志布志市の史跡
志布志城址
マップ
志布志千軒の賑わいを生んだ前川河口から
    志布志城跡の台地を望む

志布志本城の見取り図。初め右半分の本丸
を含む部分だけだったのが、戦国期になると
左手へ次々に拡大されていった

平成十七年、国の指定史跡に昇格した。大隅半島では高山本城についでに二件目である。
 高山本城と同様、中世から戦国期にかけての築城の様子がはっきりと残っていることが指定につながった。

 高山本城は肝付氏自身が本城として山懐深く築き、肝付氏の滅亡と重なっているために、その廃墟はちょうど三橋美智也の名曲「古城」の趣きに近いが、志布志城は同じ城跡には違いないものの、開けた海港からは指呼の間にあり戦国攻防の余韻を漂わすというイメージはない。

 それでも南北朝時代の正平三(1348)年に松尾城に入った楡井頼仲の縦横無尽の活躍とその戦没の悲哀は、南朝方であったということで戦前は大きく取り上げられたのだが、いまそのことは措くにしても出自も定かならぬ一武将の光芒は今なお心に訴えるものがある。

 城は四城(内城・松尾城・高城・新城)からなり、左の写真では向って右のビルと真ん中のビルとの間に内城、真ん中のビルとその左のビルの間には松尾城の跡がそれぞれ見え、写真左端の丘の一部は高城跡へのものである。

 延文二(1357)年の頼仲自刃後は、島津一門の新納氏が入城して180年を治めるも、天文七(1538)年に串間にいた同門の島津氏に攻められて落城、さらに永禄五(1562)年には肝付氏が入城するという戦国期特有の波乱の中に推移した。
 しかしその肝付氏も肝心の高山本城が攻略されては見る影もなく、天正五(1577)年、城は再び島津氏の手に落ち以後は志布志地頭が置かれ、幕藩体制化の一国一城制のもとついに廃城となった。 

本丸跡に残された三宝荒神の祠

高山城本丸より一回り大きい本丸跡

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