天武紀を読む(下)

※(上)の事績表では、いわゆる「壬申の乱」に於いて勝利を収めるまでの15ヶ月間を、月単位で表示したが、(下)では即位して崩御するまでの天武2年(673年)から朱鳥元年(15年に朱鳥という年号を建てた)までの14年間を、これまで通りの年単位で表示する。

   父母   父・・・舒明天皇
         母・・・宝皇女(後の皇極=斉明天皇)

  
和風諡号 天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)

  
 宮     飛鳥浄御原宮

   
皇后    鵜野皇女(うののおうじょ=「う」は盧ヘンに鳥。天智天皇皇女で後の持統天皇)

   
墳墓    檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

  
皇子・皇女(一覧表)

 皇后・王妃 出 自            皇子・皇女
鵜野(うの)皇后 天智天皇の娘  草壁皇子
  大田皇女  同上(皇后の同母姉)  大津皇子 大来皇女(おおくのひめみこ)
  大江皇女  同上(皇后とは異母)  長皇子・弓削皇子
新田部皇女  同上(皇后とは異母)  舎人皇子
 氷上娘(いらつめ)    藤原鎌足の娘  但馬皇女
  五百重娘   同上【氷上娘の妹)  新田部皇子
  大ズイ娘    蘇我赤兄の娘  穂積皇子 紀皇女・田形皇女
  額田姫王     鏡王の娘  十市皇女
   尼子娘    胸形徳善の娘  高市皇子
  カジ媛娘  宍人臣大麻呂の娘  忍壁皇子・磯城皇子 泊瀬部皇女・託基皇女
 
(注)天智天皇と天武は書紀「舒明紀」によれば、ともに舒明天皇と寶皇女の間の子とされるが、天智
   がその後は「中大兄皇子」として大活躍するのに、天武の「大海人皇子」は全く出てこない。このこ
   とから天智と天武は兄弟関係にはないとする説が強く、自分もこれを支持する。
    そのことは上の<皇后・王妃>で、太字にした上位の4皇女すべてが天智天皇、即ち実兄の皇女
   であることからも類推される。古代に叔(伯)父と姪との婚姻は少なくないが、正妃(皇后)にまでする
   例はこの時が初めてである。
    私見では天武天皇となったのは藤原鎌足の長子とされ、10歳ほどの少年fだったのに遣唐使と共に
   入唐して仏教を学び、白村江の戦で敗れた後の665年に、占領軍たる唐将・劉徳高の船で帰国した
   定惠こと「中臣真人」ではないかと考えている。(「孝徳天皇紀」5年2月条の割注による)
    天武の和風諡号にある「真人」が共通しているのと、帰国した同じ年(665年)の内に死んだとして
   あるタイミングの良さを不審に思うからである。また、父の代(中臣鎌足)にすでに藤原姓を天智天皇
   から貰っている弟の不比等が、天武と敵対した天智の皇子・大友皇子(弘文天皇)側の重臣グルー
   プの中心でありながら、その後の処罰はなく、天武・持統朝を経て、却って全盛を極めていくのも不
   審であり、もし天武=中臣真人(定惠)であるならば、むべなるかなと思うのである。


  < 年代順の事績 >
事 績 の 概 要 備考
天武2年
(673年)
・2月 飛鳥浄御原宮で即位。正妃・鵜野皇女を皇后とする。皇后は草壁皇子を生んだ。(以下、妃と生んだ皇子・皇女を列挙=上の表を参照)
3月 初めて「一切経」を川原寺に於いて書写させる。
4月 大来皇女を天照大神宮に伺候させる(泊瀬斎宮に入る)。
閏6月 新羅使が渡来し、皇位就任を賀す。(11月まで滞在する。)
一切経…インド生まれの原始仏教経典が中国に渡り、6世紀頃に大要が書写編集されて「一切経」となった。「大蔵経」ともいう。以後、各仏典の読誦記事が多い。
3年
(674年)
正月 百済王の昌成が死んだので、小紫位を贈与する。
8月 忍壁皇子を石上神宮に遣わし、神宝を磨かせる。詔勅により、諸家から奉納された宝物をその子孫たちに返還させる。
石上神宮…物部氏所管の神社で祭神は「布留之御魂」。多くの神宝のうち「七枝刀」は有名である。
4年
(675年)
・正月 初めて占星台を建設する。
2月 664年に支給された部曲を停止する。親王以下に賜与された山・島・浦なども停止する。
3月 風の神を龍田に祀らせ、大忌神を広瀬に祀らせる。また牛馬犬猿などの肉を食べることを禁止する。
龍田社・広瀬社への祈願は多く、天武時代に14回、持統時代にも14回、計28回も祭式している。
5年
(676年)
6月 大いに旱して五穀が実らず、諸国飢える。
8月 四方を祓い、罪人の罪を赦す。この時、諸国に詔して「方生」を行わせる。
11月 諸国に使いを出し「金光明経・仁王経」を説かせる。
方生…ほうじょう。生き物を放下して罪障を祓うこと。
6年
(677年)
・正月 多禰島人が入京、飛鳥寺で饗応する。
・8月 飛鳥寺に於いて読誦・祈祷を行い、一切経を読ませる。親王・諸王・群臣の各家から一人ずつ出家させる。
多禰島…種子島のこと。
7年
(678年)
4月 正月に建設した倉梯の斎宮に出掛けようとし、行列が調って動き出そうかという時、十市皇女が急死。行幸を取りやめる。
12月 筑紫で大地震が発生する。地が裂けること二丈(6m)、その長さ三千丈あまり(9000m余)。百姓の家々が多く倒れる。
十市皇女が急死…倉梯の斎宮に何か障りがあったのだろうか。以後、出て来ない。
8年
(679年)
5月 吉野宮に行幸し、皇后・草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔を出す。要旨:「母の違う皇子たちだが同じ腹からの子として、千年の後にも事が無きように願う・・・」。これに対して皇子たちはそれぞれ誓いの言葉を述べる。
11月 倭馬飼部造連(つら)と上村主光欠を大使・副使として多禰島へ遣わす。
吉野宮…天智天皇から後継者にと言われたが、辞退して隠棲した所。しかし間もなくここを脱出して東国へ落ち延びた。
9年
(680年)
5月 初めて「金光明経」を宮中と諸寺で読誦。
9月 長柄社に於いて「馬的」を射させた。
11月 皇后が病んだので、薬師寺を建立し、百人の僧を得度する。
長柄社…御所市にある式内社。ここで馬的(流鏑馬)が行われた。流鏑馬の起原だろうか?
10年
(681年)
2月 「律令撰定の詔」を出す。草壁皇子の立太子。
・3月 川嶋皇子・忍壁皇子ら12名に「帝紀上古諸事の撰修の詔」を出す。中臣大嶋と平群子首(おびと)の二人が執筆を担当する。
・8月 多禰島から帰京の使節が多禰国図を持ちかえる。
帝紀上古諸事…帝紀は天皇の系譜。諸事は伝記・伝承。記紀編纂の原本である。
11年
(682年)
3月 境部石積らに命じて「新字一部・44巻」を作らせる。親王以下に贈与した食封(へひと)を返させる。
7月 隼人が多く来京、方物を貢ぐ。大隅隼人と阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝つ。多禰・掖玖・阿麻彌人等に禄を与える。
12月 諸氏の「氏上(うじのかみ)」を定めさせる。
新字一部・44巻…万葉仮名の類か?
大隅隼人と阿多隼人…初見である。
12年
(683年)
正月 大極殿に於いて祝宴を催す。小墾田舞・高麗舞・百済舞・新羅舞が披露される。
3月 僧正・僧都・律師をそれぞれ任命する。
9月・10月 52の姓を改め、「連(むらじ)」となす。
13年
(684年)
閏4月 文武百官に兵馬を備えさせ、習わせる。
10月 「八色の姓」を新設する。守山公・息長公ら13氏を「真人」姓とする。14日、大地震発生。伊予では温泉が埋もれ、土佐では田50万頃(けい)が埋もれて海になった。古老は「このような地震はかって有ったことがない」と言った。
11月 52氏の姓を改め、「朝臣」とする。
12月 50氏の姓を改め、「宿祢」とする。
八色の姓…真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置の8姓。
14年
(685年)
正月 爵位を改め、諸王以上は「明位・浄位」とし、6階大広の12階。
諸臣のは「正・直・勤・務・追・進」とし、24階大広の48階と定める。
6月 11氏に「忌寸(いみき)」姓を与える。
12月 筑紫に派遣した防人が海路中に漂流し衣服類を失ったので、筑紫に布を大量に送る。
忌寸(いみき)…上を参照。忌寸は古来からの国造で「直」姓の者や、渡来人有力者に与えられた。
15年
朱鳥元年
(686年)
・5月 天皇が病んだので、川原寺で薬師経を読誦する。
6月 天皇の病変は「草薙の剣の祟りである」との占いが出る。即日、草薙の剣を尾張の熱田社に送り返す。
7月 朱鳥という年号を立て、今年を朱鳥元年となす。
8月 諸王・諸臣が天皇の病気回復を願い、観音像を作り、観世音経を読誦させる。
9月 9日、天皇崩御。この時に当たり大津皇子が謀反を起こす。
草薙の剣…記紀神話によればスサノヲがヤマタノオロチを退治した時に、その尾から見付け出され、ヤマトタケルが東国を平定した時に使われた。元来、熱田神宮に納められていた剣とされる。

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