斉明紀を読む

※日本書紀第26巻。斉明天皇は第35代皇極天皇の重祚で第37代にあたる女帝。
  因みに前代の36代孝徳天皇は弟である。


  父母      父・・・茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子・敏達天皇の孫)
           母・・・吉備姫王(キビノヒメミコ)

 和風諡号    天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
                   
※「重日足(いかしひ・たらし)」とは重祚したことを表している。

  宮        飛鳥板蓋宮
           飛鳥川原宮
           後飛鳥岡本宮
           両槻宮(なみつきのみや=別宮))
           朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市=対唐・新羅戦の前進基地)

  夫君      高向王(たかむくのみこ)・舒明天皇(第34代)

 皇子・皇女    漢皇子(父は高向王)
           葛城皇子(天智天皇)・間人皇女・大海人皇子(天武天皇)…父は舒明天皇


  墳墓       小市岡上陵(をいちのおかのうえのみささぎ=娘の間人皇女と合葬)

 
    < 年代順の事績 >

年号 事       績 備  考
即位前紀 夫君・舒明天皇の即位2年に皇后となり、同13年に天皇が亡くなると自ら立って皇極天皇となった。しかし乙巳の変の起きた4年6月には弟の孝徳天皇に譲位した。
 大化5年10月に孝徳天皇が亡くなり、再び皇位に就いた。
乙巳の変…大化の改新と言われるが、この年に大化年号が使用されたためである。
元年
(655年)
・正月3日、飛鳥板蓋宮にて即位。
・5月1日、油絹の笠を付け龍に乗った唐人のような者が、葛城山から生駒山の方向へ飛んで行った。
 ○この年の冬、板蓋宮が焼けたので、飛鳥川原宮に遷る。
油絹の笠…雨天用の笠であろう。
2年
(656年)
・8月、高麗(高句麗)が使者81人を送って寄越した。
・9月、高句麗へ大使・膳臣葉積(かしわでのおみ・はつみ)以下を返礼使として派遣する。
 ○高麗使や百済・新羅使を飛鳥岡本の地でもてなし、そこを宮処として整備し、岡本宮を造る。また、香久山の西から石上山まで堀を作り、二百艘の船で石上山の石を運び、宮の垣石とする工事を行った。民はこの堀(運河)を「狂心渠」と呼んだ。
・狂心渠…「たふれごころのみぞ」。気違い堀という意味。
3年
(657年)
・7月、都貨羅(トカラ)人・男2名、女4名が筑紫に漂着したので、早馬で召喚した。
有間皇子が牟婁温泉に湯治に出かけた。
・有間皇子…孝徳天皇の皇子(母は間人皇女)
4年
(658年)
・4月、阿倍臣が船師180を率いて蝦夷を討った。秋田浦の蝦夷・恩荷(オンカ)が投降したので小乙上を授け、能代と津軽2郡の郡領にした。
・7月、勅命で智通と智達の二人を大唐の玄奘法師の下に遣った。
・11月、天皇が10月から紀伊の温泉に出かけている間、留守を預かる蘇我赤兄が有間皇子に「斉明天皇の施政の過ち三点」を挙げて叛意を唆したところ、皇子は真に受ける。赤兄は「叛意がある」として物部鮪(シビ)を皇子の館に遣って皇子を拘束した。捕縛したまま天皇の滞在する紀伊温泉へ送る途中、ついに皇子を殺害する。
蘇我赤兄…蝦夷の孫。のちに左大臣。
 有間皇子は孝徳天皇の唯一の子で、斉明天皇の甥でもあるが、斉明天皇の政治に批判的だったので、亡きものにされたのだろう。
5年
(659年)
・正月3日、天皇が紀伊の温泉から戻る。同月10日、吐火羅(トカラ)人が妻舎衛(メシャエ)の女と共にやって来る。
・7月、坂合部連石布(いわしき)と津守連吉祥(きさ)を遣唐使とし、陸奥の蝦夷男女二人を連れて行く。
 【割注の『伊吉連博徳書』引用によると、9月3日に二船で難波津を出航し、11日筑紫の大津浦経由で13日に百済の最南部の島に到着。その後二船はばらばらになり、石布の船は南方に流され、とある島に着いたがそこの原住民にやられてしまった。吉祥の船は大陸の南岸に漂着してなんとか長安へ到ることが出来た。翌10月15日のことであった。】
6年
(660年)
・正月、高麗(高句麗)の使人百人余りが筑紫に到来した。
・3月、阿倍臣が船師200を率いて粛慎国を討った。渡島(わたりのしま)の蝦夷1千余が大河のほとりに待ち受け、粛慎が攻めてくるので仕官したいという。
・5月、皇太子が初めて漏剋(ロウコク=時計)を作った。阿倍引田臣が蝦夷を50人余、粛慎を47名余連れてくる。須弥山を造り饗応する
・9月、百済から使者が来て「7月に新羅が唐を味方に引き入れて百済を討ち、君臣を捕虜として帰った」と報告。しかし西部恩率の鬼室福信が踏み止まって王城を守っているとも言う。
・12月、天皇は難波宮に行幸し、ここで諸軍備を整え、駿河国に勅命し、軍船を造るよう命じた。
・粛慎…紀元前からある満洲東北部沿海州に面した種族。和名では「みしはせ」と読ませる。『三国志・魏書・東夷伝』の序文に「虞(夏)より周におよぶに、西戎は白環の献あり。東夷に粛慎の貢あり。」と、周の時代から貢献して来たと書いている。
7年
(661年)
・正月6日、難波津から筑紫へ向かった。14日、伊予の熟田津の石湯行宮を経由して、那の大津に入港し磐瀬行宮に入った。天皇はこの大津を「長津」と改名した。
・5月9日、天皇は朝倉橘広庭宮に遷った。この時、朝倉社の叢林を切り倒して宮を造ったので、祭神は怒って社殿を打ち壊したり、鬼火が出現したりして大舎人などに死者が続出した。
・7月27日、天皇崩御。
・8月1日、皇太子は喪儀を行い、磐瀬行宮へ。この日の夕方、朝倉山の上に大きな笠を被った鬼が現れ、葬列を見守った。人々は嘆き怪しんだ。
・10月23日、斉明天皇の喪が難波津に帰還した。
・11月7日、飛鳥川原に殯(もが)りが営まれた。
・朝倉橘広庭宮…福岡県の朝倉市にあったとされるが、場所は特定されていない。

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