祟神紀を読む

【和風諡号】 
書紀…御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいそにゑ)  
        古事記…御真木入日子印惠命
(みまきいりひこいにゑ)

表T 宮・王妃・皇子女・その他(備考) 青字は書紀、茶字は古事記による)

王 妃 皇子・皇女 御 陵備 考)
瑞籬宮(磯城)
師木水垣宮
ミマキヒメ
   (オオヒコの娘)
トオツアユメマクワシヒメ
 (紀国アラカワトベの娘)
オワリオオアマヒメ
    (尾張連の祖)
活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)
彦五十狭茅
クニカタヒメ
チヂツクヤマトヒメ
倭彦
五十日鶴彦
(以上の母:ミマキヒメ)
豊城入彦
トヨスキイリヒメ
(〃母:マクワシヒメ)
八坂入彦
ヌナキイリヒメ
トオチニイリヒメ
(〃母:オオアマヒメ)
勾岡(まがりのおか)御陵
山辺道上陵

・古事記ではミマツヒメの子にもうひとりイザノマワカがいる。
 また、オオアマヒメの子にさらにオオイリキがいる。

  表U 年代順の事績

年紀 事 績
元年 即位し、ミマキヒメを皇后とする。この年は太歳甲申(きのえ・さる)。
3年 都を磯城の瑞籬宮に遷す。
4年 天下経綸の詔を発する(「・・・それ、群卿百僚たち、忠貞をつくして、天下を安らかにせむ・・・」)。
5年 国内に疾病が多く、死者は民の半ばを超えるほどになる。
6年 民が流亡したり、背いたりした。天皇自ら神祇を祭るが、以前に大殿に併せ祭ったアマテラス大神と倭大国魂とを分離し、それぞれトヨスキ入りヒメ、ヌナキイリヒメに託して祭らせたが、ヌナキイリヒメは「髪落ち、体痩せて」祭ることができなかった。
7年 ヤマトトトヒモモソヒメに大物主神が神懸かりし、その子オオタタネコに自分を祭らせれば天下は平らぐ――と教える。そこで茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)にいたオオタタネコに大物主神を、イチシナガオチに大国魂神を祭らせたところ、ようやく疾病も叛乱も止み、天下が平安になった。
8年 高橋邑のイクヒを大物主神の祭酒とし、オオタタネコに祭祀をさせる。オオタタネコは三輪君の始祖となる。
9年 墨坂神・大坂神を祭る。
10年 遠方の王化に浴さぬ地方教化のため4人の将軍大彦=北陸・武渟川別=東海・吉備津彦=西道・丹波道主=丹波)を派遣。
 同時に武埴安彦の叛乱が発覚、戦いになる。ハニヤスヒコは山背から、妻のアタヒメ(吾田媛)は大坂から大和に侵入しようとするが、ハニヤスヒコは大彦と彦国葺(くにぶく)が、アタヒメは五十狭芹彦がそれぞれ打ち破る。
 ヤマトトトヒモモソヒメが大物主神と聖婚するも、大物主の正体が蛇と分かる。ヒメが驚き叫んだので大物主は三輪山(御諸山)に帰ってしまう。ヒメは後悔した挙句、陰(ほと)を箸で衝いて死ぬ。ヒメの墓の名を「箸墓」と呼ぶのは、その故事に基づいている。ヒメの墓は昼は人が造り、夜は神が作ったという。
11年 四道将軍が凱旋する。国中が安らかになった。
12年 男には「弓弭調(ゆはずのみつぎ)」、女には「手末調(たなすえのみつぎ)」を定め、調役を課す。
ミマキイリヒコイソニエ天皇を讃えて「御肇国天皇(はつくにしらす・すめらみこと)」という。
17年 造船の詔を発する(「・・・それ、諸国に船舶を造らしめよ」)。
48年 豊城入彦と活目入彦の両皇子に夢占を行わせ、その結果、活目皇子を皇太子とする(豊城皇子は東国へ。上毛野君・下毛野君の始祖となる)。
60年 出雲の神宝検校の詔を出す。
 よって武諸隅(タケモロスミ)を出雲に遣す。出雲では振根(フルネ)が神宝を主宰していたが、フルネの留守の間に、弟のイイイリネが提供してしまう。そのため内紛が起こりフルネがイイイリネを殺害したので、朝廷は吉備津彦と武渟川別を派遣して、フルネを誅殺する。
 出雲ではこのことに動揺し、大神(オオクニヌシ)を祭れない状態が続いた。その時、丹波の氷上地方のヒカトベと言う者の子供に神がかりがあり、朝廷でもこれを重く見て祭祀の詔を発した。
62年 勧農の詔を出す(「農は天下の大本なり。・・・それ、多く池溝を開き、民の業を寛めよ」)。
 依網池(よさみいけ)をはじめ、苅坂池・反折池などを造る。
65年 任那国ソナカシチを遣わして朝貢してくる。
68年 冬12月、崩御。時に120歳。翌年8月、山辺道上陵に葬る。

(注)ミマキヒメ・・・次の垂仁天皇即位前紀によれば大彦の娘である (古事記では祟神記に大毘古(おおびこ)の娘と記してある)。祟神天皇がミマキイリヒコの和名を持つことから考えられるのは、ミマキヒメこそがもともとは「ミマキ」にいて、そこに外から「入る彦=イリヒコ」だったのが祟神天皇だったということである
 では「ミマキ(御間城)」とはどこだろうか。それはやはり垂仁紀にあるように「ミマキに因んで任那とした」とある「任那」であろう。任那は「加羅国」とも「伽耶国」とも書かれるが、魏志韓伝によれば朝鮮半島南部にあった三韓(馬韓・弁韓・辰韓)のうちの弁韓のことで、洛東江流域の国家群であった。
 またミマキの「ミマ(御間)」とは「スメミマ(皇孫)」の「ミマ=孫」と同義で「子孫」のことだから、おそらく九州島にあった天孫系倭人国家すなわち「大倭」の血筋を引いていることを表している。
 そこにやって来たミマキイリヒコこそ、魏志韓伝に記載された辰韓の基を築いた辰王こと「箕子の末裔」であろう。箕子は殷王朝の末裔であり、殷没落の直前に北部朝鮮に亡命し、魏志韓伝の時代すなわち3世紀までに朝鮮半島で連綿約60代を継なぎ、3世紀当時辰韓12国を率いていた由緒ある王統であった。
 ミマキヒメは弁韓12国(任那)の内でも、もっとも勢力のあった国の王女であったと思われるが、特定はしがたい。いずれにしても、3世紀半ばの動乱時代に辰韓王であった祟神はミマキヒメを娶ることで倭人国家群の支持を得て、九州島北部へ亡命王朝を築くべく渡来したのだろう。

ミマキイリヒコイソニエ・・・第十代祟神天皇。古事記は「御真木入日子印恵命」と書いて「ミマキイリヒコイニヱ」と読ませるが、書紀は「御間城五十瓊殖天皇」と記す。この読みを通説では古事記のほうに合わせて同じく「ミマキイリヒコイニヱ」として「五十」を「イ」としか読まない。つまり「十」は単なる「置き字」(という言葉が正確かは知らぬが)と考えている。確かに今日でも「五十嵐」という姓があり、これを「イガラシ」と、やはり「十」を読まないのだが、こっちの方から決めていくのはおかしい。なぜなら当然のこと書紀記載の「五十」の方が、現代姓の「五十嵐」よりはるかに古いからだ(他に「五十里湖」と書いて「イカリコ」という例もある)。
 問題は古事記と書紀とどちらが古風を伝えているのか、に絞られる。
 さて、一般にオリジナルが伝世した場合、オリジナルより短縮されこそすれ、長音化することはまずないだろう。古事記は日本書紀の8年前(712年)に撰上されているので、古事記の記載をオリジナルと見てよく、そうなると古事記の「印恵」が書紀では「五十瓊殖」と2倍になっているのはありえないことだろう。逆にオリジナルが書紀で、古事記がそれを引き写したとした時、「五十瓊殖」が「印恵」と、確かに縮音化する点でこちらが正しいように見えるが、それだったら「五十」という簡潔な単語を全く使わなくしてしまうような変換をするというのも考えがたい。

 「五十」という単語が使われている所を、ミマキイリヒコがらみでない部分から挙げてみると次の二つがある。

  @ 垂仁紀25年3月条
 故に、(アマテラス)大神の教えのまにまに、その祠を伊勢国に立てたまう。因りて、斎宮を五十鈴の川上に興す。これを磯宮という。・・・

  A 筑前国風土記逸文
 天皇(仲哀天皇)、いずれの人ぞや、と問い給うに、五十迹手、奏しけらく「高麗国の意呂山に天降り来たりし日鉾(ヒボコ)の苗裔、五十迹手これなり」。
 天皇、ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し手」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば、恪勤国(いそしのくに)と言うべきを、今、怡土郡といえるは、訛(よこなま)れるなり

 @もAもともに「五十」は「イソ」と読みなさいと言っているのだが、まず@から見ていこう。
 @では「五十鈴の川上」に建立したから、「磯宮」というのだ――とある。「磯宮」が「イソ宮」であることには異論はないから、結局、「五十鈴の川上」は「いそすずのかわかみ」と読まなければ一貫しない。
 
次にAを見ると、こっちはもっとはっきりしている。
 これは筑前国怡土郡に関わる地名説話と言ってもよく、仲哀天皇が怡土郡に行ったところ、そこの首長である五十迹手(解説書ではイトテと読ませる)が恭順して出てきて、自分の出自は朝鮮半島出身である天日鉾であると奏上した。それに対して天皇が「汝は恪(いそ)し手であるな。国の名をそれに因み、恪勤国(いそしきくに)としたらよかろう」という旨の返答をした。今(風土記編纂当時)、怡土郡(いとぐん)と言っているが、それは転訛で、本来は「イソ(五十)郡」と言うべきである――と念を押している。
 したがって五十は「イソ」と読まなければならず、同時にまたこのAの説話は「五十(イソ)」とは筑前国の怡土郡を指している、あるいは極めて関係が深い、ことを示している。

 
また残りの「瓊殖(ニエ)」の意味は、「瓊」は「玉」であることから「玉が殖える」、つまり「王権が伸張する」と考えられる。
 以上からミマキイリヒコイソニエとは「天孫系倭人の領域に入り、特に九州北部の五十(イソ=怡土地方)において王権を伸張させた彦(王)」と解くことができる。ミマキイリヒコは五十地方を中心に九州北部の倭人国家群に容認され、やがて「大倭」(九州北部天孫系倭人連合)の頭領に祭り上げられた王者であったと考えられる。


磯城の瑞籬宮
・・・上で述べたように「磯」は「イソ」であり「五十」であるから、そもそも「磯城(シキ)」とは大和地方の磯城郡から取られたのではなく、筑前国怡土郡の転訛前の地名「五十(郡)」の方が先にあり、王権の移動によって地名も遷移し、本来は「五十城郡」と書かれるべき地名である。

オオタタネコ・・・大田田根子。本来は「大田根子」だろう。「大きな田(持ち主の)土着人」と直訳できる。自ら出自を述べているが、それによれば「父は大物主神、母は陶津耳の娘でイクタマヨリヒメ」であり、イクタマヨリすなわち巫女的な霊能力の高い、南九州投馬国に縁がありそうな陶器生産者の首長(スエツミミ)の娘が大物主神に感じて生んだのがオオタタネコ。大物主神はわが父親なのであるから、その祭祀にはうってつけの人物と言うほかない。

イチシナガオチ・・・市磯長尾市。出自不明。垂仁紀7年条で、出雲に野見宿禰を迎えに行った人物に「倭直の祖・長尾市」がいるが、これと同一人物であれば、倭直(やまとのあたい)の祖は神武東征の時に、瀬戸内海を水先案内した「椎根津彦(シイネツヒコ)」と出ているから、イチシナガオチはシイネツヒコかその子孫ということになる。
 シイネツヒコは言わば初代倭直であったわけだから、統治の最初に大和という土地の最大の土着神である「大国魂神」を祭っていたであろうから、その子孫であったとしても、これもまたうってつけの人物であろう。
 祟神天皇の娘であるヌナキイリヒメが祭れず、結局、初代倭直であったシイネツヒコの祭祀に頼るほかなかったということは、祟神天皇が大和土着自生の天皇ではなく、外来の天皇だということを意味している。

四道将軍・・・大彦・武渟川別・吉備津彦・丹波道主の4人。
 大彦は祟神天皇の皇后・ミマツヒメの父で、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中のオワケノ臣の7代前の始祖「意富比コ(コは土偏に危=オオヒコ)」と同じと見られる。象嵌の年代が「ワカタケル(雄略天皇)の時代の辛亥年=471年」と特定できることから、父子直系の7代を180年ほどと見て、290年から300年頃に生存していた人物である。この年代がまた同時に祟神天皇の時代に重なることは言うまでもない。記紀ともに第八代孝元天皇の皇子と記す。
 武渟川別は書紀には出ないが、古事記では大彦(大毘古)の子と記す。
 吉備津彦は古事記には出ないが、書紀では第七代孝霊天皇の皇子・彦五十狭芹彦のまたの名として登場する。同母姉が、大物主神との聖婚に失敗して自殺したヤマトトトヒモモソヒメである。
 丹波道主は垂仁紀5年条に登場する「丹波道主王」(景行紀即位前期にもある)であり、そこの分注に「開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいますおう)の子」とある。娘のヒバスヒメは五人娘の長女で、垂仁天皇の皇后になり、景行天皇を生んでいる。古事記も同じ系譜を示すが「丹波ヒコタタスミチノウシ」と書く。

武埴安彦の叛乱・・・妻・吾田媛(アタヒメ)と起こした叛乱。
 10年9月に大彦ら4人の将軍を諸国教化のために派遣したとき、和邇坂で童女の姿をした神霊の神託を受けたが、これがモモソヒメによって「アタヒメが香具山の土を採取して、倭国の物実(ものざね)と言ったのは、謀反を起こそうとしているのだ」と解釈され、タケハニヤスヒコの叛意が明らかになった、という。
 こうしてタケハニヤスヒコとアタヒメは反乱軍の首謀として征伐されるのだが、私見ではこの謀反は投馬国による第一次大和王権(南九州からの神武ことタギシミミ東征により成立)側の、祟神天皇の第二次大和王権(北九州「大倭」の東征により成立)への抵抗である(二系統あった初期大和王権を参照)。
 また、モモソヒメが上で触れたように大物主神との聖婚に失敗したのも、アタヒメのように土地(国土)に憑く神霊なるものを祭る――という作法を取り入れなかったがために、オオクニヌシ・オオナモチという国土の所有者との異名を持つ大物主には受け容れられなかった結果と考えられる。このことも、モモソヒメを娘に持つ祟神天皇の外来性を示している。

箸墓・・・現地で今も「箸墓」と呼ばれ、この記録と一致するとして著名な全長276メートルの定型的な前方後円墳で、一時代前は「最古の前方後円墳」とされていた。だが、同じ巻向地方にもっと古い最初期の古墳群が認定され、現在は初期でも後半の成立とされている。築造年代も一時代前は4世紀初頭などと言われていたが、最初期のものが3世紀半ばは下らないとされると、箸墓も繰り上げられ、3世紀後半と言われるようになった。
 宮内庁管轄の「御陵」(被葬者モモソヒメ)とされているので発掘調査は不可能であるにもかかわらず、年代がどんどん古くなっていくのは科学的考古学上の見解を逸脱しており、どうも邪馬台国畿内説による「モモソヒメ=女王ヒミコ」説が根強く背景にあるため、と思われてならない。
 魏志倭人伝のどこを読んでも邪馬台国畿内説の成立する余地はないのだが、残念なことである。

御肇国天皇・・・ハツクシシラススメラミコト。もちろん祟神天皇のことだが、同じ書紀で神武天皇をも「始馭天下之天皇」と書き「ハツクニシラススメラミコト」と読ませるので、二人のハツクニシラス天皇がいたことになり不可解とし、あとのハツクニシラスこと祟神天皇は実在だが、前のハツクニシラスはその祟神を「分身させて古く見せたのだろう」などと言及する者がいる。
 だが御肇国天皇にしろ始馭天下之天皇にしろ、これは漢文中の漢語と捉えるべきで、前者は「ゴチョウコクテンノウ」、後者は「シギョテンカノテンノウ」であり、別人と考えて何の不都合もない。古事記ではそのことはちゃんとわきまえていて、祟神天皇だけを「所知初国之御真木天皇」(初国を知らせし御真木のスメラミコト)とし、神武天皇のほうは「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇」と和名だけで通している。
 書紀の二人の天皇名を比べてみれば、両天皇の違いが分かる。要は「国」と「天下」のちがいで、肇国とは国家体制を名実ともに完成した始めての天皇だったのが、祟神天皇だった。国には国王と軍隊と統率者の将軍がおり、人民は「租税」を負担しなければならないが、祟神天皇の時、初めてそのような体制を整えた(四道将軍と弓弭調(ゆはずのみつぎ)・手末調(たなすえのみつぎ)という課税)がゆえに御肇国天皇だった。神武天皇の頃はまだそこまでの国家体制はとっていなかったということだろう。

造船の詔・・・祟神天皇のときに初めて舟を作らせたということだが、これは単純なミスだろう。なぜなら神武天皇が南九州から船団でやって来ていることは、同じ書紀の記すところだから・・・。もしこれが本当だとすると神武東征はウソだったことになるが、神武東征造作説にとっては確かにひとつの大きな論拠だろう。
 だが、こうも考えられる。祟神天皇は私見では北九州から東征し、そのときも船団を組んだのだが、祟神東征なんてなかったことにしたいから、天皇の代で初めて舟なるものを作ったのだと強調した――と。

出雲の神宝検校・・・天皇が「武日照命(タケヒナテルノ命)が天から招来した神宝は出雲大神宮にある。それを見たいものだ」と武諸隅(タケモロスミ)に出雲に行かせたところ、出雲国の首長フルネは筑紫に行っていて留守だったが、弟のイイイリネが兄に代わって献上したという。出雲ではこのことで内紛が起こり、イイイリネはフルネに殺され、それに乗じて介入た大和王権側が首長であるフルネを誅殺したという説話。
 説話の前提である「出雲の神宝」とは何か?
 実は献上されたようになってはいるものの、肝腎の中身が分からない。中身が不明などころか、本当は渡されなかったのではないか、と思われる節がある。
 それは垂仁紀26年条である。

 垂仁天皇は物部十千根(とおちね)に対して詔を出す。
  「しばしば使者を遣わして、出雲国の神宝を検校させるのだが、はっきりとこれだと申す者がいない。お前が出掛けて行って調べてきなさい」
 十千根は行って、神宝を確定し、はっきりと、「これでございます」と奏上してきた。よってその神宝を掌握させた。

 
このように垂仁天皇の代になっても「出雲の神宝がよく分からない」と言っていることからすれば、祟神天皇の時に献上されていなかったことは明らかだろう。
 
 中身についてはそれらしきヒントが、同じ祟神紀60年条の最後に書かれている。
 これは、フルネを誅殺したことで、出雲で神祭りが途絶えてしまった――という部分を受けて、そのことに関して子供が神がかりしてこう言っているというところである。

 
玉藻の鎮め石  出雲人が祭っている
 真種のうまし鏡  押し羽振る  うまし御神の底宝、御宝主
 山川の水泳(みくくり)御魂、静め挂けよ  うまし御神の底宝、御宝主


 この神言の解釈では、2行目の「真種のうまし鏡」が「押し羽振る(おしはふる)」の主語と見るか、目的語と見るかでまったく違ってくる。通説では主語と見て、これを「本物の鏡が、威勢よく霊的威力を振るっている」とし、そのように出雲の神宝は「大変優れた宝の中の宝である」というように解釈する。
 そう考えた場合、<真種のうまし鏡=底宝、御宝主>となり、結局、水の底に神宝として祭ってあるのは鏡ということになる。鏡が神宝なのは上代にあっては、格別めずらしいことではないし、もし本当に鏡であるならば、今触れた垂仁紀26年条においてはっきりと「出雲の御神鏡」と書いていいはずである。

 私見では「真種のうまし鏡」を「押し羽振る」の目的語ととる。
 そうすると全体の解釈は次のようになる。

「玉のように美しい藻の付いた水底の石を出雲人は祭っている。それは本物の鏡を押しのけて捨て去ってしまっても構わないような素晴らしい御神宝である。あらゆる水の神よ、そっと静かに鎮めておいて欲しいものだ、水底の素晴らしい御神宝を。」

 
水底にある石が御神宝だ――と言っているのだが、そんなに大切な石とは何だろうか?
 ひとつヒントがある。それは祟神天皇が詔の中で、出雲の神宝は「武日照命が天から持って来た」と言っていることだ。古事記によれば九州には4つの国があり、最南部を「熊曽国、別名は武(建)日別」であった。したがって神宝を持参した「武日を照らす命」は、すなわち「南九州の首長」と思われる (南九州は朝鮮半島まで往来する航海民=鴨族の故地である)。
 もう一つ
出雲フルネが筑紫に行っていて留守だった」というところに注目したい。なぜ大和から使者が神宝を献上させにやって来る時に留守をいしていたかは、すぐ思いつく。大切な神宝を渡したくなかったからだ。それはごく自然なことだろう。しかもわざわざ筑紫まで行っていたという。それは神宝を隠すためではないか。
 出雲族は奴系国家の中心的種族で、天孫族に国譲りをした当時は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」にいた。その中国とは九州北部にあった。つまり国譲りをした出雲族は九州北部で国譲りをした後、当時の首長たるオオクニヌシは現在の出雲地方にいわば左遷され、祭祀だけはかろうじて継続できるという存在に落とされたわけである。フルネは北部九州のオオクニヌシの直系の子孫で、出雲のその祭祀を預かる身でもあった。彼がそこらの鏡よりも大切にしていたのが、天孫族に明け渡す前に九州北半の統治権を握っていた時のシンボルとも言うべき、漢王朝から招来した「金印」だろう。まさにあの志賀島の海岸平野部で発掘された「漢倭奴国王之印」に他ならない。文政年間の発見だが、田んぼの排水溝の土の中のちょっとした箱式石棺のような石囲いから見つかっており、そこは上代は海中だった可能性が強いという。まさに水底の石(組み)だったと言える。

 同じ縄文系種族として、また海上交易上の交流からも非常に親しい間柄の九州北部オオクニヌシ系奴国と南九州系航海民であったから、「天から招来した」のが武日照命という南九州の首長であることに不思議はない。つまり奴国が大陸の漢王朝に使者を送るにあたって、南九州系航海民の首長の舵取りを依頼したというような関係だったので、それが「武日照命が天から招来した出雲の神宝」という詔の表現になったに違いない。

任那国のソナカシチ・・・次の垂仁天皇2年条に詳しく紹介されているので、「垂仁紀を読む」において取り上げる。
120歳・・・事績は17年分なのに68年に間延びさせてあるので、その差51年を架上年とすると、120−51=69を得る。
69歳の寿命なら、当時としてもあり得ない年齢ではないから、一応これは目安になろう。私見では祟神天皇は辰韓王であり、240年代に五十(いそ)すなわち現在の糸島地方に亡命王権を樹立した王である。そう考えると祟神天皇は3世紀前半末から後半を生き抜いた王ということになる。

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