曽於市の史跡
岩川八幡神社
マップ

旧大隅町岩川郷に鎮座する。祭神は応神天皇・神功皇后
仲哀天皇である。
 岩川郷は幕末まで末吉郷七村のひとつに過ぎなかった。
それは岩川は島津家の重臣・伊勢氏の私領であったため
で、大邑でありながら外城(とじょう)の単位である郷の地位
が得られず、家臣団はなにかと不遇をかこっていた。
 ところが戊辰の役の庄内藩との戦いにおいて、伊勢家岩
川私領五番隊(隊長・大津十七)が庄内最強の砦である関
川を攻略し、大殊勲を挙げたため、ついに明治二年になって
岩川郷の発足を赦された。家臣団の欣喜は溢れんばかりだ
ったという。

岩川八幡といえば「弥五郎どん祭り」であろう。
毎年秋十一月三日に行われる「浜下り」には身の丈一丈
六尺七寸(4.85メートル)の弥五郎どんが神社から街中
へ繰り出す。その様は、一種異様な見ものである。
 神殿の中に祭られている御神体というわけでもなく、普段
は専用の倉庫に収められている。ただし面は大隅郷土館に
展示してある。
 この弥五郎どんの正体については諸説があり、地元の伝
承では「武内宿禰」という説が一般であるが、下の看板にも
見えるように「隼人の首領」説も唱えられている。

幕末の薩摩藩国学者・白尾国柱の著した『麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)では地元の武内宿禰説を挙げたあとで「大人弥五郎は隼人記によれば、ホスセリノミコトの子孫なり」としている。
 隼人記なるものが不明だが、国柱のこの見解が「弥五郎=隼人の首領」を引き出したものであろう。
 しかしよく考えてみると両説併記というのもおかしなものだ。というのも武内宿禰は記紀に拠れば「仲哀・神功・応神・仁徳」の各天皇に仕えた功臣中の功臣である。ところが他方の隼人は記紀によると天皇に仕えはするが反逆性が強く(日向神話の海幸また履中天皇紀に見える住吉皇子のクーデターへの加担説話。さらに養老四=720年には国分を中心に大反乱を起こしている)、とても武内宿禰と
同列に扱えるものではない。

 大忠臣か反逆心に満ち満ちた者のどちらかだ――という二者択一では戸惑うばかりである。そこで強引だが<武内宿禰=隼人の首領>とおいてみる。こうすると当然両者の実在性が問われよう。隼人の首領が存在したことは明白であるから、問題は武内宿禰の実在性である。
 戦後史学は記紀の記述のうち確実なのが「ワカタケル」こと雄略天皇の存在であり、それ以前は実在性が無いとする。したがって仁徳朝を最後に姿を消す武内宿禰の実在は考えられていない。これが果たして是か非か――記紀の記述をもう一度、現地の伝承に照らし合わせて読み直す必要がありはしないだろうか。

鳥居をくぐると上り参道。途中、右手に
庄内・温海町との交流記念碑が建つ