木へんに冬はヒイラギのはずだが当地では「クヌギ」と読む。
原は「バル」なので「くぬぎばる貝塚」が現地名である。
旧国鉄大隅線が廃止になり、その後農免道路(農業用車両
優先道路)として生かされてきたが、平成7年に道路沿いに
個人住宅が建設された際、多量の貝地層が見つかった。
この辺りは古くから「塚」と言い習わされており、大正3年に
N.G.マンロー博士によって貝塚であることが確認されてい
た。
平成9年以降の発掘調査によって、総面積一万平方メートル余りに及ぶ大遺跡であるということが分かった。そのうち貝塚に当たる部分は現有で500平方メートルほど、作られた当時は930平方メートル、厚さが実に4〜5メートルはあったようである。単なる「捨て場」ではなく、祭壇としての機能もあったとされる。
貝塚が単なる「ゴミ捨て場」ではないことが、柊原貝塚によって最終確認されたといっても良いほど貴重な遺跡で、広さも十分に広いがむしろその精神性にこそ大きな特質と価値のある貝塚である。
史跡としては現地保存はもとよりそのような観点から大いに研究し、地域文化の高揚に寄与して欲しい遺跡である。
貝層の標高は十メートル地点
(残念ながら埋め戻された)
形成年代 | 縄文時代後期中頃(約3500年前)が中心 |
貝類の特徴 | 94種。うち7種が殆どで、中でもモクハチアオイ貝が単独で56lを占める。この貝は採取が難しい上、食用には向かない。なぜこの貝が圧倒的に多いのか不思議である。「祭壇状に積んだ」との説がある。 |
その他の出土品 | 土器は加世田式、市来式など縄文後期の代表的な物が中心。しかし中には南九州では余り出土していない物もある。獣骨はオオカミ・ツキノワグマ・イノシシなど。魚骨は外洋性の回遊魚が殆どで、海の民の要素を多分に持つ人たちだったようだ。 珍しいのは多量の石偶(軽石製)である。セミに似た形や浮き輪状のものなど、その役割はまだ解明されていないが、信仰に関わるものではないかと言われている。 |