松山城の築城は古く、文治四(1188)年 平清盛の弟・頼盛の孫である重頼が当地 に下り、城を築いたという記録が残って いる。 しかしわずかその四年後に源頼朝が鎌 倉幕府を開いたため、追捕の対象となり おそらく建久年間(1190〜1198)のうち には城を明け渡すことになっただろうと 思われる。 重頼のその後がどうなったのかは不明 である。 壇ノ浦の合戦(1185)で平家は完敗し いわゆる落ち武者が九州各地に散らばっ たが、築城までして源氏の追っ手を阻も うとしたケースは稀であったろう。
小高い丘が二の丸の跡
京ノ峯遺跡は松山町の「やっちくふれあいセンター」の土地造成中に発見された縄文時代前期から中世に至る複合遺跡である。
なかでも特筆すべき遺物は弥生時代中期(約2000年前)の円形周溝墓である。数も半端ではなく何と20基も発掘されている。
一般には同じ弥生時代の前期にまず近畿を中心に作られ、次第に広がって九州には古墳時代になってから普及したというのが定説であったが、京ノ峯遺跡はそれを覆し、近畿とそう変わらぬ時期に円形周溝墓
が作られていることが分かった。
近畿などの中央との通交は意外に頻繁にあったようで、事実この遺跡のある高台からわずか西に下ったところに発見された「前谷遺跡」では、大量の縄文時代中期の土器(春日式が多い)の中に瀬戸内式と呼ばれる船元式土器や黒木式土器が混じっていたが、既に縄文時代の中頃にはそのような交流があったのである。まして弥生時代なら・・・・・と類推してよさそうだ
いずれにしても一見して辺境と思われがちな大隅地方だが、海を使った交通往来を考えた場合、その先入観は一応捨てて考えてみる必要があるだろう。
本丸・二の丸・五兵衛城・八幡城が
あったとされるが、二の丸跡のみ残る
京ノ峯遺跡は見晴らしの良い小高い丘にある