島に仏教が初めてもたらされたのは日本書紀によると「欽明天皇の13年」(552年)が定説だからだ。もっとも538年と言う説もあるが、こちらは韓国で日本に仏教経典などを贈った百済の「聖明王」の墓の発掘によって否定されている。
 慧深僧侶が499年に存在したとすれば、仏教は倭国には499年以前、すなわち通説よりも半世紀早く、日本列島に伝えられていたことになる。そのことでも驚きだが、慧深によれば扶桑国にはさらに時代を遡った458年(南宋の大明2年)には仏法が伝えられていた、という。
 この慧深の記事など信じるに値しない――というのが、現在の史学の解釈だが、これほどの記事をゼロから造作したとは思えない。何らかの史実の骨格はあったのではないだろうか?
 倭国の所在地を九州とすれば、地理的な整合性はおおむね得られ、無下に否定する必要はないと思う。



    < 北史の概略 >

 『北史』も『南史』も唐の李延寿(リ・エンジュ)の選による。
 北と南に分けたのは魏の後継の晋王朝が滅び、大陸が南朝「宋」・北朝「北魏」と南北朝に分裂していた421年から隋が天下統一するまでの589年までは、それぞれの王朝が独自に政権と外交を掌握していたその状況をベースに歴史を組み立てたためである。

 『北史』は、「魏志倭人伝」の記述を取り入れ、倭国を捉えている。
 だが、後半は『隋書』の倭国記事そのままといってよい。格別に北史でなければ知りえない記事があるというわけではない。したがって省略する(隋書において詳しく論じたい)。


     < 南史の概略 >

 『南史』では「宋書」の対倭国記事が詳しく載せられている。また梁王朝から倭国王が除正されたのは「征東大将軍」であったことが明記されており、『梁書』の「征東将軍」は誤りであることが判明している。

 ただし、『南史』には『梁書』に出てくる倭国の別国「文身国」「大漢国」は記載されているが、「扶桑国」については、それを伝えたとされる「慧深」とともに何の描写も無い。



               (『梁書』の項、終り)                目次へ戻る