天武紀を読む(上)


※『日本書紀』の「天武紀」は
上下二巻に分載されている

 上巻(第28巻)は先代の天智天皇の死後に行われた大友皇子との後継者争い、いわゆる「壬申の乱」の詳細が描かれ、勝利を収めた天武天皇が即位し、「飛鳥浄御原宮」を建てるところまでの1年3か月が記載されている。
 下巻(第29巻)はそれ以降の即位2年目から崩御する15年目(朱鳥元年)までの事績で、この下巻は通常の天皇紀と同じ書き方である。
 ここでも、上下両巻を一緒に纏めることはしないで、やはり(上)(下)に分けて記載しておく。上巻に描かれた期間はわずか15カ月でしかないが、登場するそれぞれの与党の人物像や事件に見るべきものが多く、ひとまとめにすると記述が非常に長くなってしまうと思うからである。




 < 事  績 >上巻は即位前年と即位年の2年(15カ月)だけなので、月単位で記載した。
                いわゆる「壬申の乱」の経緯が詳細に書かれている。

概      要 備  考
即位
 前年
 671年
・天武天皇は和風諡号「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」であり、天智天皇の同母弟である。幼名は「大海人皇子」といった。
 天文遁甲を能くし、天智天皇の即位元年に東宮となり、天智天皇の娘・菟野皇女を正妃とした。
10月17日、天皇は東宮に皇位を継がせようとしたが固く固辞し、皇后を皇位に、大友皇子を皇太子にするよう提案し、自身は出家を願った。
10月20日には「吉野宮」に入った。ある人が「虎に翼を着けて放したようなもの」と言った。
12月、天智天皇が崩御。
・大海人皇子…おおあまひとのおうじ。初出は舒明天皇の2年(630)正月の条。「舒明天皇が寶皇女を娶り、葛城皇子・間人皇女・大海人皇子の2男1女を生んだ」という記事。
 その後の40年間、一切登場せず、人物像はいろいろ取り沙汰されている。
即位
 元年

 672年
3月 18日、安曇連稲敷を筑紫に遣わし、天皇の喪を郭務宗(カク・ムソウ)に連絡したところ、喪服を身に纏い稽首した。
21日、郭務宗が書簡と進物を捧げた。
23日、郭務宗らに甲冑・弓矢および布綿の類を与えた。
31日、郭務宗は帰国していった。
○この月、近江朝廷方は各地に手配して吉野に入った大海人皇子の動静に備えていた。
郭務宗…唐の使節で位は朝散大夫(文官)。前年の11月2日に白村江の戦いで捕虜になっていた筑紫君薩野馬(天智の備考を参照)
らと共に来たようである。その後翌年の3月末までいたことになる。
6月 1日、美濃国の安八麿郡の湯沐令(ゆのうながし)「多臣品治(おおのおみ・ほむじ)」に出兵を要請する。
24日、吉野から東国に向けて出発する。従者は草壁皇子・忍壁皇子・朴井雄君・縣犬養大伴など20余名、女子供10余名であった。宇陀・名張・伊賀・柘植・鈴鹿・三重などを経て26日に朝明に至り、天照大神を望拝する。その間に高市皇子と大津皇子が合流した。
 一方、近江京の大友皇子は「速やかに大海人皇子を追跡するべきです」という臣下の意見に取り合わず、韋那公磐鍬らを東国に派遣し、穂積百足らを倭京に派遣した。また、佐伯男を筑紫大宰へ、樟磐手を吉備国へ使者として送った。しかし筑紫の大宰である栗隈王も、吉備の国司である当麻公広島もともに援軍の派遣を拒んだ。
27日、不破の郡衙に到着。この時、尾張国司・小子部連サヒチが2万の兵を引き連れて合流。ここに「不破宮」を造る。
29日、大伴吹負を将軍とし、乃楽(なら)に向かう。
・倭京…やまとのみやこ。倭京の初出は天智天皇の6(667)年。同じ年の近江遷都の直後に登場する。近江遷都の前は斉明天皇の「後飛鳥崗本宮」であったのだから、倭京はすなわち崗本宮であるはずで、なぜ「崗本宮」あるいは「飛鳥」と書かなかったのか?
 この「倭京」とは実は3月に帰った唐の使節・郭務宗がいた所で、一種の都督府だったろうと思われる。
7月 2日、多臣品治らを指揮官として数万の衆を倭に向かわせ、村国男依らを指揮官として数万の衆を近江に向かわせる。
このあと「乃楽山の戦い」「倉歴の戦い」「息長横河の戦い」「安川浜の戦い」そして「瀬田の戦い」により、近江朝廷軍を打ち破り、大友皇子は自死する。その後、近江軍の犬養五十君や壱岐韓国ら残党の反撃もあったが、戦乱は終息する。
8月 25日、高市皇子に近江王権側の罪状を定めさせ、8人を極刑に、その親族などは配流に処した。 ・極刑になったのは中臣金、蘇我赤兄、巨勢比等など。
9月 12日、天皇は倭京に至り、嶋宮に入った。
15日、嶋宮から崗本宮に遷る。

○この年に崗本宮の南に「飛鳥浄御原宮」を造営した。
・6月の備考でも触れたが「倭京」は崗本宮ではない。唐の都督府(GHQ)が置かれたのだろう。
 崗本宮は天智・天武両天皇の母とされる斉明天皇の宮で、正確には「後飛鳥崗本宮」という。
11月 24日、新羅の客・金押實らが筑紫に来たので饗応した。
12月 4日、戦に功労のあった諸士の冠位を増加した。
26日、金押實らが帰った。
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