成務紀を読む

景行天皇の第三子(母:ヤサカイリヒメ=美濃の八坂入彦の娘)

和風諡号  日本書紀: 稚足彦(ワカタラシヒコ)
        古事記 : 若帯日子(ワカタラシヒコ)

       日本書紀には記載なし
         古事記では 志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)

<王妃と皇子・皇女>

 T日本書紀による
   
   なし

 U古事記による

   ワカヌケ王 
(母:オトタカライラツメ=穂積氏祖・建忍山垂根の娘)

  <年代順の事績>

事  績
元年  即位。太歳は辛未
2年  父オオタラシヒコを山辺道上御陵に葬す。
3年  武内宿禰を大臣とする。武内はワカタラシヒコと誕生日が同じなので、寵遇する。
4年  「国郡を定め、首長を置く」という詔を発する。
5年  山川を境として国・県を分け、それぞれの国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く
 山陽を影面(かげとも)といい、山陰を背面(そとも)という。
48年  甥のタラシナカツヒコを皇太子とする。
60年  崩御。107歳。

(注)
太歳は辛未
・・・辛未の即位年は景行天皇と同じだが、景行天皇の治世を60年としてあるので干支の一巡ということになり、即位年が全く同じになったに過ぎない。景行天皇の即位年311年は確からしいが、これに60年を足して371年を成務天皇の即位の歳とするのは無理である。

武内宿禰と誕生日が同じ・・・武内宿禰が書紀で事績として登場するのは「景行天皇25年の東国視察」「同27年条の帰還と報告」「同51年条のトヨノアカリに参列せず」の三箇所で、特に最後のは実は成務天皇と行動を伴にして、「トヨノアカリの宴で皆が気を許しているときに、非常事態が起こらないとも限らないから参列しないで、防備にあたっている」という理由を述べたところ、景行天皇から誉められたとあり、「忠臣」武内宿禰の面目躍如だが、それなら皇太子であるワカタラシヒコ(成務)は参列させて、武内だけが警備に当たっていれば済むことではないか。
 また古事記には見えないが、成務天皇と誕生日が同じでそのために大臣として寵遇されたという風にも記す。
 以上から、ワカタラシヒコ(成務)は武内宿禰の分身と考えてもいいように思える。分身といってもはじめにワカタラシがいて、あとで武内が分出されたのではなく、その反対である。「景行紀」の3年条で、同じ日に生まれたはずのワカタラシには触れもせずに武内宿禰の誕生のみを書いているのも、そう考える根拠となる。
 武内の母は記紀のどちらも「紀氏系のウズヒコの娘・カゲヒメ」だから、南九州とのつながりも十分考えられる。
 語源的にも「武」は「武(建)日」(南九州熊曽国=古事記・国生みの段)から、「内(うち)」は「ウツ」との変換も範囲のうちとすれば、これまた南九州に多い「宇都」(ウツと読むべきだが、南九州では一般にウトと呼び習わしている)が引き当てられる。さらに宿禰は『先代旧事本紀』に見える「足尼(すくね)」という使用例から「足」すなわち「タラシ」を当てれば「タラシネ」となり、けっして一般論の「すくね=少な兄(え)=大兄(おおえ)の対概念」とのみ捉えられるものではないことが分かる(第一、武内宿禰の宿禰がもし「少な兄」なら、武内に「大兄」がいたことになるが、そのような記事は無いのだから)。
 つまり武内宿禰とは「南九州熊曽国のウツマ(完全なる土地)に根を下ろした人物」と考えていいように思われる。このことは次代の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の事績においてまた指摘し、考察を続けたい。

国郡の造長・県邑の稲置・・・古事記では「国造」「県主」とおなじみの単語で記している。国郡の造長は「国造」を連想させるが、県邑の「稲置」(イナキ)は「県主(あがたぬし)」とは似ても似つかない。
 『随書』の「倭国伝」には、開皇20年(600年)のこととして、
「軍尼(クニ)、120人あり。中国の牧宰(知事)のごとし。80戸に一伊尼翼(イニキ)を置く。今の(中国の)里長の如し」との記述があり、国(軍尼)造120人の下部組織として、80戸ごとに「稲置」が置かれていたと見えるので、あるいは「稲置」の設置の方が古いのではないかと思えるが、稲置系の地域(たとえば九州)と県主系の地域(たとえば近畿)とが同時に並立して存在していたとも考えられる。

タラシナカツヒコ ・・・足仲彦。次代の仲哀天皇。ヤマトタケルの子で母は垂仁天皇の娘・フタジノイリヒメ。
ワカタラシヒコ(成務天皇)には弟が沢山いるのに次代を異母兄の子・タラシナカツヒコに譲ったのは不可解である。まして古事記では実子・ワカヌケ王がいるとしてあるのに、不可解極まりない。
 古事記は次のタラシナカツヒコ(仲哀天皇)記でもそんな事はおくびにも出さず、坦々とタラシナカツヒコの事績を記すのみである。
 こうなるとやはり疑念が湧いてくる。といって「そのような不可解な、存在感の無い天皇は造作されたのだ」というようなつもりはない。タラシヒコ(成務)は武内宿禰と重なると考えた方がよい、とは上で述べたし、考察中とも述べてある。

     
                                 (成務紀・終り)       目次へ戻る