推古紀を読む

第33代推古天皇(女帝)の在位は36年で、年紀がほぼ史実と考えられている第21代雄略天皇以降では欽明天皇(第29代)の在位33年を上回り、最長である。

父母      父:欽明天皇
         母:キタシヒメ(蘇我稲目の娘)

和風諡号   豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)

 
       豊浦宮

 
夫       敏達天皇(皇后ヒロヒメ死後に入内した)
          
皇子・皇女   皇子:竹田皇子・尾張皇子
         皇女:ウジノカイダコ皇女(聖徳太子妃)・オワリダ皇女(彦人大兄皇子妃)
              ウモリ皇女・タメ皇女(舒明天皇妃)・サクライユミハリ皇女


墳墓       竹田皇子陵に合葬
           古事記:科長大陵(しながのおおみささぎ)

    
          < 年代順の事績 >

事       績  備  考
即位前紀 ・幼名は額田部皇女。第31代用明天皇と同じく、母はキタシヒメ。18歳で敏達天皇に嫁ぎ、34歳の時に天皇に先立たれ、5年後の39歳で天皇位に就任した(豊浦宮)。 キタシヒメは蘇我稲目の娘。蘇我氏が専横をふるうきっかけとなった。
元年
(593年)
・4月、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とする。
・この年は太歳「癸丑」。
2年
(594年)
・2月、聖徳太子らに「三宝興隆の詔」を出す。諸臣は競って仏舎をり、。これを「」と名づけた。 三宝興隆は仏法興隆と同義。
3年
(595年)
・5月、高麗の僧・恵慈が渡来し、聖徳太子の師となる。
・7月、紀男麻呂らを将軍とし「任那復興」を求めて筑紫に派遣して新羅と交渉していた軍勢が帰任する。
・高麗は高句麗のことで後の高麗王朝ではない。


4年
(596年)
・11月、蘇我馬子大臣が建設していた法興寺が竣工する。息子の善徳を寺司とする。
5年
(597年)
・4月、百済が王子・阿佐を使者として朝貢。
・11月、吉士・磐金を新羅に遣わす。
6年
(598年)
・4月、磐金が新羅からカササギを2羽連れて帰る。8月には同じく新羅から孔雀が送られてくる。
7年
(599年)
・4月、大きな地震があり、被害甚大。地震神(なゐの神)を祭る。
・9月、百済からラクダ、ロバ、ヒツジ、白キジが送られる。
8年
(600年)
・2月、新羅と任那に紛争が起こり、任那を救うために境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍として1万余の軍勢を半島に送る。新羅はタタラ・スナラ・ホッチキ・ウィダ・アリヒシノカラ・アララの6城を割譲し降伏する。だが、軍勢を引き上げると新羅は再び任那を攻撃した。
9年
(601年)
・2月、皇太子(聖徳太子)、斑鳩に宮を造る。
・3月、大伴連囓(くい)を高麗へ、坂本臣糠手を百済に遣わし任那救援を行わせる。
10年
(602年)
・2月、来目皇子を新羅を撃つ将軍に任命し、軍勢2万5千を授け、筑紫に赴かせる。
・6月、大伴連と坂本臣両者が百済から帰る。筑紫の来目皇子が病を得、新羅征討を果たすこと不可能となる。
・10月、百済僧・観勒(カンロク)が暦・天文地理書および遁甲方術の書を持参し、帰化。陽侯史の祖・玉陳(たまふる)が暦法を、大友村主高聡が天文遁甲を、山背臣日立が方術をそれぞれ学び、一家を成した。
来目皇子は聖徳太子の弟。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女。
11年
(603年)
・2月、来目皇子が筑紫で死去。河内の埴生山の岡へ葬る。
・4月、来目皇子の兄、當麻皇子を征新羅将軍に任命し難波から出航したが、播磨で妃の舎人姫が亡くなったため征討は中止となる。
・10月、小墾田(オハリタ)宮に遷る。
・11月、秦造河勝が聖徳太子より仏像を得て蜂岡寺を建立する。
・12月、冠位十二階を定める。
冠位十二階…徳・仁・礼・信・義・智の6徳目にそれぞれ大と小とを付け十二階とした。階は「しな」と読み、後の令制では「品」が採用される。
12年
(604年)
・4月、聖徳太子が「憲法17条」を制定。
・同じ月に黄書(きぶみ)画師・山背画師を定める。
13年
(605年)
・4月、初めて銅製の丈六の仏像を造る。鞍作鳥を造仏工に任じる。
この時、高句麗・大興王より黄金300両の献上があった。
・鞍作鳥…止利仏師のこと。
14年
(606年)
・4月、丈六の仏像を元興寺金堂に納めいれる。
・5月、鞍作鳥の功績をたたえ、大仁の位を授け水田20町を与える。
・7月、聖徳太子が天皇に勝鬘経を講じ、また岡本宮では法華経を講義した。その功で聖徳太子に播磨国の水田100町を与える。
・勝鬘経…勝鬘はインドのアユダ国の王妃。
法華経…妙法蓮華経の略称。
15年
(607年)
・2月、「神祇祭祀の詔」を出す。
・7月、大礼・小野臣妹子を大唐に遣わす(通事は鞍作福利)。
・大唐は「隋」のことで唐ではない。
16年
(608年)
・4月、小野妹子、大唐より帰任。使者・裴世清(ハイセイセイ)も共にやって来る。妹子は途中、百済で隋の親書を奪われていた。
・9月、隋の使者が帰るに際して、小野妹子を大使、吉士雄成を副使として遣わす。同時に留学生8人が大陸に向かった。
17年
(609年)
・4月、肥後国の芦北津に百済の遣隋使節85名が漂い着く。
・9月、小野妹子が隋より帰る
18年
(610年)
・3月、高句麗より僧・曇徴と法定が渡来。曇徴(ドンチョウ)は五経を知り、紙や墨を作ることが出来た。
・7月、新羅、任那がそれぞれ使いを寄越す。
19年
(611年)
・5月、五日に菟田野において薬猟を行なう。大徳・小徳の黄金製の髻華(うず)をはじめ冠位によってそれぞれの飾りを身に着けていた。
・8月、新羅、任那からそれぞれ使者がやってきた。
菟田野は桜井東方の山中に広がる宇陀地方。
薬猟は薬草の採取。
20年
(612年)
・正月、天皇が宴で蘇我蝦夷の歌に応え「まそがよ、そがのこらはうまならば、ひむかのこま、たちならば、くれのまさひ、・・・・・」と歌う。 (大意)蘇我出身の人物は馬なら日向の馬。刀ならば呉のまさひに該当するほどすぐれている。
21年
(613年)
・11月、掖上池・畝傍池・和邇池を作る。また難波より京(大和)に至る大道を築く。
22年
(614年)
・6月、犬上君御田鍬と矢田部造を大唐(隋)に遣わす。
23年
(615年)
・7月、犬上君御田鍬と矢田部造が大唐(隋)から帰る。
・11月、高麗僧・恵慈が本国に帰る。
24年
(616年)
・7月、3月・5月・7月にかけて掖玖人が合計30人やって来たが、帰ることなく皆死んだ。 掖玖…やく。屋久島人を指している。
25年
(617年)
26年
(618年)
・8月、高句麗が方物を献じて言うには「隋の煬帝がわが国を攻めたがこれを破り、捕虜の貞公と普通2名、及び鼓・笛などの戦利品、またラクダ1頭を献上する」と。
27年
(619年)
28年
(620年)
この年、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)が「天皇記」「国記」「臣・連・伴造・国造・百八十部ならびに公民等の本記」を選録する。
29年
(621年)
・2月、五日の夜半、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が斑鳩宮にて逝去。磯長陵に埋葬する。高句麗の恩師・恵慈は大いに悲しむも、来年の2月5日に自分もみまかると言い、その通りになったので、皆、聖徳太子も恵慈もともに聖人であったと言い合った。
31年
(623年)
・7月、新羅・任那ともに使者を寄越し、仏像、舎利、仏具を献上する。また大唐()からの学問僧も同時に渡来する。
・この年、新羅が任那を討ち、任那は新羅に帰属した。そこで境部臣雄麻呂・中臣連国を大将軍とする新羅征討軍を派遣した。
・唐…唐は西暦618年、隋の煬帝の死後、李淵によって建国された。907年に滅んだ。
32年
(624年)
・4月、詔を下し、僧正・僧都を定め、一般僧の監督をさせることとした。百済から渡来の観勒を僧正に任命し、鞍作部徳積を僧都とした。
・9月、寺々を調査し、寺の由緒や僧・尼の状況を記録した。それによると、寺は46所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。
・10月、馬子大臣が「葛城の県は自分の本拠であるから、そこを自分の県として賜与してもらいたい」と申し出てきたが、天皇は「自分も葛城の出身だが、たとえ伯父の申し出でも認めるわけにはいかない。後世に示しがつかない」と許さなかった。
33年
(625年)
・正月、高句麗王から献上の僧・恵灌を僧正に任命した。
34年
(626年)
・5月、二十日、蘇我馬子大臣の死。飛鳥川のほとりに家があり、庭に池を造って池の中に小島を設けたので、世の人は「嶋大臣(しまのおとど)」と呼んでいた。
35年
(627年)
・2月、陸奥国に狢(むじな)がいたが、人に化けて歌った。
36年
(628年)
・2月、天皇、病に臥せる。
・3月、六日、田村皇子を枕辺に召して「天皇位に立ち、黎元(おおみたから)を養うことは簡単なことではない。汝、慎みて察しなさい」と詔し、山背大兄皇子を召して「汝は肝が幼稚い。もし(天皇位を)望むにしても声高に言ってはならない。群臣の決めたことに従いなさい」と詔した。
 翌3月7日、天皇崩御(75歳)。9月に竹田皇子陵に埋葬した。
 
(注)
憲法17条
・・・人口に膾炙しているが、主な条文を挙げれば 
 @和を以て貴しとなし、さからうこと無きをむねとせよ。 A篤く三宝を敬え。 B(省略) C群寮・百寮は礼を以て本とせよ。 (中略) O民を使うに時を以てするはいにしえの良き典なり。 P大事をば独り断ずるべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし。
 などで、最後の17条などは明治維新の際の五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」と比べて遜色がないほどである。

神祇祭祀の詔・・・全文は次の通り。
『朕聞く。むかし我が皇祖天皇等の世を宰めたまへること、天にくぐまり地にぬきあしして、あつく神祇をいやまひ、あまねく山川を祀り、幽に乾坤に通はす。是を以て陰陽開け和し、造化ともにととのヘリ。今、朕が世に當りて神祇を祭祀すること、あに怠りあらむや。故れ群臣ともに為に心を尽くし、宜しく神祇を拝すべし。』
 三宝(仏法)を敬うと言いながら、古来の神祇祭祀を怠ってはいけないとクギを刺している。後の神仏混交につながる認識である。

留学生8人・・・倭漢直(やまとのあやのあたい)福因・奈羅譯語恵明・高向漢人(あやひと)玄理・新漢人(いまきのあやひと)大国・新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人廣齋。

掖玖・・・屋久島のこと。『新唐書』巻220東夷の条には、「その東海嶼中にまた、邪古・波邪・多尼の三小王あり。」と書かれている。

隋の煬帝・・・煬帝は高句麗を目の仇のように何度も攻略しようとしたが、一度も成功しなかった。この遠征で国は大いに疲弊し、やがて唐を建国した李淵によって滅ぼされる原因となった。

天皇記・国記など・・・聖徳太子と馬子は義理の親子であり、ともに国の最高文書を編纂した。『先代旧事本紀』の序文もこの甥と伯父のコンビが記している。

  

         <推古紀の項・終わり>                記紀を読むの目次に戻る