史記・論衡・漢書・倭人字磚

〈史記〉

 史記はよく知られているように、前漢の史家・司馬遷(前145〜86?)によって書かれた中国正史(黄帝〜前漢の武帝まで)で、正史24国史の編纂形式の基本である「本紀、志、表、列伝」を確立したことでも著名である。

 史記では名指しで倭人は登場しないが、秦の始皇帝時代のこととして「徐市(徐福)の東海行」の話があり、この東海の神仙の住むという「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)」という土地の名が語られる。これが日本列島もしくは近海の島々かと考えられ、到来したとされる「徐市(徐福)」の上陸推定地が南は鹿児島から、北は秋田あたりまで20ヶ所ほどあるという。


 巻六 秦始皇帝本紀 第六

 ・・・斉人の徐市は上書して言うに「海上に三神山あり。名を蓬莱・方丈・瀛州といい、仙人が住む。心身を清め、童男・童女と三神山へ行くことを請い願いたてまつる」と。そこで徐市を遣わし、童男・童女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。 (始皇帝28年=紀元前219年)

 ・・・海に連なり、北の琅邪(ろうや)に到る。神仙の術を持つ徐市らは、ここから海を行き、神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費ばかりが多かった・・・。 (始皇帝37年=紀元前210年)

 
 巻百十八 淮南衡山列伝 第五十八

 ・・・また、徐福に海に出て、不老不死の薬を求めさせたが、帰って来て偽りの報告をした。
 「私は海の上で大神に会い、こう言われました。・・・『汝らは何を求めておる?』。『延命長寿の薬をお願いしたいのです』。『汝の秦王の礼物では足らぬ。とても手に入れることはできぬ』と言い、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。・・・『何を献上すればよろしいのでしょうか』と言うと、神は『育ちのよい少年少女と、いろいろの道具に技術を献上すれば、神薬を得られよう』と言われました」
 始皇帝は大いに悦び、少年少女三千人に五穀の種・諸道具・技術者を与え、東方に行かせた。
 徐福は平野の水の豊かな地に着き、そこの王となって帰ることはなかった。それで秦の民は嘆き悲しみ、乱を起こそうとする者が十軒のうち六軒も出るような状態になった。 
(元朔5年=紀元前124年の条)


(注)徐福の渡来伝説・・・
以上の諸説から、方子(仙術家)の徐福が秦の時代に東海に乗り出したことは史実とされ、日本各地に渡来伝説地がある。鹿児島県の串木野、佐賀県の川副町、和歌山県の新宮市、京都府の丹後地方などは特に有名で、それぞれ指定の伝承地がある。
 ただ、いただけないのは、徐福たち一行が先進的技術を持って来て、遅れた倭人たちにいろいろ教えてやったとする見方が多いことだ。中には、徐福こそが神武天皇であるなどと言う論者もいるが、いくらなんでもそれはあり得ない話だろう。言葉の問題一つとっても、倭人語が中国語に置き換えられたような痕跡はないのだから。


  
  
〈論衡(ろんこう)〉

 前漢の人・王充(おうじゅう・AD27〜97?)の著わした一種の歴史哲学。当時流行していた歴史理論「讖緯説(しんいせつ)」を迷信として排斥している。 
 倭ではなく「倭人」と名指しで登場する点では、もっとも古い時代(周代)のことが描かれている。


  第八 儒僧篇

 
周の時、天下泰平にして、越裳(えっしょう)は白雉を献じ、倭人は暢艸(ちょうそう)を貢ず。

  第十三 超奇篇

 
暢艸(ちょうそう)は、倭人より献ぜられる。

  
第十八 異虚篇

 
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず。

  第五十八 恢国篇

 
成王の時、越常(えつじょう)、雉を献じ、倭人、を貢ず。


(注)周・・・周王朝(BC1120〜221:ただし1120〜771を西周、770〜221を東周とし、東周は770〜431の春秋時代、430〜221の戦国時代に分けられる)のこと。
 周王の下に「天下泰平」だったのは西周時代で、その時代に越と倭人からそれぞれ貢献があったという。越はひとまず措くとして、紀元前770年以前に来ていたという倭人は日本列島でいう縄文晩期人に相当する。もしこの倭人が列島人であるとすると、当然、舟を操らなければならず、航海民系の倭人ということになろう。
 
 越裳(えっしょう)・・・恢国篇の越常と同じ。越地方に住む非漢民族。後の越(国)と重なる。越人は水人系と言われており、そうなると航海系倭人とも重なる部分が出てくる。ともに舟を操って、はるか遠い中国大陸北半に位置する周王朝へ貢献したことが読み取れる。

 暢艸(ちょうそう)・・・暢草と同じ。また鬯草とも書き、祭祀用の酒に入れる香草のこと。ショウガ科のウコンとされる。南方系の薬草である。このことから倭人自身も南方系と考えられている。もし、列島内の倭人を指すのであれば少なくとも九州島以南の倭人だろう。また、徐福が求めたという薬草がこれであるのならば、その地は当然、九州島以南であるということにもなる。
 いずれにしても、倭人のもたらす鬯草が、周王朝の祭祀に必須の物であったということは、当時の大陸人の倭人観の一端を表していよう。

 成王・・・周王朝2代目。初代武王を継ぐ。周公と召公という良い補佐があった。



   
〈漢書〉

 
前漢書とも言う。後漢の班彪(はんぴょう)が書き始め、子の班固(はんご)、班昭によって完成を見た。全120巻。その一部である「漢書芸文志(かんじょげいもんし)」は2世紀までの中国史書など600種を網羅しており、漢代の文化のレベルを如実に表している。

 

 
東夷は天性が従順で、西、南、北(の諸族)とは異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み、海に浮かんで九夷とともに住もうとした。もっともなことだ。
 それ、楽浪の海中に倭人が住み、分かれて百余国をなし、定期的に朝貢してくるという。

                        (巻二十八下 地理志 第八下 燕地)

 
会稽の海外に、東テイ(魚篇に是)人が住み、分かれて20余国をなし、定期的に朝貢してくるという。
                                    
(同上 呉地) 
 
(注)孔子
・・・言わずと知れた「論語」の孔子。論語弟218条に「子(孔子先生)が九夷に住まおうとされた。ある人が、むさくるしい所だが、いったいどうされるのだろう、と言ったが、先生は、君子が住めば、何もむさくるしいことはあるまい、とお答えになった」とある。

 楽浪・・・楽浪郡のこと。紀元前108年、時の武帝のとき、朝鮮半島周辺に「楽浪・玄兎・真番・臨屯」の4郡がおかれて漢の支配下に入った。今の北朝鮮あたりとされる。
 その楽浪の海中とは、北朝鮮海域だけを指すのではなく、朝鮮半島周辺の全域を指す。従って楽浪の海中に住む倭人とは航海民として列島からやって来ている倭人のことだろう。

 百余国・・・魏志倭人伝の「今、使訳の通ずる国は30余国。」とを勘案して、漢代には百余国あったのが、次第に合併され、魏の時代には30余国に統合された――と解釈する論者が多い。倭人伝時代の30余国は間違いなく女王国連盟下の九州邪馬台国を指しているとしてよいが、漢代の百余国をただちに日本列島の倭人の国々を指しているとしてよいか、疑問がある。
 魏志倭人伝の序文では、漢代にはまだ日本列島は認識されていなかった、という書き方がなされている。したがって漢書のこの「楽浪海中に百余国をなしていた」倭人は、素直に朝鮮半島内の倭人国家群として差し支えないものと思われる。二世紀のちのことだが、魏志韓伝では馬韓54国、辰韓・弁韓24国のあわせて78国が朝鮮半島の南半分(韓)にあったと書くが、これに北部朝鮮のワイ・高句麗・東沃岨などの国々を合計して百余りの国があったということではないだろうか。

 東テイ人・・・会稽の海の外に住むと言うこの東テイ人は、20余国に分かれ、定期的な朝貢を欠かさなかったという。東という形容からすれば、東テイ人の居住地域は台湾から先島、沖縄・奄美だろう。朝貢の中身は書かれていないが、地理志の描く所では、定期の朝貢があるようで、この表現は論衡の「周の時、天下泰平で、・・・倭人は
暢艸(ちょうそう)を貢献している」という箇所と見事に対応する。
 


  〈
倭人字磚(わじんじせん)〉


 安徽省亳県(あんきしょう・はくけん)所在の曹操宗族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、多量の字磚が出土したが、その中の一枚に倭人という字を含む文章があった。この「元宝坑村一号墓」は一族の曹胤(そういん)の墓と言われ、築造年代は後漢の建寧年間(168〜172年)であることが分かっている。


 
「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」


(注)盟する・・・同盟・連盟の盟であり、「盟する」とは「互いに神前において誓約して、よしみを結ぶ」ことである。後漢書で述べるが、建寧年間を含む「桓帝と霊帝の統治期間(147〜189)には倭国において「乱れ(大乱)」が生じ、その結果、女王ヒミコが邪馬台国の王となって収まったのだった。
 「倭人有り」の倭人はその頃の倭人で、この文が果たして、倭国の混乱した状況を受けて作られたものなのか、それとも列島の倭国の状況とは無関係の、大陸における倭人の活動の一端を表した物なのか、どちらとも言い難い。
 
ただ、倭人が2世紀の半ば頃に確かに大陸のそこ(安徽省亳県)に居て、後漢人(といってもやがて魏を建国するのだが)と同盟を結ぼうかと言えるような立場にあったことだけは史実と見てよい。

    
                             
 (史記・論衡・倭人字磚 終り)     目次へ戻る