もう一つの東征(東遷)説話A

 『山城国風土記』(逸文)の中に「賀茂社」の項があり、そこには今の下鴨神社(賀茂御祖=かもみおや神社)と上賀茂神社(賀茂別雷=かもわけいかづち神社)の由来について、簡潔に記されている。
 「賀茂社」の中の由来記の部分は次のようである。

               賀茂社
  
        山城国風土記にいわく、可茂(賀茂)の社。可茂と称うるは、日向の曽の
       峯に天下りましし神、賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)、神倭石余比古
       (カムヤマトイワレヒコ)の御前に立たして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、
       そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至り給い、山代河(木津川)
       に随いて下りまして、葛野川(桂川)と賀茂河と会うところに至りて、加茂川を
       見晴かして言い給う。「狭小なれど、石川の清しき川なり」とのり給いき。
       よりて名付けて石川の瀬見の小川という。その川より上りまして、久我国の
       北の山基にしずまりましき。その時より名付けて賀茂という。(以下省略)

 
 以上が山城国風土記逸文に載る賀茂神社(京都・本社)名の由緒で、賀茂とは日向の曽の峯に天下った賀茂建角身の名に由来するという。
 日向の曽の峯とはどこにあるのか、またカモタケツヌミとはどのような人物かがまず問われるが、日向といえば今日の宮崎・鹿児島を併せた領域であり、さらに「曽」と限定されれば鹿児島の方に違いなく、もう少し範囲を狭めると、大隅地方がこれに該当する。霧島山から大隅半島一帯がその領域である。
 この地域のいずれかの高い山が曽人たちの信仰の山(神山)であり、それら曽人を束ねたのがカモタケツヌミであったのだ。

 カモタケツヌミはカモ・タケ・ツ・ヌミと分けられる。

 「カモ」は鳥の鴨のことで、賀茂神社の下宮と言われる「賀茂御祖神社」が通称で「下鴨神社」とされているのと符合している。人物を形容する言葉であるからこの鴨の属性が問題となる。
 鴨の属性は(1)冬の渡り鳥 (2)遠浅の汽水域に群集する が主なものだ。
 鴨は主に沿海州やシベリアで夏を過ごし繁殖する。そして冬の寒さを避けるため朝鮮半島南部から日本列島にかけて秋になると飛来する渡り鳥である。

 この生態になぞらえられるのが航海民であろう。
 航海民は記録に載りにくく、なかなかその生態がつかめないが、『魏志・韓伝』によると辰韓人は「男女、倭に近く、また文身せり」とあり、倭人に近い文身(身体に入れ墨をしている)の人々であった。隣の弁韓
人もほぼ同族で、共に入れ墨を施すタイプの種族すなわち海人族(航海民の一種)系の人々であるとしている。この史料と南九州の航海民の存在を比喩的に表現した<鴨着く嶋>とを重ね合わせると、南九州海人族が船で遠く朝鮮半島にまで漕ぎ渡ったことが了解されるのである。

 南九州の航海民とは具体的には「市来式土器人」であろう。薩摩半島の市来貝塚出土の土器を指標とする市来式土器は縄文時代後期(約3500年前)を中心年代とする土器で、これを担った人々はその頃すでに南九州全域に繁栄し、南島から九州北西部までをその行動範囲としていた航海族である。

 弥生時代になると朝鮮半島で諸処に鉄山が開発され、その一環として開かれた弁韓北部の「伽耶鉄山」は規模が大きかったのだろうか「国は鉄を出だす。韓・ワイ(さんずいに歳)・倭、みな従いて之を取る。(中略)また以て二郡に供給す」(弁辰条)とあるように、韓地の人のみならず北部のワイ人や倭人までが鉄の産出に従事し、二郡すなわち魏の植民地たる帯方郡や楽浪郡にまで鉄を供給していたという。

 この鉄資源の産出と列島への輸送に大きな力を発揮していたのが航海民なのであった。鉄を必要としていたのは弥生「開田立国」時代の特徴で、同じ金属器でありながら青銅器は普及したと同時にすぐに実用を離れて祭器化するほかないほど、弥生時代は「鉄、鉄、鉄」の時代だった。それゆえ鉄の生産・輸送は時代の花形産業で、文身をして威勢よく海に繰り出す航海民はまさに時代の寵児だったと言ってよかったのである。

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