天智紀を読む

※天智天皇の治世は10年だが、初めの6年は「称制」であり、7年目に即位したことになっている。この10年(662年〜771年)は激動の10年で、半島国家の百済と高句麗がともに滅び、倭国も百済の白江(白村江=はくすきのえ)の戦い(663年)で、唐の水軍により壊滅的敗北を喫した。

 その結果、戦勝国唐の干渉を受け入れざるを得なくなり、九州には「筑紫都督」を置かれ、大和には「倭京」が置かれた。ともに一時的に唐の占領下に入った可能性を考えておく必要がある。

 
  
父母     父・・・舒明天皇(息長足日広額)
          母・・・宝皇女(後の皇極=斉明天皇)

 
和風諡号   天命開別(あめみことひらかすわけ)


   宮 
      長津宮(那ノ津宮)
           近江宮

  
 皇后     倭姫王(やまとひめのみこ)

   
墳墓      山科陵(やましなのみささぎ)…古墳名「御廟野古墳」

  
皇子・皇女(一覧表)

皇后・妃名 出自 皇子・皇女
倭姫王皇后 古人大兄皇子の娘
遠智娘(イラツメ) 蘇我山田石川麻呂の娘 大田皇女・鵜野皇女・建皇子
姪娘 遠智娘の妹 御名部皇女・阿倍皇女
橘娘 阿倍倉梯麻呂の娘 飛鳥皇女・新田部皇女
常陸娘 蘇我赤兄の娘 山辺皇女
色夫古(シコフコ)娘 忍海造小龍の娘 大江皇女・川島皇子・泉皇女
黒媛娘 栗隈首徳萬の娘 水主皇女
越道君伊羅都(ツ)売 欽明31年「越道君」の末裔か) 施基(シキ)皇子
伊賀采女宅子(ヤカコ) 伊賀皇子(大友皇子)

 
   < 年代順の事績 >

年 号 事       績 備  考
称制前記 皇極天皇の4年に天皇弟の孝徳天皇が即位したとき、その皇太子となった。9年後に孝徳天皇が亡くなると再び皇極天皇が即位して斉明天皇として重祚した。この時も皇太子であったが、斉明天皇が7年(661)に亡くなっても即位はせずに「称制」した。
・朝倉宮から長津宮に遷る。
・8月、阿曇比羅夫・河辺百枝臣・阿倍引田比羅夫・守君大石らを百済救援隊の将軍とする。
・9月、百済王子・豊璋に兵5千を付けて百済に帰還させる。
皇極天皇の4年…645年。この年、乙巳の変が起こった。
・称制
…しょうせい。天子に代わって政治を行うこと。天智天皇の地位は皇太子のままであった。
称制元年
(662年)
・正月、百済の佐平・鬼室福信に矢を10万などを与える。
・5月、阿曇比羅夫ら船師170艘を率いて百済王子・豊璋を本国に送る。
・12月、豊璋・鬼室福信を交えた軍議で、倭人の朴市田来津(えちのたくつ)らは、避城(ヘサシ)に居城することを主張した豊璋に対して「ヘサシは攻撃を受けやすいので、州柔城(ツヌサシ)に居城した方がよい」と応じたが、受け入れられなかった。
・避城・州柔城…どちらも百済の城だが、場所は不明。避城は低地にある平城、州柔城は山城のようである。
 
称制2年
(663年)
・3月、上毛野君稚子・間人連大蓋・巨勢訳語・三輪君根麻呂・阿倍引田比羅夫などに27,000の兵を授け、新羅を討たせた。
・6月、百済王子・豊璋が佐平・福信を疑い、誅殺する。
・8月27日、唐の水軍と白村江で海戦するも、翌28日には挟み撃ちにより大敗を喫する。百済王・豊璋は高句麗方面へ逃亡する。
・9月7日、百済の州柔城が陥落し、百済は滅亡する。
・9月25日、日本からの援軍の残兵と佐平・余自信、憶禮福留など百済人が日本へ向かう。
・白村江で海戦…韓国では「白江の戦い」という。白村江は錦江の最下流部の名で、この河口で唐の水軍170艘と、倭の水軍400艘とが交戦したが、壊滅的敗北となった。
称制3年
(664年)
・2月9日、天皇大皇弟に冠位の増加と氏の上などを再確認するよう命じた。冠位は増やした結果、大織以下小健までの26階になった。
・5月、百済鎮将・劉仁願が朝散大夫・郭務宗を派遣し、表函を進上してきた。12月に帰還した。
 ○この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ)を置いた。また筑紫に水城を造った。
・天皇大皇弟…称制の最中は天皇ではなく皇太子であったはずだが、ここで唐突に「天皇」位で登場するが、天皇に即位したのは7年(668)の正月3日となっているのだが、不審である。
称制4年
(665年)
・2月、百済からの男女4百人余りを近江国の神前郡に置く。
・9月、唐が朝散大夫・劉徳高を遣わした。12月に帰ったが、守君大石等を唐に遣わした。
守君大石…百済救援軍の指導者の一人。唐使ではなく唐に連行されたのではないか?
称制5年
(666年)
・3月、皇太子、自ら佐伯子麻呂の家に赴き、病をいたわる。 皇太子…この皇太子は大皇弟(大海人皇子)。
称制6年
(667年)
・3月、都を近江に遷す。
・8月、皇太子は倭京に出かけた。
・11月、百済鎮将・劉仁願が熊津都督府・司馬法聡らを遣わし、境部連石積らを筑紫都督府に送還した。
 ○この月、倭(やまと)国の高安城、讃岐国の屋島城、対馬国の金田城を築く。
倭京…わきょう。倭は「大和」のことか。場所は不明。
熊津都督府…百済の熊津に置かれた唐の占領司令部。
・筑紫都督府
…筑紫に置かれた唐の司令部。
称制7年
・即位元年
(668年)
・正月3日、皇太子が天皇位に就いた。古人大兄皇子の娘・倭姫王を皇后に立てた。(以下、妃と皇子・皇女の紹介)
・2月、飛鳥浄御原宮に居住。のちに藤原に遷宮。
・5月5日、蒲生野に御狩する。
・10月、唐軍(大将軍・英公)が高句麗を滅ぼす。
 ○この年、道行(僧)が草薙の剣を盗み、新羅へ行こうとして風雨に遭い、迷い帰る。
・天皇位…称制からようやく即位したのでこれ以後は天智天皇だが、4年前の2月9日条の「天皇」は不審である。
・高句麗
…始祖・朱蒙(東明王)。建国が前37年であるから丁度700年、28代宝蔵王で滅亡した。
・即位2年
(669年)
・正月9日、栗前王に代えて蘇我赤兄を筑紫率に任命する。
・5月5日、山科野に御狩する。大皇弟や藤原内大臣らが従う。
・10月10日、天皇自ら藤原内大臣を見舞う。15日、大織冠を授ける。さらに氏を藤原とし大臣位を与える。翌日、内大臣は逝去。
 ○この年、河内直鯨らを唐へ遣わす。また、百済からの亡命者700余名を先の神前郡から蒲生郡へ移らせる。
・筑紫率…初見は推古17年(609)、「筑紫大宰」(つくしおおみこともち)。
・藤原内大臣…藤原鎌足。中臣氏から藤原氏へ。割注に56歳で亡くなったとある。
・即位3年
(670年)
・2月、戸籍を造り、盗賊や浮浪者を取り締まった。また、新たに長門に一城、筑紫に二城を造らせた。
・4月30日、夜半に法隆寺が焼け、ことごとく灰燼に帰す。
・戸籍…「庚午年籍」(こうごのねんじゃく)のこと。浮浪民を収拾する目的があった。
・即位4年
(671年)
・正月5日、大友皇子を太政大臣に、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金連を右大臣に任命する。蘇我果安・巨勢人・紀大人を御史大夫とする。同月13日、百済鎮将・劉仁願が李守真らを遣わし上表する(7月11日に帰還した)。
・4月25日、漏剋(ろうこく)が初めて時を打ち知らせる。
・9月、天皇が疾病に罹る。17日、東宮(大海人皇子)を呼び、後事を託すが、東宮は固辞して大友皇子を推挙し、自分は出家したい旨を申し出る。許されて即日髪をそり落として沙門となる。19日、吉野へ入山。
・11月、対馬国司より「沙門・道久、筑紫君薩野馬、韓嶋勝娑婆、布師首磐の4名が唐から帰って来たが、唐使の郭務宗ら600名、さらに送使の沙宅孫登ら1400名、併せて2000名が47艘の船に分乗してやって来る」との報告が入る。
・同月23日、大友皇子は左右大臣及び御史大夫の5臣を前にして「天皇の詔」を捧持することを誓い合う。24日、近江宮から出火。29日、大友皇子及び5臣が天皇の前で誓い合う。
・12月3日、天皇、近江宮にて崩御。
 ○当時、次のような童謡(わざうた)が流布した。
 @みえしぬの えしぬのあゆ あゆこそは しまへもえき
    えくるしゑ なぎのもと せりのもと あれはくるしゑ
 Aおみのこの やへのひもとく ひとえだに 
           いまだとかねば  みこのひもとく
 Bあかごまの いゆきはばかる まくずはら
           なにのつてこと ただにしえけむ
・御史大夫…中国の官制。唐時代は中央官吏の監察官の役目。
李守真ら…百済の占領司令官から5度目の使者である。
筑紫君薩野馬…筑紫君と言えばこの140年前に八女を本拠地とした「磐井」がいたが、その子「葛子」は粕屋屯倉を継体天皇に献上して許されているので、薩野馬は葛子の後裔だろうか。いずれにしても唐軍に壊滅させられた筑紫はじめ九州各地の敗残軍の指導者の一人として唐に捕囚された者であろう。
童謡(わざうた)…子供が神懸り的に口ずさむ歌で、事の真相などを表現していることがある。この三歌もそうだと思われるが、解釈は難しい。
(注)
天智天皇の死の真相天智天皇の死の不可解なことについて『扶桑略記』(僧・皇円著。平安時代末)に<一に曰く「山科へ白馬で出かけたまま帰らず、ただ履(くつ)が残されていただけであった・・・」>との引用説を挙げており、古来関心を呼んできた。

 実はこの点について鹿児島では諸々に「天智天皇渡来説」が残っており、、幕末に編纂された『三国名勝図会』(薩摩藩史局の五代秀堯と橋口兼柄共編著。天保14年=1843年)にはかなり詳しい伝承の数々を取りあげているので、紹介しておく。
 『三国名勝図会』は全60巻からなる鹿児島の藩政時代に編纂された最高峰の地歴誌であるが、その中に天智天皇に関する記事が半端でない数掲載されている。
 管見によると次の通りである。ただし、熊本の青潮社発行の全4巻本からの抽出である。
 @巻一
(序文から薩摩半島の鹿児島本府から高城郡まで)・・・5ヶ所。
 A巻二(薩摩半島の出水郡から甑島郡まで)・・・・・・・・・・・・・・9ヶ所。
 B巻三(大隅半島の清水郷から垂水郷まで)・・・・・・・・・・・・・・4ヵ所。
 C巻四(大隅半島の高山郷から志布志郷まで)・・・・・・・・・・・・4ヵ所。
以上、都合22ヵ所に天智天皇のことが掲載されている。

 不思議なことに、当時薩摩藩に属した現在の宮崎県都城市を中心とする広大な領域には、天智天皇の事績は一つもないのである。したがって天智天皇の事績は薩摩藩といっても今日の鹿児島県域にしかない現象である。

 そのことを念頭に置いて天智天皇の事績を見てみよう。

 時系列から行くと、まず巻三の国分清水郷の事績が際立っている。清水郷の山奥に「台明寺」という寺があり、これは天智天皇の勅願で建立された、とあるが、有名な故事が「青葉竹」である。
 皇太子時代に九州を巡見したおり、国分の台明寺にやって来て境内に生えている「台明竹」が笛に適していることから王朝に貢納させることになった――という伝承が残されている。・・・・・(A)

 時系列で次に当たるのは巻二の頴娃郷である。頴娃郷に鎮座する枚聞神社には天智天皇の妃でありながら誕生地の頴娃に帰ってしまった「大宮姫」が祭られているが、天智天皇はこの大宮姫を訪ねてはるばる都からやって来たという。・・・・・(B)
 これに次ぐのが巻四の「志布志郷」の事績だろう。志布志市北東にそびえる御在所岳の頂上には天智天皇の御廟があったと伝えられていたが、いつしか麓に下ろされて麓にあった田ノ浦山宮神社の祭神となり、さらにのちには志布志市安楽に山宮神社(山口大明神)が建立されて今日に至っているのだが、前項の頴娃を訪ねた天智天皇は都に帰る際に大隅半島を横断して志布志に到来し、志布志港から船出する前に頴娃の開聞岳を望める御在所岳に登り、「私が死んだらこの山に廟を建ててほしい」と土地の者に言い残したという。・・・・・(B)

 以上のように(A)は皇太子時代、(B)は天皇になってから、というように時代としては全く違う2種類の説話があることが分かる。
 (A)の皇太子時代というのは百済救援で九州の朝倉宮にいた時のことと思われ、これは確かなようであるが、天皇になって近江に都を置いてからわざわざ九州の最南端まで来ることが可能であったかと考えると、これには首をかしげざるを得ない。

 しかし同じ薩摩半島でも頴娃よりは東の錦江湾に近い指宿に見過ごせない伝承がある。揖宿神社の社伝がそれだが、揖宿神社は今でこそ別名が「開聞新宮九社大明神」であるが、そう呼ばれるようになったのは貞観16年(874)の7月に開聞岳が大噴火し、当時の枚聞神社が壊滅した結果、その避難先として揖宿神社に遷ってからのことなのである。それまで揖宿神社は「葛城宮(かつらぎのみや)」と云われ、天智天皇の事績に基づき天智天皇の幼名である「葛城皇子」に因んで命名されたのである。
 社伝によると『孝徳天皇の白雉元年(650)、開聞岳(長主山)の岩屋で修行していた仙人が鹿の生んだ姫を養育し、後年智通上人に預けられ、さらに藤原鎌足が撫育して大宮姫と名付けた。その後、天智天皇の妃となったが、大友皇子の母に嫉妬され追放同然に頴娃に帰って来た。天智天皇は別離の情もだし難く、一日、白馬に乗り山科宮に出かけ(この時御年46歳)、そのまま還御せず、丹波路を経て大宰府に至り、さらに南九州に船行して志布志と串間の間の浜に到着した。それから白鳳2年(673)5月1日、指宿の多良浦に着船、同月5日、開聞岳(長主山)に行幸し離宮に入られた。その後文武天皇の慶雲3年(706)2月10日に79歳で崩御されたという。そこで当神社の社司である指宿・堀之内両家の遠祖が勅を奉じてこの地に天智天皇の神霊と遺器を奉斎し、宮を建立して天皇の幼名である葛城皇子から「葛城宮」と名付けた』という。
 
揖宿神社はこのような由緒を持っているのである。現在、葛城宮は「西之宮」として祭られ、揖宿神社本殿の裏手にほかの7社とともに小さな社殿がある。本殿に祭られているのは「オオヒルメムチ」(天照大神の別名)で、これは枚聞神社の祭神そのものである。つまり揖宿神社の本来の祭神は天智天皇(葛城皇子)だけであったということになる。

 このように天智天皇の伝承は大隅半島から薩摩半島南部へとつながっており、これを単なる付会というには余りにも多量かつ具体的な伝承である。
したがって南九州と天智天皇の間には何らかの深い縁故があったと考えて何ら差支えないと思われる。
 その具体像は何か。――今のところ日本書紀の天智天皇紀の不可解な描写と『扶桑略記』の記事とを勘案して、天皇が南九州にやって来たことは間違いないと思う。その理由は白村江の海戦における惨敗(戦争責任)によるものであろうとまでは考え付いているが、具体像はまだ浮かんで来ないでいる。


      この項終わり                             目次に戻る