垂水島津家墓地

 垂水を長期にわたって治めたのは、15世紀の初め頃から
16世紀の末の文禄年間までは十一代を数えた伊地知氏で
あったが、没落後は代わって島津氏が直轄地とした。垂水
島津家の始まりで、江戸時代をほぼカバーする十五代250
年の治世であった。

 領知所の範囲は広く、垂水一円はもとより鹿屋・大姶良
高山・高崎・庄内(最後の二所は日向)にも及び、総石高
は一万八千石とされている。

勝軍地蔵

 

 垂水市立水之上小学校の本城川をはさんだ向かい側やや山手に勝軍地蔵がある。

しょうぐん

 由来は古く、永正3(1506)年に当時の高城城主・肥後文次郎盛明が島津忠昌(十一代)を施主とし、武運長久、領内平穏、子孫繁栄などを祈念して建立したという。

 間口三間ほどの地蔵堂には、立像の三体の仏、中央が高さ2bの地蔵菩薩、両脇には向って右に多聞天、左には毘沙門天が立つ。両脇侍仏はそれぞれ1.4bと小型である。

 いずれも寄木つくりの木仏で色彩が施されている。三体とも同じ時期の造立で、当時から三体で一揃いであった。

これら三体の仏像の胎内から次のような願文が発見されている。

地蔵菩薩尊像を造立し奉る。大隅国下大隅郡、宝珠金蔵寺。時に永正三年丙寅十月吉日。施主、島津忠昌、同忠治。大願主、肥後文次郎盛明、同百鍋丸。時に住持は前住総持・桂穏僧敬白す。作者は加治木岩屋寺住持(快扶)。・・・以下省略
                                 (原漢文)

造立五百年を迎えた平成十八年、三体の仏像は鹿児島県の黎明館に中世の祈りと形を象徴するものであり観覧の目玉として展示・公開された。

地蔵堂からの垂水市街地

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