清寧紀・顕宗紀・仁賢紀を読む

※ 清寧天皇紀の3年に「億計(おけ)・弘計(をけ)両皇子」が播磨国で発見され、都に引き戻されてから両皇  子は清寧天皇の後を継いで天皇になったという記事でつながっているので、一括して解釈する。

天皇名 清 寧 顕 宗 仁 賢
父 母  父:雄略天皇
 母:葛城カラヒメ
 父:市辺押磐皇子
 母:ハエヒメ
    
(葦田宿禰の娘)
   顕宗天皇に同じ
和風諡号  白髪武広国押
       稚日本根子
 (シラガタケヒロクニオシ
       ワカヤマトネコ)
  弘計(ヲケ)   億計(オケ)
 磐余甕栗宮
 
いわれ・かくりのみや)
 近飛鳥八釣宮
ちかつあすか・やつりのみや)
 石上広高宮
(いそのかみのひろたかみや)
正妃   なし  難波小野王  春日オオイラツメ皇女
皇子・皇女
  なし    なし  高橋オオイラツメ皇女・アサヅマ皇女・手白香皇女・樟氷皇女・橘皇女・オハツセワカササギ皇子・真稚皇女
 ※墳 墓   ・河内の坂門原陵(古事記:なし)   ・傍岳磐杯丘陵(古事記:片岡石坏岡陵  ・埴生坂本陵(古事記:なし)

    < 年代順の事績 >
     
清寧紀 事    績 備  考
即位前紀 ・ 星川皇子(父:雄略天皇・母:吉備稚媛)が大蔵の官署に押し入っ   て占拠する。しかし母の吉備ワカヒメともども誅殺されてしまう。
・ 河内国三野県主・小根(おね)は星川皇子に加担したが、大連・    大伴室屋に難波の田10町を贈り、命をつなぐ。
・ ワカヒメの実家の吉備上道臣一族がワカヒメ母子に変事があったと  して急遽40隻の船でやって来るが、既に誅されていたため、そのま  ま吉備へ戻る。
    479年
元年 ・ 大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣に立てる。 太歳は庚申(480年)
  2年 ・ 白髪舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負を置く。
・ 播磨国赤石郡縮見屯倉において、市辺押磐皇子の遺児・億計皇子 弘計皇子を発見する。
  西暦481年
  3年 ・ 四月、億計・弘計両皇子を皇太子と皇子に立てる。     482年
  4年 ・ 八月、蝦夷・隼人が内附する。     483年
  5年 ・ 正月に崩御。御年は若干(そこばく)。御陵は河内国坂門原。     484年
顕宗紀
即位前紀 ・ 安康天皇の3年10月に、父の市辺押磐皇子がオオハツセワカタケ  ル皇子(雄略天皇)によって殺害されたので、子の億計皇子(仁賢天  皇)・弘計皇子(顕宗天皇)両皇子は、まず丹後国の余社郡に逃げた  が、そこも危ないと分かると、播磨国赤石郡縮見屯倉に逃げ込み、  使用人として暮らしていた。
  あるとき、伊予来目部の小楯(おたて)という者が、たまたまやって来 て両皇子が只者ではないことを見抜き、ついに清寧天皇のもとへ使者 として出かけ、両皇子の復帰に大功をたてる。
 清寧天皇崩御の年に 顕宗天皇の姉である「飯豊青皇女」がしばらく「忍海角刺宮」で朝政を執っていた。
元年 ・ 11月に飯豊青皇女が亡くなったので、皇太子の億計皇子ではなく、 皇子の弘計が天皇位に就く。  太歳は乙丑(485年)
2年 ・ 父の市辺押磐皇子を殺害した雄略天皇の墓を暴こうとして、皇太子  の億計皇子にいさめられ、取りやめる。      486年
3年 ・ 月神と日神が人に懸かって阿閇臣事代に語り、月神を壱岐県主の遠 祖・押見宿禰に祀らせ、日神を対馬の下県直に祀らせる。
・ この年、紀ノ生磐宿禰が任那で専横し、百済国人300を殺す。
・ 崩御。
    487年
 古事記では在位8年
御陵は片岡之石高坏岡上にある、としている
仁賢紀
即位前紀 ・ 諱(いみな)を「大脚(おおし)」または「大為(おおし)」と言い、字は「  嶋郎(しまのいらつこ)」という。 本文の分注によると、諱や字はこの天皇だけ書き記す、とある。
元年 ・ 正月、石上高広宮に即位。 太歳は戊辰(488年)
2年 ・ 前代の難波小野皇后が自害する。     489年
3年 ・ 石上部舎人を置く。     490年
6年 ・ 9月、日鷹吉士を高麗に遣わす。この年のうちに、日鷹は高麗より工 匠「スルキ・ヌルキ」を連れて戻る。      493年
7年 ・ オハツセワカササギ皇子を立てて皇太子とする。     494年
8年 ・ この年、五穀豊穣、国中が清平で、民も殖えている。     495年
11年 ・ 8月、天皇崩御。10月、埴生の坂本陵に葬る。      498年

(注)

星川皇子・吉備ワカヒメ・吉備上道臣・・・100年余り前の応神天皇の時代から、吉備は王妃を出す大族であった。雄略天皇の妃のひとりが、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)出身のワカヒメで、雄略亡きあと、天皇家の金庫である「大蔵」を占拠して皇位を狙おうとしたのが、星川皇子事件であった。一種のクーデターと言ってよい。
 しかし大連・大伴室屋によって叛乱は鎮定され、星川皇子とワカヒメは焼き殺される。その際に吉備から実家の吉備上道臣の一族が船団で到来するが、鎮定されたと聞いてそのまま吉備に帰ってしまうのだが、なぜ何の詮索もせずにすんなりと戻ったのか、その理由は分からない。
 一つ考えられるのは、吉備は吉備でも吉備下道臣の前津屋(さきつや)が前代の雄略天皇の時に、叛意ありとして一族70名が全滅させられているので、その故事を怖れたのかもしれない。

三野県主・小根・・・みぬのあがたぬし・おね。河内国の豪族で、星川皇子の叛乱に加担したが、田10町という賂によってかろうじて滅ぼされるのをまぬかれた。当時、田10町から収穫できる米は玄米で2万キログラムくらいなものであろうから、現在に換算した金額では10キロが3000円として、600万円。命乞いの代償とすればずいぶん安いものだが、田10町といっても単に米の収穫だけではなく、隷属民をも含む財産であろうから、そこから別の収益も生まれるわけで、けっして廉価な物ではなかった。
 この40年後に「筑紫君・磐井」が朝廷に叛旗を翻して敗れ、その子の葛子が「糟屋屯倉」を叛乱の代償に朝廷に差し出しているが(継体天皇22年)、これと似たようなことだろう。

市辺押磐皇子・・・いちのべのおしはおうじ。父は履中天皇、母は葦田宿禰の娘・黒媛。息子の億計皇子、弘計皇子がともに天皇になっていることと、顕宗天皇即位前紀で弘計皇子が叫んだ「市辺宮に天下をしろしめしし<天萬国萬押磐尊>」から、市辺押磐皇子も天皇位に就いていたとしてよいだろう。

丹後国余社郡・・・丹後のよさ郡。余社は「与謝」とも書くが、雄略天皇22年条にある「水江浦嶋子」の伝説の舞台がこの「余社郡・筒川」であった。
 仁賢天皇(億計皇子)の字が「嶋郎(しまのいらつこ)」だというのは、その故事を取り入れたのであろうか。

飯豊青皇女・・・いいとよあお・ひめみこ。本文では顕宗天皇の姉と記すが、これは誤りだろう。
 「履中天皇紀元年条」には、正妃の子どもとして、市辺押磐皇子・御馬皇子・青海皇女(別名・飯豊皇女)の三人が挙げられている。これによれば、飯豊皇女は市辺押磐皇子の妹であり、顕宗・仁賢両天皇にとっては叔母にあたる皇女である。
 その叔母が、億計皇子と弘計皇子が皇位を譲り合っている間、「忍海角刺宮」で天皇位に就いていたのは、事実であろう。角刺宮は葛城地方にあり、清寧天皇の母・葛城韓媛はじめ「倭の五王」時代まで遡ると、母系はまさに葛城王国の出身者が目白押しだ。

高麗・・・「こま」。この時期の「高麗」は「高句麗」のこと。日鷹吉士(ひたか・きし)を遣わして工匠を求めたと書くが、実は高句麗では前年に「長寿王」から第21代「文咨(ブンシ)王」に後継されているので、その朝賀をかねて出かけたのだろう。正式な国交はないが、前代(長寿王)、前々代(広開土王)時代に続いた敵対関係は、小康状態に入っていた。

  
  上の「三野県主・小根」と、雄略天皇時代に大きな力を持っていた「根使主(ねのおみ)」の子の「小根使主(おねのおみ)」とがダブってしようがない。「根使主(ねのおみ)」は河内の日下に勢力を築いていた「大草香皇子」を騙して「押木玉葛(おしきのたまかずら)=金冠」を奪い我が物としたが、その行為は河内における勢力争いで根使主(ねのおみ)が勝利したことの象徴であり、それは小根使主の時代まで確実に続いていた。
  さらには実は雄略天皇として記載されている「雄略紀」の前半はこの根使主(ねのおみ)の専横を描いたのではなかったかとの思いが、より一層強まってくる。前半の「大悪天皇」と言われたのは根使主であったのではなかろうか。


            
(清寧紀・顕宗紀・仁賢紀の項終り)          記紀を読むの目次へ戻る