〔注〕薩摩教学(儒教)の学統は次の通り

桂庵玄樹(始祖)−月渚ー一翁ー文之ー如竹ー喜春

愛甲喜春の墓(県指定文化財)

下小西児童公園内

如竹が島津光久(第18代)の侍講となり鹿児島に移ると自らも従ってそのもとで学び、他に易学・暦法なども修めた。博学多才は群を抜き、特に医学においては名声を博した。
  

万治二(1659)年には師の如竹に代わって侍講に就任し、以後実に28年の長きにわたって学問・教育の普及につとめた。貞享四(1687)年83歳の時に志布志に帰りいくつかの本を書いている。その中の師の如竹の話を伝えた書『喜春聞書』で、徳川家の侍講としてまた儒者として重きをなした藤原惺窩の四書注は実は薩摩にやってきた時に、山川港の寺で既に使われていた注(文之点)を持ち帰ったものに過ぎないーーと述べている。当時の薩摩教学の水準の高さを物語る史料である。

愛甲喜春の墓
肝付兼続の墓

かねつぐ

 肝付兼続は高山本城を本拠とする肝付氏第十六代の
当主であるが、永禄五(1562)年に志布志を治めていた
島津氏(忠将=豊州家)を討ち破り、志布志城に入城し
た。それと同時に息子良兼に家督を譲り、本人は省釣
(しょうちょう)と名を改めて隠居の身となった。
 だが四年後に病没した。享年は56歳、この兼続の時、
肝付氏の領域が最も広く、大隅半島の大半と日向の高
城までが旗下に属した。

 しかし次代の良兼以降になると次第に劣勢となり、良兼
の没後を継いだ十八代兼道(兼護)の時についに島津方
に降りることになった。天正二(1574)年のことであった。

 初め高山一城は安堵されたが、天正八(1580)年、薩摩
半島の阿多郡内わずか十二町余りを与えられて改易の
悲哀を蒙ることになる。

肝付兼続(かねつぐ)の墓

下小西児童公園内

マップ
マップ
愛甲喜春は慶長十(1605)年に志布志で生まれた。
もともとは関東相模の豪族の一党であったが、父の
代に零落して志布志に移り住んでいた。
 寛永年間、31歳のとき初めて正式に仏教の教えを
受け、さらに医学を学んだ。寛永十七(1640)年にな
ると、今度は「四書新注」に詳しい泊如竹(とまり・じょ
ちく)に師事すべく屋久島に渡り、ついに薩摩教学の
正統を継ぐまでになった。