垂仁紀を読む

【和風諡号】 
書紀…活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいそさち)
        
古事記…伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)

表T 宮・王妃・皇子皇女・その他(備考) 青字は書紀、茶字は古事記による

王 妃 皇子・皇女 陵 墓
珠城(たまき)宮
師木玉垣宮
サホヒメ
ヒバスヒメ
ヌハタニイリヒメ
マトノヒメ
アザミニイリヒメ
タカノヒメ

サハジヒメ
ヒバスヒメ
ヌバタノイリヒメ
アザミノイリヒメ
カグヤヒメ
カリバタトベ
オトカリバタトベ
誉津別(母:サホヒメ)
五十瓊敷入彦
大足彦
オオナカツヒメ
ヤマトヒメ
稚城瓊入彦(以上の母:ヒバスヒメ)
鐸石別
イカタラシヒメ(以上の母:ヌハタニイリヒメ)
池速別
ワカアサツヒメ(以上の母:アザミニイリヒメ)
品牟都和気(母:サハジヒメ)
印色之入日子
大帯日子淤斯呂和気
大中津日子
ヤマトヒメ
若木入日子(以上の母:ヒバスヒメ)
沼帯別
伊賀帯日子(以上の母:ヌバタノイリヒメ)
伊許婆夜和気
アザミツヒメ(以上の母:アザミノイリヒメ)
袁邪弁王(母:カグヤヒメ)
落別王
五十日帯日子王
伊登志別王(以上の母:カリバタトベ)
石衝別王(母:オトカリバタトベ)
イワツクヒメ(別名:フタジノイリヒメ)(〃)

(※纏向宮にお いて崩御)
菅原伏見陵
菅原御立野陵

  表U 年代順の事績

年紀 事  績
元年 壬子の歳生まれのイキメイリヒコ(垂仁天皇)は24歳で皇太子になり、39歳の時に祟神天皇が崩御したので即位。祟神天皇を山辺道上陵に埋葬。この歳は壬辰であった。
2年 サホヒメを皇后とする(ホムツワケを生んだが、皇子は話せなかった)。纏向に珠城宮を建てる。
祟神天皇の65年に朝貢してきた任那のソナカシチが帰国する際、赤絹百疋を持たせたが、途中で新羅人に奪われる(任那・新羅間の反目の原因になる)。
3年 新羅から、王子の天日槍が到来、七種の神物を持参した。
4年 皇后サホヒメの兄サホヒコが謀反を図る。
5年 サホヒコを八綱田に討たせる。サホヒメは兄と行動を共にし、ついに稲城の中で死ぬ。
7年 當麻のケハヤと出雲の野見宿禰が力くらべ(相撲)をし、野見宿禰が勝つ。
15年 丹波の五女を王妃として納れる。
23年 30歳までしゃべることのできなかったホムツワケ皇子が、クグイ(鳥)を見て「何物か」と声を発する。出雲の国で捕えたクグイを愛玩しているうちに話せるようになる。鳥取部・鳥養部・誉津部を定める。
25年 天照大神の祭祀をトヨスキイリヒメからヤマトヒメへ交代。ヤマトヒメは祭祀の適地を求めて伊勢国五十鈴川上に到り、そこに磯宮を建てる。
26年 物部十千根に命じて出雲の神宝を調べ、掌握させる。
27年 弓矢と横刀を神社に納め、神地・神戸を定めて祭らせる。
28年 殉死停止の詔を出す。
30年 大足彦を後継者に定める。
32年 ヒバスヒメの死。殉死の代わりに墓の周りに埴輪を立てることにする。
34年 山背のカリハタトベ、カムハタトベを妃に納れる。
35年 諸国に池を造らせる。その数、八百。百姓が富み栄える。
37年 大足彦を皇太子にする。
39年 五十瓊敷が茅渟の川上で剣を千口造り、石上神宮に収蔵する。
87年 石上神宮の神庫の管理を物部十千根に任せる。
88年 但馬国にある天日槍が持参した神宝を検校する。アメノヒホコの曾孫・清彦が自ら献上する。神宝のうち出石の小刀だけが行方不明となり、淡路島で見つかるが、天皇は求めようとしなかった。
90年 田道間守を常世国に派遣し、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
99年 天皇の崩御。140歳。翌年、タジマモリは非時香菓を持参するが、間に合わなかったことを悲しみ、御陵の前で自死する。

(注)活目入彦五十狭茅・・・イクメイリヒコ・イソサチと読む。垂仁天皇。通説ではイサチと「ソ」を落として読むが、これは古事記の用例イクメイリヒコ・イサチに合わせた読みで、「仲哀紀」「筑前風土記逸文」に見える「五十」は「イソ」と読むようにという要求に反する。古事記がなぜ「伊佐知(いさち)」として「五十狭茅」の「ソ」を落としたかについては、祟神紀でも説明したように古事記の持つ強い「日本王統列島内自生史観」の為せる業である。
 そのことを否定するかのように、垂仁紀では本文にも分注にも「朝鮮半島からやって来た王族級の人物・ツヌガアラシトやアメノヒホコ」などが登場する。古事記ではわずかに応神記に、神功皇后の出自を言うためアメノヒホコが引っ張り出されるのだが、これは例外中の例外である。
 さてイクメ天皇は私見では「イクメに入ったイソ(五十)の狭い茅葺きの王宮生まれの天皇」で、祟神天皇が半島から九州島北端の五十(糸島)地方に亡命移住して来た後にそこで生まれ育ち、やがて「大倭」のプリンスとして成長ののち、ヤマタイ女王国の「伊支馬(いきま=イクメ)」という植民地の総督のような駐在武官を経験したことを表す名を負ったと見る。その時代は卑弥呼死後、台与の時代の260年の頃だと考える

ソナカシチ・・・任那人。ミマナの謂れは祟神天皇の「ミマキ」から来た命名とするが、ことは反対だろう。3世紀後半にはまだミマナは無く、「弁韓」(魏志韓伝)と言われた完全な倭人国家であった。東隣りの辰韓も北西となりの馬韓にも大量の倭人がいたが、当時トップに戴いていたのは殷王朝の末裔・箕子の子孫であるから倭人国家とは言えなかった。倭人が大量に居住しているのに倭人国家(倭国)でないのは、華人(華僑=中国人)が大量におり、経済の実権を握っているシンガポールを中国と言わないのと同じである。
 ソナカシチの「ソ」とは「襲人」の「そ」で、南九州投馬国(そつま国=航海民鴨族)の同族と見たい。「ナカ」は「中」、「シチ」は魏志韓伝に見える「臣智」のことだろうから、ソナカシチとは「襲人で弁韓の中つ臣」である人物と解釈できる。要するに弁韓の大臣クラスの要職に就いている襲人に他ならない。当時、東隣りの辰韓王は九州の五十(糸島)地方に亡命王朝を築いていたゆえ、残された辰韓(新羅)人は倭人国家への反目を強めていた。このことが「ミマナと新羅が仲違いし始めた」と表現されたのだろう。

アメノヒホコ・・・紀では「天日槍」、記では「天之日矛」と書く。前年(2年)のソナカシチの記事といい、このヒホコの記事といい、半島からの渡来を綿密大部に載せているのは、祟神・垂仁天皇が半島系であることの間接証明になる。古事記は例によってそういうことは一切書かないが、ただ一箇所、執拗に書いているところがある。
 それは実はこのアメノヒホコについてで、神功皇后の出自を述べた部分だ。
 応神記に出てくるのだが、むかしアメノヒホコが赤玉から生まれた女人を妻としていたが、妻が故国に帰ると言って日本へ向かったのを追いかけて但馬国に住み着いた。そこで子孫が世を継ぎ、その7世孫にカズラギノタカヌカヒメが生まれた。これが神功皇后の母親だ――という内容である。
 何のことはない、列島以外のことは書かぬはずの古事記が、堂々と神功皇后の祖先は半島の新羅(当時は辰韓だったが)の王族だったと言っているのだ。これはもう信じるほか無いだろう。

七種の神物・・・羽太玉・足高玉・赤石玉・出石小刀・出石矛・日鏡・熊神籬(くまのひもろぎ)の七種。
ところが分注では八種とあり、これに膽狭浅太刀(いささのたち)が加わる。これらは但馬国に置かれて神物とされた。
 古事記の応神記では、神功皇后の出自と共に、祖先のアメノヒホコが招来した神宝を八種とするが、書紀の八種とは似ても似つかない物だ。珠二つ・波振るヒレ・波切るヒレ・風振るヒレ・風切るヒレ・奥津鏡・辺津鏡の八種がそれである。
 古事記の方はどうも航海する際に必要な祈りの道具という気がするが、書紀の神宝はよく分からない。ただ「玉・刀(矛)・鏡」といういわゆる三種の神器が見られ、確かに神宝にふさわしい道具立てだ。

サホヒコ・・・狭穂彦。妹がサホヒメ。書紀には載らないが、古事記では開化天皇の孫だから、垂仁天皇とは二いとこになる。妹への恋愛感情が抜けず、皇后になったサホヒメをそそのかして垂仁天皇を亡き者にしようとして発覚し、逆に滅ぼされた。

八綱田・・・ヤツナダ。サホヒコの叛乱を鎮めるという大功があったため、「倭日向武日向彦八綱田」という名を貰った。この名を一般には「ヤマトヒムケ(カ)・タケヒムケ(カ)・ヒコ・ヤツナダ」と読むが、意味が通らない。そうではなく「ヤマトヒに向かい・タケヒに向かいし彦・ヤツナダ」と読むべきだろう。
 「ヤマトヒ(倭日)」とは「アマツヒ」と言ってよく、オオナモチ一族亡き後に北部九州を覆った「アマツヒツギ系」の種族、すなわち邪馬台国(の残存)であり、また「タケヒ(武日)」とは「建日別」すなわち九州中部の熊襲族(狗奴国)である。
 つまりヤツナダは祟神東征の以前、北部九州にいた頃に、「大倭(だいわ)国」から九州中部の「ヤマトヒ」と「タケヒ」に「向かって」行き、戦功を打ちたてた男(彦)なのである。それが「ヤマトヒに向かい、タケヒに向かいし彦」の意味なのだ。したがって打ち破ったサホヒコは、その当時のタケヒ(狗奴国)の王だったと言うことができる。

トヨスキイリヒメ・・・トヨとはヒミコの跡を襲った宗女「臺与(トヨ)」のことで、祟神東征後に南方の狗奴国の侵攻を受けて滅んだ後、トヨ国(豊前・豊後)に落ち延びて亡命王権を樹立したがゆえに「トヨスキ(トヨの王城)に入った姫」なる「トヨスキイリヒメ」名を付けられた。

五十鈴川・磯宮・・・前者を「イスズガワ」と読み、後者を「イソ宮」と読むのは一貫性が無く、「磯宮」が「イソ宮」である以上、イソ宮に因んで名付けられた五十鈴川も「イソスズ川」と読まなければならない。
 「五十」と書いてすべてを「イ」としか読ませないのは、「イソ=糸島・怡土郡」に結び付けさせないための苦肉の策としか言いようがない。すべては糸島において亡命王権を樹立し、やがて九州北部に政権を維持していた奴国系オオクニヌシ連合国家群に取って代わった辰韓王・祟神天皇(五十瓊殖=イソニエ)が、そのような経緯でもって「大倭王」となり、東征して天皇位を獲得したことを隠すためであろう。

物部十千根・・・モノノベノトオチネ。前年に天皇から詔を受けた五大夫(ゴタイフ=いつたりのまえつぎみ)の一人で物部連の遠祖。また他の五大夫は武渟川別(阿倍臣)・彦国葺(和珥臣)・大鹿嶋(中臣連)・武日(大伴連)。五大夫のうち、中臣氏・大伴氏は「天孫降臨」の時からの臣だが、阿倍氏・和珥氏は天皇家の皇子の分かれとされている。これに対して毛色の違うのが物部氏だ。
 一書によれば祖は「ホアカリ命(別名ニギハヤヒ)」で、ニニギノ命と兄弟であったり、叔父であったりする。また祟神天皇の生母はイカガシコメだが、これは物部氏の遠祖・大綜麻杵(オオへソキ)の娘だ。つまり天皇家と並ぶ存在として描かれている面がある。
 『先代旧事本紀』による「天上」「天降後(地上)」の二系統の物部家譜も今のところどう解釈してよいか分からないでいるが、ひょっとしたら「天上」は九州島における王権時代の系譜で、「天降後」は大和王権になってからの時代の系譜なのか、まだ判断のつきかねる不可解な家譜なのである。
 さて、十千根(トオチネ)は物部氏としては初めての個人名としての登場で、旧事本紀によれば神武天皇が大和入りの時に滅ぼしたナガスネ彦に婿入りしていた「ウマシマジ」の7世の孫「タケイゴコロオオネ」の弟であり、こちらは「十市根」と記している。
 トオチネの命ぜられた仕事は、前代に引き続き「出雲の神宝」を調査することであった。26年条によれば首尾よく行ったらしい。「十千根大連、神宝を校定して分明に奏言せり」とある。ただし、その神宝が何であったかについては全く触れていない。
 
弓矢と横刀の奉納・神地神戸の制定・・・「弓・刀という兵器を奉納し、神物にするという習慣がこの時から始まった」が、その理由は「神官に兵器を神幣にして良いかどうかを占わせたところ、吉であるとの結果が出た」(27年条)からというもので、なぜそのような占いをさせたかの理由付けは記されていない。
 どうも唐突の感は否めず、もしかしたら前年の出雲神宝のことを受けているのではないか。つまり十千根が出雲で神々の社に奉納されている神物を調べたら、すべて兵器であった。出雲は「祟神紀を読む」でも述べたように「天津日(アマツヒ)系」の「大倭」に九州北部で戦って敗れ、出雲地方に配流された奴国系オオクニヌシの国である。その時、後漢から貰った金印を持って下ったと筆者は見ているのだが、それを九州北部「大倭王」から大和中原の「大倭王」になった祟神は欲しがった。だがその時は手に入れられず、子の垂仁が改めてトオチネに調べに行かせたら、出雲では各神社で「反大和王権」のシンボルとして武器の祭りが行われていた。これではもう金印確保どころの騒ぎではなく、慌てた大和王権側はそれに対抗すべく、上のような「弓矢・横刀奉納令」「神地・神戸令」の如き政令を発したのではないだろうか。
 出雲で催行されていたのは弓・横刀ではなく「銅剣・矛の祭り」ではなかったか? それを弓と横刀に変更せよ――というわけで、それまでの銅剣・矛は捨てざるを得なかった。出雲では各地の神社から銅剣・矛を回収し、うやうやしく埋納して祭りを行った。それが例の「荒神谷遺跡」で発掘された「358本の銅剣・矛」だろう。

 
田道間守・・・タジマモリ。3年条の分注によれば、祖は半島人アメノヒホコで、ヒホコ―モロスケ―ヒナラキ―キヨヒコ―タジマモリという系譜。その一方で古事記では「応神記」に、ヒホコ―モロスク―タジマヒネ―ヒナラキ―タジマモリ・タジマヒタカ・キヨヒコ(3兄弟)とする。違いは古事記の方に先々代のタジマヒネとタジマモリの兄弟が二人載っている事だが、おおむね同一といってよい。
 それより大きな違いは、古事記ではさらに後嗣を載せていることで、キヨヒコの娘ユラドミとキヨヒコの兄ヒタカとの間に「葛城之高額ヒメ」が生まれるが、これが神功皇后の母親であると記す(古事記では父親を欠くが、書紀では父を開化天皇の曾孫「気長宿禰王」としている)。
 それはさておき、半島辰韓人ヒホコの後裔が但馬に居住し、その5世孫タジマモリは垂仁天皇の命令で「トキジクノカクノコノミ(いつも光り輝いている木の実)」を求めて常世国にまで行き、無事に探し当てて十年後に帰ってみると天皇はすでに他界しており、悲しんだタジマモリは墓前に自死した――という説話の主人公として描かれ、その忠節を賞されている。
 トキジクノカクノコノミを「橘」であろうとする見方が多いが、橘なら魏志倭人伝に倭国にあると記されているので間違いである。では何なのかと問われると心もとないが、常世国という現実の国ではない所にあるとされているのであるから、具体的な何かの名を挙げるのもおかしなものだろう。不老不死の魂に関する何かであるとだけは言えるが・・・。

    
                                            (垂仁紀・終り)   目次に戻る