もう一つの東征(東遷)説話B

 次に「建(タケ)」だが、これは古事記の「国生み神話」で九州島(筑紫)に四つの国があるとして挙げられたうちの一つ「建日別(タケヒワケ)」すなわち別名「熊曽国」を指している。熊曽国は当然ながら南九州のことであるから「カモ(鴨)タケ(建)」までで「南九州の航海民」を意味することになる。
 
 問題は「角身(ツヌミ)」である。一見してこれは「角を持った身体」と解釈されるが、鬼ではあるまいし、一般には「角の付いた冑をかぶった武人」と理解されている。そう捉えると「賀茂建角身(カモタケツヌミ)」とは「南九州の航海民で角の付いた冑をかぶった武将」ということになる。航海者と武将とは結び付かないが、一つ例がないわけではない。日本書紀の応神天皇十三年条の分注に次の話が出ている。

 日向の諸県君牛諸井が船団で播磨にやって来た時に、角を付けたままの鹿の皮を衣装として纏っていたため本当の鹿の群れが海を渡っていると天皇が見間違えた――というものだが、鹿の毛皮は当時今日のオーバーコートに匹敵する防寒衣料であったろうから、航海民が冬に着用して何らおかしくはない。

 さて、この分注は @鹿子は「水手(ふなこ=船子)」を表していること A播磨国(兵庫県)の鹿子水門(かこのみなと=加古川)は船子の意味の鹿子から名づけられたこと ――の二点を明らかにしている。

 @の「鹿子」が容易に鹿児島の「鹿児」と結び付くとは誰しもが思うであろう。事実このときの中心人物・日向国の諸県君牛諸井(ウシモロイ)は南九州の航海民の首領といってよい書き方がなされているのだ。それを疑う必要はあるまい。
 「牛」という漢字にとらわれてはならない。ウシとは南九州方言で「大人」すなわち「首領・統率者」を意味している。従ってウシモロイとは「諸県に居着いた首領」のことである。

 仁徳紀と応神紀とを付きあわせて読んでいくと、私はどうもウシモロイは武内宿禰のことではないかとの感触を得ている。もちろん実在性については両者とも疑問はある。だが造作にしても骨格のような物はあったはずだから、記紀編纂上の中央集権的な「偏向」の箍を外して読み直し、眼光によるレントゲン照射でその骨格を浮かび上がらせることは可能だと思う。

 さて問題の「角身(ツヌミ)」だが『新撰姓氏録』の<山城国神別・天神の部>記載の「加茂県主」「鴨県主」「矢田部」「祝部」各氏の始祖とされる「(カモ)タケツヌミ」についての表記と、山城国風土記の別項「三身社(ミミ社)」の由来記から、私はこれを「ツ」「ミミ」と分けることができると特定した。すなわち「〜のミミ」の意義である。

 そうすると「カモタケツヌミ」とは「カモ・タケ・ツ・ミミ」となり「南九州(タケ)航海民(カモ)の(ツ)王(ミミ)」と解釈される。

 以上の字句(倭語)の解釈は山城国風土記「賀茂社」の由来となった人物が「曽の峯に天下った」人物であることと、魏志倭人伝の表記の南九州「投馬国」の首領であることとに同時的な整合性を持つことになろう。何ら矛盾なく説明ができたと思う。
 
 次ページではそのような航海民の王者を育んだと思われる当地の地誌的な環境を
捉え、説明していきたい。

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