晋書・四夷伝・倭人

『晋書』は中国二十四史のひとつで、史記・漢書・後漢書・三国志の次に位置する正史である。

 しかしその編纂者は房玄齢(ボウ・ゲンレイ=578〜648年。唐の貞観時代の政治家)で、『隋書』の編纂と変わらぬ頃に、ようやく纏められた。

 晋の時代は魏の大将軍だった司馬懿の孫・司馬炎が魏を滅ぼして即位した泰始元年(265)から、宋が建国する420年まで11代155年続いたが、その間、倭人(倭国)との交流が描かれているのは、「四夷伝」倭人条と「武帝紀」にニ箇所、あとは時代を一世紀以上飛び越えた「安帝紀」に一箇所の都合5箇所しかない。
 
 飛び越えた一世紀とは、日本史で俗に言われている「謎の四世紀」を指すが、正確に言うなら「武帝の太康10年(289)から、安帝の義熙9年(413)までの124年の空白」のことである。

 さて、『晋書・四夷伝・倭人』は先に触れたように唐の時代になって編纂され、しかも多くは『三国志・魏書・東夷伝・倭人』を下敷きにしているため、ここでは全文を解釈することなく、一部の特徴的な記述のみを取り上げることにする。
 また、『四夷伝・倭人』以外に、「武帝紀」および「安帝紀」の記事も同列に、ただし項立ては別にして記載し、注記してある。


    < 巻97 四夷伝 倭人 >

・・・(倭人は)正歳と四節を知らず、ただ計るに秋収の時を以って年紀となす。人、多く寿にして、百年或いは八九十(年)ならん。国に婦女多く、淫せず、妬せざるなり。争訟少なし。軽き罪を犯す者は、その妻と孥とを没し、重き者はその家を族滅す。
 旧(もと)、男子を以って主たらしむも、漢の末に倭人乱れ、功伐定まらざれば、すなわち女子を立てて主ならしむ。名づけて卑弥呼という。
 
宣帝の公孫氏を平ぐるや、その女王、遣使し、帯方(郡)に至りて朝見せり。
 その後、貢聘絶えず、
文帝の相をなすに及びて、また数至せり。泰始の初め、遣使し訳を重ねて入貢せり。

(注)
年紀・・・ここでは倭人の歳の数え方は「秋の収穫でもって1年と数える」と述べられている。よく言われる「2倍年暦(春の耕作で1年さらに秋の収穫で1年の計2年)」ではないことがここではっきりした。
 その後に続く寿(長生き)の「百年、八九十年」は文字通り今日と同じ百年、九十年、八十年でよいことになる。この晋書の読者は中国人を想定しているのだから、当然と言えば当然であるが――。

国に婦女が多い・・・これの捉え方には二通りがあろう。ひとつは、実際に頭数として女性が多くいるというもの。もうひとつは男と変わらぬくらいの数はいるが、人目につく所では女が特に目立っている、と考えるもの。

 前者を考える場合、当然その理由がなければならない。女性のほうが数が多いということは、逆に男の数が少ないということでもある。なぜ少ないのか。考えられる理由は @戦争で男が多数死んだから。 A戦争以外の理由で男が多数死んだから。 B死んだのではなく、どこか他所に行っているから。
 @は魏志倭人伝に記載された「卑弥呼の後継をめぐる争いで千人もが死んだ」というような事態があれば、一時的に男が減少し、その分女が増えたように見えるだろう。だが、そのあとに「争訟(争いごと)少なし」とあるのとは矛盾している。
 Aの戦争以外で男だけが多く死ぬという事態を想定すると、たとえば海人などでは、海で時化や暴風に遭遇した場合、多数が海の藻屑になるということがある。たしかに生業としてほとんどの男たちが海産・航海など海の仕事に従事している島などでは、そのような事態のために少年以下の子供たちを除いて男が激減することもあろう。よく言われる「女護が島」などはその事例のひとつだろう。
 しかしこれも例外的かつ地域的な事象で、倭人国全体がそうであるとは言えない。

 私見ではBの戦争・事故・天変地異によらないのに男が少ないのは、他所に行っているから――である。魏志倭人伝に見えるように「弁韓・辰韓には文身(入れ墨)をした倭人が数多くいた」のに「倭人国ではなかった。韓半島で倭人国として挙げられたのは狗邪韓国だけだった」とすると、実際に向こうに多数いた倭人は主として九州島の国々に故郷を持つ倭人であり、今日の言葉で言えば韓半島に「出稼ぎ」に行っていたのだろう。それほど韓半島での就業は「金になった」に違いない。
 これに類することは同じ魏志でも韓伝に書かれている。「弁韓・辰韓は鉄を産出するので、韓、ワイ(さんずいに歳)、倭が集まってきて、生産に従事している」という内容のことが載っているのである。韓は現地人だが、ワイは今の北朝鮮からの出稼ぎであり、倭は韓半島に居た倭人ももちろんいるが、倭人国つまり主として九州島から渡っていった出稼ぎ倭人も多かったはずだ。
 この事態は弥生時代の中期以降、三韓時代の終わりごろまでは常態化していたと思われ、それゆえに構造的なものと言ってよく、そのことを中国史書ではしばしば興味本位的な書き方で「女人国」の存在を挙げたり、晋書のように「婦女が多い」と書いたりしているのだろう。


 後者を考えてみよう。
 女性が人目につく存在であるとすれば、生業が農業中心だったということが挙げられよう。家族中心の農業では男も女も田園で、つまり外で働くゆえ、人目にはつきやすい。だが、農業はなにも倭人国だけではなく朝鮮半島でも、大陸でもどこでも行われているのであるから、倭人の女性だけが特別、外で目立っていたわけではないだろう。したがって、これは「婦女多し」の理由にはならない。
 大陸中国では儒教による男尊女卑のゆえに、女は人目につかないように働かせる――というような特殊事情があり、倭国にやって来た中国人使者の目には「女がやけに目立つ」のかもしれないが、倭人国に儒教が存在していないことは中国人使者には十分判っていたはずであるから、そのことを考慮せずに「目立つから女が多いのだ」というような単純な思い込みで記事に仕立てたとは考えにくい。

 以上から、筆者は「国に婦女が多い」理由は「倭人男性の韓半島への出稼ぎ」論で説明できると考える。

宣帝の公孫氏を平ぐるや・・・宣帝は晋王朝初代・武帝(司馬炎)の祖父・司馬懿への贈号。
宣帝・司馬懿は魏の大将軍として景初2(238)年、帯方郡を拓き、燕王を自任していた公孫氏の嫡流である公孫淵(コウソン・エン)を遼東の襄平で破り、帯方郡までを平定した。
 その余勢を怖れた邪馬台国では女王・卑弥呼が早速に朝貢使を送り、よしみを繋ごうとしている。それはまた女王国の南部にある狗奴国への牽制でもあった。幸いにも女王卑弥呼は魏の明帝から「親魏倭王」の金印を授かり、九州島では並びなき権勢のお墨付きを得て、7〜8年の安泰を確保することになった。

 この部分に関して、上の「名づけて卑弥呼という」から「宣帝の公孫氏を平ぐるや」までを一体と見る解釈がある。それは「名づけて卑弥呼という。(卑弥呼は)宣帝の平げし公孫氏なり」と解釈するもので、それだと「卑弥呼が燕王を自任し、宣帝(司馬懿)に討ち取られた公孫氏の同族に他ならない」そうだ。
 驚天動地とはこのことで、改めて原文を提示してみると、その誤りがわかる。

   <名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見。>

 誤りは「宣帝の平げし公孫氏なり」と「也」を「なり=である」の意味に採ってしまっていることで、ここでは「也」を「や」ととらねば次の「その女王・・・」につながってこない。帯方郡という韓半島中央部までが強大な大陸国家・魏による直接支配に入れば、やがてさらに南下し、半島南部はおろか九州島にまでその食指が伸びてくるのは避けられまい――という危機感が九州島全体を襲ったゆえの遣使朝貢であった。
 現に、その直後には楽浪郡、帯方郡の両郡支配を断行し、半島南部の三韓を、冊封体制に組み入れようとしており、それによって辰韓を中心とする反乱が起こっているのである。
 卑弥乎がもし公孫氏の出身であれば、何と言ってもまず「魏志韓伝」「魏志倭人伝」に真っ先にそう書かれなければおかしい。中国人史官がそのことを隠す必要はさらさらないからだ。まして滅ぼした宿敵公孫氏の出自であればいくら倭人に擁立されたとはいえ「親魏倭王」などに任命するはずはない。逆にそのような卑弥呼を王に立てたら倭国までが魏の敵国になってしまうではないか。これが有り得ないことは言うまでもないだろう。

文帝の相をなす及びて・・・文帝とは司馬昭で、司馬懿の子であり、初代・武帝(司馬炎)の父。司馬懿の死後、兄の司馬師が大将軍になった一方で、弟の昭は文官として魏をほしいままに動かした。そのような状況を「相をなすに及びて」すなわち「相(宰相)となって魏を専横していた頃に」と表現したのだろう。
 そのころ、確かに卑弥呼は景初2(238)年の第一次を皮切りに、正始元年(240)、同4年(243)、同8年(247)と「数至(数回の遣使)」を行っている。
 最後の「泰始の初め(265年ごろ)」の朝貢は卑弥呼ではなく、あとを継いだ「台与(とよ)」からのもので、晋の初代・武帝の就任(晋王朝の開始)への遣使である。


   < 晋書 巻3 武帝紀 > 武帝(初代 司馬炎=シバ・エン:236〜290年)

 泰始2年(266)11月

   倭人、来たりて方物を献ず。
   円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。


 太康10年(289)

   是の歳、東夷絶遠三十余国、西南夷二十余国、来献せり。


(注)
泰始2年
・・・司馬氏は、ついに名実ともに魏の後を襲って王朝を開いた。宣帝という贈号をもらった司馬懿が魏の大将軍に就任し、以降、専横を専らにし始めてから30年、三代目の司馬炎の時であった。
 倭国はその祝賀のために遣使したが、遣使の主は卑弥呼の後継者「台与(とよ)」であったろうとは、邪馬台国畿内説・九州説によらず、大方の一致する見解である。
 この11月(旧暦)には「冬至の祭祀」があり、倭人の使者もつぶさに見ただろうとされている。そのことは倭人貢献の直後に「円丘・方丘・・・」の一文が挿入されていることで確かに理解できよう。この一文によって「円丘と方丘が構造的に結合された、つまりは前方後円墳のモデルではないか」と論じた立命館大学教授の山尾幸久は、のちに誤認であったとしてその説を撤回している。
 倭人の間ではすでに弥生中期には「弥生墳丘墓」「円形周溝墓」「方形周溝墓」など、のちの古墳に発展したであろう高塚古墳の前駆的な墳墓が存在しているから、前方後円墳の発生はそこに求めたほうがよいと思われる。 

太康10年・・・西暦289年のこの歳は、武帝の死の前年で、病臥している武帝の安否を気遣い合計50余国の東夷および西南夷が朝貢してきた。
 このうち東夷は「絶遠」とあるが、魏志倭人伝の女王国傘下の30国のうち21国が「其の余の傍国は遠絶にして道理(=行程)を詳らかにし得ない」という「遠絶」と重なる表現である。では、それは女王国連盟の30余国かというと、私見ではそうではない。もし女王国を含む30余国であるならば「女王が貢献した」と名指しするはずで、それが無いということは、女王国はすでに存在しなかったと考えてよい。
 九州の邪馬台国が東遷したとする論者は、もう畿内に東征したから当然のこと女王国は貢献していない。だからそう書かれなかったのだ――とし、この記事を証拠のひとつに挙げるだろう。
 だが「神武東征説話」によれば、東征したのは「彌彌(みみ)」という王名をもつ南九州の投馬国であった――と考える筆者は、太康10(289)年に貢献したのは、女王国の南に存在し、女王国を宿敵としていた「狗奴国」だとする。狗奴国が女王国を侵攻して王権を奪い、女王国連盟30国(女王国を除けば29国)の盟主に君臨したものと考えているからである。(狗奴国による邪馬台国侵攻とその後については「仲哀紀を読む」を参照)


    < 晋書 巻12 安帝紀 > 安帝(第10代 司馬徳宗=382〜418年)

 義熙9年(413)

   是の歳、高句麗、倭国、および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり。

(注)
高句麗・倭国の貢献・・・『三国史記』<高句麗本紀>の第20代・長寿王の条によれば、「元年(413年)、使者・高翼を東晋に派遣し、国書を奉呈し、白馬を献上した。安帝は王を封じて、<高句麗王楽安郡公>とした」とあり、完全に対応している。
 また倭国の貢献については『日本書紀』<応神紀>の28年条の「秋九月、高麗(高句麗)王、遣使して朝貢す。よりて表を上せり。その表に、高麗(高句麗)王、日本国に教う、と謂えり。時に太子・ウジノワキイラツコ、その表を読み、怒りて高麗(高句麗)の使を責むるに奏状の無礼を以ってし、すなわち其の表を破れり」とあるのと対応しているようだ。
 ウジノワキイラツコは高句麗王の無礼を怒って表を破り捨て、高句麗の申し出には一顧だにしなかったように描かれているが、その実は高句麗とともに東晋の安帝の元に使者を送ったと見てよい。
 表をもたらした高句麗の長寿王は、この歳が即位元年であり、私見によれば同じこの歳にウジノワキイラツコこと宇治天皇も即位しているから、応神王朝と高句麗の間の20年近い戦争状態に終止符を打つべく、たまたま代替わりが同じ歳ということもあって、向こうから共に東晋王朝へ報告かたがた手打ちに行ったのでは、と考えられよう。



          < 晋書の項、終り >              中国史料の目次に戻る