『魏志倭人伝』によれば、投馬国には官に「彌彌(ミミ)」、副官に「彌彌那利(ミミナリ」がいた。私はこれらは中国側が描いたような「官名」ではなく、投馬国側にとっては「王名」に他ならないと考える。たとえば倭人伝では対馬や壱岐の「大官」は「卑狗(ヒク)」だとしているが、この卑狗は「ヒコ(彦)」であり「彦」は天皇を含む高貴な人物に使用される名号であって、決して「官名」ではないことに異論がないのと同じである。
 
 この投馬国の王統名はこのシリーズのトップで述べたように、神武天皇の皇子名に頻出する。神武には五人の皇子がいると「古事記」は記すが、ヒコヤイ皇子以外、他の四人にはすべて「ミミ」が付く(タギシミミ・キスミミ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミ)。このことを「蛮族・隼人の住む日向への天孫降臨や神武東征などもともとなかったが、王化に浴しようとしない彼らをてなづけるために、造作した。さらに古日向にあった投馬国の伝統的王統名を登場させることで、その造作をもっともらしく見せようとした」というような論法で否定する向きもあるが、それなら、日向から大和へ東征した先で新たに生まれたカムやイミミとカムヌナカワミミには、もうミミ名を外してしまうのが常識というものだろう。

 なぜ、そこまで日向の投馬国に義理立てする必要があるというのだろうか?そこまで造作せざるを得なかった何かが他にあったと考えるべきではないだろうか。それはもちろん日向・投馬国からの東征が史実としてあったということである。

 記・紀のうちとりわけ「日本書紀」は正式の漢文で書かれた「正史」であり、当然、当時の中国人にも堂々と示せる正式の国史なのだ。読んだ彼らはどう思うだろうか?彼ら中国人に対して嘘八百を並べ立てるという大デメリットを冒してまで、反抗する隼人をてなづける書き方をしたというのであろうか?どうもそれは無理な考えというものだろう。

 素直に、日向からの東征は史実だった、とどうして認めないのだろうか?戦前の皇国史観教育の反動であるのならば、客観性に欠けた歴史探求であると指摘したいし、また考古学的に見て南九州の当時(弥生時代後期〜古墳時代初期)の資料が余りに貧弱だから東征などあり得ない、という指摘には逆に「貧弱ということは、その頃に実際に東征、つまり人員も利器も相当数動員し、多数の船に積み込んで行ったからではないか。だから南九州の弥生時代から古墳時代初期の遺物が著しく少ないのだ」と反論できる。

 考古学にしろ、古文献学にしろ弱点は「遺物や文献という証拠がなければ、そこ、あるいはその時代に人はいなかった」というような極論に走りがちなことだ。指宿市の岩本遺跡や錦江町のホケノ頭遺跡では1万年前の土器が発見され、その当時人が暮らしていたことを今は誰も否定しないが、発掘される前にそんなことを言っても誰も信用せず「そんなところに人など住んでいるわけがない」と言われるのが落ちだったろう。だが人はそこに1万年前に確かに居たのだ(このことは縄文早期遺跡についてすべて当てはまる)。

 遺物が出ないから人は居なかった――ということの誤りであることは以上で分かると思う。といってもその論法だけを推し進めると今度は「空想・想像」的歴史論がはびこることになる。こうなるとそれ以上に悪くなるので、結局、歴史研究者は口をつぐむことになる。歴史研究者としてはそれはそれで立派な態度なのかもしれないが、余りに記・紀などの歴史書を敬遠するのは、一般人の歴史愛好家としては残念であり、もったいない話だと思うのである。少なくとも戦前の極端な皇国史観を離れた見方を導入して読み直す努力はしても良いだろう。

 現代の歴史学・歴史教育への批判はこのくらいにして本題に入ろう。


   「ミミ」名の付く人物をピックアップする

 
古事記、日本書紀に見る「ミミ」名人物は次のように11人がいる(ほかに肥前風土記から2人。都合13人)。


@ マサカツ・アレカツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミ (神代紀)

   これは人物というには当たらないかもしれない。
アマテラスオオミカミとスサノオノミコトとが「うけひ」をした  時に、アマテラスが身に着けていたミスマルノ珠などの玉類を物ざねとして生まれた五男神の長子がオシホ  ミミである。

   
この長男をアマテラスは地上(葦原中国=あしはらのなかつくに)に降ろして治めさせようとしたが、その頃  地上はまだ騒然としていた。そのため高天原から追放されたスサノオの先導によって国造りに成功したオオ  クニヌシに、国譲りをさせることになった。

   国譲りが済んでいよいよ葦原中国へ降りようかという時に、子が生まれた。古事記によるとアメノホアカリと  ホノニニギの二柱である。弟のニニギが天孫第一代として地上に降りるのだが、兄のホアカリはニギハヤヒ   であり、「ハヤヒビト」→「ハヤヒト」→「ハヤト」というように「隼人」の語源と考えたことは先述しているがこ   のニギハヤヒは三代後の「神武天皇」が大和入りした時に、ナガスネヒコを排除して神武の王位就任を助け  ている。

   私見の投馬国東征論によれば、南九州の投馬国王タギシミミこそが神武であり、ニギハヤヒもハヤトの祖  先として九州南部を本貫の地としている。ふたりの父であるマサカツ・アレカツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミ   が「ハヤヒ」「ミミ」という南九州固有の王名の一部を二つとも持っていることに気づく時、到底これと無関係と  は言えないからだ。

   現在でもオシホミミを正殿に祭っている数少ない神社のひとつに英彦山(ひこさん)神社がある。『延喜式』  の神名帳に豊前国田川郡三座として記されたうちの忍骨命神社がそれであるが、天孫降臨の舞台を肝心   の王城の地である大和の近辺ではなく、わざわざ辺境の南九州にしたうえ、その前代もやはり大和を遠く離  れた九州に祭られているということになり、それをもまた「日向からの東征を本物らしく見せる」ように仕組ん  だに過ぎないのであろうか。


A タギシミミ (神武記・神武紀・綏靖紀)

   神武紀によると、タギシミミは日向時代の神武天皇と日向の吾田のアイラツヒメとの間に生まれている。

   神武は45歳にして東征に出発した。このあと東征の航路、ナガスネヒコとの戦い、熊野への迂回そして大  和平定へと説話の場面は詳細に描かれるのだが、不思議なことにタギシミミはイナヒとミケイリヌ(ともに神武  の兄であり、タギシミミの伯父たち)が海中や常世へ隠れたあとに「天皇、独りタギシミミ命と軍をひきいて・・  ・」と出てくるだけなのだ。

   しかも大和平定後は、継母であるイスケヨリヒメに言い寄って犯そうとし、やがて継母の子であるカムヌナ   カワミミ皇子に殺されるというとんでもない人物として描かれてしまう。殺されるのは南九州生まれの「蛮族   の血を引くミミ皇子」でも、殺す方の大和生まれの洗練された皇子(カムヌナカワミミ)ならば「ミミ」名は避け   るというのが常道というものだろう。

  
 タギシミミは次の綏靖紀に

   「その庶兄(ままあに)タギシミミ、行年すでに長じ、久しく朝機を歴(へ)たり
      (注)行年=年嵩・年齢  朝機=朝のはたらき=政(まつりごと)

  とあるように、神武亡き後、しばらく王位に就いていたような書き方がなされている。私はここに注目する。タ  ギシミミは間違いなく王であったのだ。今しがた述べたように東征において事績のない描写で一回しか登場  していないのは、神武がタギシミミその人であったとすれば筋が通る。
   東征の主体もタギシミミなら、大和に入って初代の王位に就いたのもタギシミミと捉えるべきだろう



B キスミミ (神武記のみ)

   この人は古事記にしか登場しない。神武記には

   「(神武が)日向にいましし時、阿多の小橋の君の妹アイラヒメをめして生みませる子、タギシミミ命。次にキ    スミミ(岐須美美)命」 

   と記す。キスミミはこの一度だけで、その後の動向は杳として知れない。一度しか出てこないような人物の  実在は疑わしいという見方があるが、それだと古事記に登場する人物群のおそらく半数は非実在の透明人  間ということになろう。私は逆に一度でも出てきた以上、実在はしたとする。非実在とするのは、解釈が矛盾  を抱えて行き詰ってからでもいいと思う。

   タギシミミは「タギシ(船舵)ミミ(王)」であったから、キスミミはまずは「キス・ミミ」で「キス王」と解ける。次に  キスの解釈だが、倭語でキスというと魚の「きす(魚へんに喜ぶ)」くらいしか思い浮かばない。そこで捉え方  を変え、キスのスを「ツ」の転訛と考えてみる。そうすると「キの王」となり、これだと「木の王」「紀の王」つまり  「紀の国の王」として通用しそうである。だが、紀伊国なら古事記では例外なく「木国」が、書紀では「紀また  は紀伊」が使われており「岐」は使われていない。

   今度は使われている漢字にも目を向けてみる。単なる音価としての借用ではなく、漢字の意味その  も   のにも汲むべきものがあるのではないか。すると「岐」は倭訓で「くなど、ふなど」すなわち「分岐、港」の   ことであった。

   
そこで思い当たるのが、旧大隅国4郡のうち大隅郡に実在した「岐郷」であり、隣の姶羅郡にある「  岐刀郷」で、前者は肝属郡東串良町の太平洋岸(志布志湾)側に比定され、後者は鹿屋市の高    須港か浜田海岸あたりかとされており、いずれにしても海上交通上の要衝が当てられていること    に気づかされる。

   以上からキスミミ(岐須美美)とは、この古日向に実在した「岐=ふなど=要港」の王を指すのであ  ろう。タギシミミの弟と紹介されながら、その後まったく登場しないのは、東征には参加せず、本貫    の地つまり南九州投馬国の要港における海上交易の支配者としてそのまま留まったことを意味し    ていると思われるのである。

  
キスミミの後裔について、記紀には出てこないが、続日本紀の天平勝宝元(749)年8月条に

     「曾県主・岐直志自羽志、加祢保佐に叙位す・・・」

   という記事があり、この岐直(きのあたい)シジウシ、カネホサがその後裔である可能性は十分ある     だろう。



C ミシマノミゾクイミミ 
(神武記・紀)

   
日本書紀の神武紀では「三嶋溝クイ(木へんに蕨)耳」、古事記では「三嶋ミゾ(さんずいに皇)咋」とミミを  欠くが、ここでは書紀の方を取り上げる。

   三嶋は現在の大阪府摂津市から茨木市あたりを広く指す古地名で、茨木市にはこのミゾクイミミと娘のタマ  クシヒメ、それに神武妃となった孫のヒメタタライソスズヒメを祭る「溝咋神社」がある。

   ミゾクイはミゾ(溝)とクイ(咋)に分けられ、「溝(水路)を喰らう(掘る、浚う)」から「水路の工事をする」とい  う意味を表している。古地名の三嶋は、淀川沿いの低湿地で、水位が高いため、水田を拓いていくためには  排水が肝要で、これをうまくやらないと湿害に悩まされ、良い田にはならない。三嶋ミゾクイとはそのような難  事業を手がけているこの地域の支配者であろう。

   この人物の娘タマクシヒメは非常に神がかり的な能力があったようで、事代主との聖婚の相手となり、ヒメ  タタライソスズヒメ(注釈本は「五十鈴」を「イスズ」と読み、「十」を無視するが、私は「イソスズ」と読む。以下   同じ)を生んでいる。このイソスズヒメは神武妃となってカムヤイミミ、カムヌナカワミミを生むことになる。


D カムヤイミミ (神武記・紀 綏靖紀) 

   ミシマノミゾクイミミの孫娘と神武天皇(タギシミミ)との間に生まれた長男がカムヤイミミである。次  子は  カムヌナカワミミで、タギシミミの後継者となり、第一大和王権の二代目になった。

   ここで考えなければいけないのは、記紀の記述どおり幼名ワカミケヌであった神武天皇が現地大和で現地  に近い三嶋出身の妃に生ませた子になぜ揃いもそろって「ミミ」名を付けたかということである。ふたりともい  ずれは大和王権の後継者になる可能性は高いのだから、父の幼名か、即位の地である大和地方にちなん  だ名を付けそうなものだろう。

   ところがここで「神武=タギシミミ」という視点を導入してみると、たちどころに整合性を得るのだ。

   カムヤイミミは弟に比べるとやや惰弱だったようで、皇位を譲っている。その苗裔としては日本書紀に「多   臣(おおのおみ)」だけを挙げるのみだが、古事記では他に十八姓を書き連ねている。

   その十八姓のうち4姓が九州島のもので、「火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家連」が挙げられて  いるが、筑紫三家連以外はすべて君姓の土着的豪族であり、九州島における「ミミ」系すなわち投馬国人の  盛行の証しともなっている。


E カムヌナカワミミ (神武記・神武紀 綏靖記・綏靖紀 安寧紀)

    神武ことタギシミミのあとを継いで、投馬国王統の第二代目についたのが、カムヌナカワミミである。
   書紀では、神武が日向に居るときに生まれたタギシミミという腹違いの兄を「久しく朝機(まつりごと)を歴た   り」(綏靖紀)と記して王位に就いたことをほのめかしながら、「禍心(まがごころ)」があるという理由で弟の   カムヌナカワミミに射殺されるというストーリーが展開されるのだが、腹違いにせよ兄殺しである。

  
  聖王であるべきはずの大和王権の最高指導者がこともあろうに「王位継承権」のある兄を葬って後継者   となる。極めて不名誉な継承をしたことになってしまった。ここらあたりは編纂の時点で書き改めてもよさそ   うなものである。それをしなかった理由として挙げられるのは「化外の地・蛮族隼人の南九州からやって来   たタギシミミを早く葬り去ること」だろう。そのために仕組んだのが「内紛」による殺人事件だったのだ。こうす   れば他の氏族の記録に載ることなくタギシミミ王権を捨て去ったと示すことが可能になる。

    当時の編纂者側はそのように粉飾することで、第一次大和王権の出自は南九州であったが、東征の当   事者自身が不徳であった、すなわち南九州的な野生に近いような王であったため葬り去られた、という事   を強調し、大和では南九州の残滓は断ち切られたのだということを示そうとしたのだろう。

   しかし、それでも「初代の王は南九州からやって来た」といっていること何ら変わりはない。


F イキシミミ (安寧紀 孝昭紀)
 
  
    イキシミミ(息石耳)は古事記には登場しないが、日本書紀の安寧紀によると第三代安寧天皇の第一子   として生まれている。次の第四代の皇位には、弟のオオヤマトヒコスキトモが就いたが、このヒコスキトモ(   威徳天皇)の妃アメトヨツヒメはイキシミミの娘である。

    さてイキシミミの「息」だが、私はこれを「壱岐」に当てたいと思う。古事記には「息」を名に持つスーパース   ターがいる。それは「息長帯媛(オキナガタラシヒメ)」すなわち神功皇后である(書紀では「気長足姫」だが   、読みは同じ)。ヒメは近江の豪族・息長氏の苗裔ということになっているが、この息長氏にしてからが「壱   岐長氏」、つまり壱岐国の長(王)の出身ではないかという疑いを持つ。

    神功紀を読むと、オキナガタラシヒメの九州北部および長門(山口県西部)での活動の大きさと濃密さが    強く印象付けられるが、ヒメが近江出身であるとすると初めて行った遠い九州であれほどの活躍が可能だ   ろうか、という疑念を抱いてしまう。むしろ始めからヒメを九州北部に縁のある地だとしたほうが理解しやす   い。その地は壱岐だ、とまだ断定はできないが、さらに精査を経て結論を出したいと思っている。


G スエツミミ (祟神記・紀)

    祟神紀の7年に、国内がなかなか治まらないのを心配した天皇が神慮を問うたところ、夢に大物主神が   現れ「わが子オオタタネコにわれを祭らせよ」と教えた。そこでオオタタネコを茅渟(ちぬ)県の陶邑(すえむ   ら)に探し当て、連れてきて祭らせたという記事がある。

    スエツミミは陶邑(須恵村)すなわち大阪府の和泉地方にあったとされる須恵器の一大産地のミミ(主)で   、娘のイクタマヨリヒメに大物主神が通じて生まれたのがオオタタネコである。オオタタネコはオオタ・タ・ネ    コと分けて「大田の根子」であり「大規模な田を所有する土豪」と解釈され、これはオオナモチ(大名持、大   穴持)と同義であり、結局のところオオクニヌシと通底しているわけで、大物主神を祭るには最適の人物と    いってよい。

    このオオタタネコに至るまでの三代の系図を示すと、ミシマミゾクイミミから始まるの三代とそっくりなことに   気づく。

      スエツミミ――――イクタマヨリヒメ
                      ‖――――――オオタタネコ
                   大物主神(出雲系)

     ミシマミゾクイミミ―――タマクシヒメ
                       ‖―――――ヒメタタライソスズヨリヒメ
                    事代主神(出雲系)


    この系図の相似形から言えることは、ミミ系(投馬国系)種族は出雲系種族と婚姻関係を結んでいるとい   うことである。しかもそのどちらも「聖婚」の形をとっている。同族であることを隠すためにわざわざ聖婚とい   う奇妙な形の結びつきに描いたのではないかと思われる。

     (投馬国はもとより九州島にあったのが、出雲族も一般に言われる現在の島根県に居たのではなく、実は      北部九州こそが本拠地だったというのが私説で、南九州に盛行した「市来式土器人=縄文後期〜晩      期の航海民」が共通の祖先だろうと考えている。)


H フトミミ (垂仁紀)

    フトミミ(太耳)は垂仁紀3年3月の条の長文の注記に「但馬出嶋の人・太耳」とまず一回記され、今度は   同紀88年7月になって本文中に別名の「マエツミミ(前津耳)」として再び登場する。しかし後の方では本人   自身のことではなく娘マタノオの父としての登場である。

    この形はGで述べたスエツミミ、ミシマミゾクイミミと同じだが、大きく違うのが娘の婚姻の相手が出雲族    ではなくアメノヒホコという朝鮮半島からの渡来人であるということだ。

    半島からの渡来人の初見は祟神紀65年で、任那国からソナカシチが朝貢してきたという記事で、次の    垂仁紀ではそのソナカシチが帰ったという記事の注記には、前代つまり祟神朝の時にツヌガアラシトという   大加羅国の王子が渡来したことと、その経緯を詳しく載せている。これらの記録が正しければソナカシチ(    任那国・朝貢)、ツヌガアラシト(大加羅国・帰化)、アメノヒホコ(新羅国・移住)という順に、祟神朝の末期    から垂仁朝の初頭にかけて、それこそバタバタと到来したことになる。

    フトミミは「太耳」と書くが、この太いは「大きい」の意味だろうから、フトミミとは「大王」のことである。アメ   ノヒホコを半島から案内した手段は当然ながら船(船団)で、したがってフトミミは相当な「航海王」というこ   とになる。おそらく九州北岸に拠点を持ち、半島との交易を通じて新羅、その頃はまだ辰韓と言ったが、そ   この王子ヒホコの知遇を得たのだろう。
 
    ヒホコの移住の理由は語られていないが、上の垂仁紀3年条の注記によれば弟の王子チコに国政をゆ    だねてから渡来したという。
    それをフトミミが受け入れ、船団を組んで渡来し、諸国遍歴の後に最終の地である但馬の出石に到った    わけである。フトミミはそこで自分の娘マタノオを娶わせている。

    このような渡来つまり移住が単なる移住なのかどうなのかは、解釈にかかってくるが、私見では一種の    王権の移動を垣間見せているのではないかと思う。私は南九州投馬国の東征の結果生まれた大和王権   を第一次大和王権とするが、その大和王権を打ち破った第二次大和王権の主は祟神天皇だと考えている   。そして祟神天皇の本貫地は半島の辰韓であるとしているので、ヒホコはまさにそれとダブってくるのだ。    直ちにヒホコ=祟神とはいえないが、少なくとも祟神天皇が半島由来の王であることをほのめかす挿話で   はないかと思う。


I トヨミミ (神功紀)

    神功皇后紀の摂政前記の中に一箇所だけ出てくるのがトヨミミ(豊耳)で、紀直(きのあたい)の祖となっ   ている。

    紀直といえば、景行紀3年に武内宿禰の父として「紀直の遠祖ウジヒコ」がまず登場する。ウジヒコは孝    元記によれば「ウズヒコ」でなくてはならず、ウズヒコ(珍彦)は神武東征船団の先導者(パイロット)として    活躍し、その功績によって倭直になった人物で、もし景行紀の記述が正しいとすると、ウズヒコは倭直であ   ると同時に紀直の祖先でもあることになる。したがってトヨミミはウズヒコの子孫であり、武内宿禰の後裔で   もあることになる。
     
    遠祖のウズヒコが航海民であることは明らかであり、そうなるとその子とされる武内宿禰も記紀の大臣・    内臣という地位からは想像しにくいにしても、航海民の血を引く人物であったことになる。ひとつだけ航海民   らしい働きをした記述が「(武内宿禰が)皇子(ホムタワケ)を懐きて、横(よこし)まに南海より出でて、紀伊   水門に泊まらしめ・・・」(神功皇后・摂政前紀2年)で、武内は北九州から南九州を回り、黒潮ルートで紀伊   に行っているのである。


J オオミミ・タリミミ (肥前風土記)

    記紀ではないが、景行天皇の時代として、五島列島の値嘉嶋(ちかのしま)に居たという二人のミミ系、    すなわち投馬国航海族の族長らしき人物を挙げておく。『肥前風土記』の松浦郡の項、値嘉嶋の記事を掲   げてみよう。

          値嘉嶋 [郡の西南の海中にあり。とぶ火家、三所あり]

         昔、景行天皇の巡行したまいしとき、志式嶋の行宮にましまして西の海を御覧ずるに
        (中略)二つの嶋は嶋ごとに人あり。第一の嶋の名は小近(おちか)にして、土蜘蛛
        オオミミ(大耳)居り。第二の嶋の名は大近(おおちか)にして、土蜘蛛タリミミ(垂耳)
        居り。自余の嶋は、みな人あらず。
         ここに(安曇連)百足、オオミミ等を獲て奏聞すれば、天皇、詔してまさに誅殺せしめん
        とし給いし時に、オオミミ等、叩頭して陳奏しつらく「オオミミらが罪は実に極刑に当たれり。
       誅殺さるるとも罪をあがなうに足らず。・・・(中略)・・・」

         ここに天皇、恩を垂れて赦したまい、さらにのりたまわく
         「この嶋は遠けれども、なお近きがごとく見ゆ。近嶋と言うべし」とのりたまいき。
        よりて値嘉嶋と言う。
        (中略)かの白水郎は馬牛に富めり。或は百余り、或は八十余り。
        (中略)この嶋の白水郎は、容貌隼人に似たり。つねに騎射するを好む。その言語は
            俗人に異なれり。


    この記事の最後の段は、隼人を論じる際には、必ず取り上げられるもので、おそらく肥前風土記の中でも   最も著名な箇所ではないかと思われる。だが、一見して隼人=南方系の海人族説の有力な証拠と思われ   るこの一文も同じ段に「騎射を好む」があったり、すぐ上の「馬牛に富めり」があるために「海人族説」が揺ら   いでしまい、結果として「指摘するに留める」くらいな論法で終始してしまう。

    ところが私見では (1)オオミミもタリミミもミミ(投馬国)系航海族であり (2)両者とも朝鮮半島と南九州   を往来する生業に従事していたため、大陸の騎馬民族の風習を見聞する機会があった のである。
    それゆえ馬や牛を輸入して飼育し、かつ騎馬民族特有の騎射の戦法にも遭遇していたため、それを取り   入れたと考えてよい。このような私見によれば、肥前風土記のこの箇所は難なく整合性を持って解釈でき   る。

    ただ、彼らが「われらが罪は極刑に値し、殺されてもなお足らない」と言ったと描写してあるのは、時代は   ずっと下るが、唐・新羅連合軍と戦った「白村江」の海戦で、大敗を喫したことが反映されているのかも知    れない。あれによって大和王権の朝鮮半島における権益は完全に絶たれたからだ。たしかに水軍として参   戦した航海民の敗戦責任はまぬかれまい。また、痛手は相当なものだっただろう。



K クガミミのミカサ (祟神記)

    古事記の祟神記に登場するこの人物は、上の人物群のように名の最後にミミを付けていないので外して   おいたが、「クガミミ」だけでも取り上げてみたい。

    クガミミとは「クガの王」で、「クガ」とは「久我」(現在の京都市北部)で、実は南九州の曽の山に天下ったカモタケツヌミが、大   和の葛城地方を経て最終的に山城のこの「久我国」に行き着いているのである。したがってミカサという    名のこの久我王は、カモタケツヌミの後裔に他ならない。

    祟神記によるとミカサは丹波国で殺されているのだが、カモタケツヌミ一族は第一大和王権を樹立した南   九州投馬国の出身でもあることになり、第二大和王権を樹立した祟神王朝とは相容れない存在であったこ   とからすれば止むを得まい。だが、山城北部の久我からはるか西の丹波まで逃げてきたのは、丹波が始    祖カモタケツヌミの王妃であるイカコヤヒメの出身地であるからと思われ、これもミカサがカモタケツヌミの子   孫であることの傍証になろう。


 以上、12人の投馬国系人物を抽出して論じてきたが、第一大和王権を樹立したタギシミミ(船舵王)を筆頭に南九州投馬国
(狗奴国とは同族で、両国併せて古事記国生みで言う「建日別(たけひわけ)」=熊曽国)の人物がいかに航海族的であったかが判然としたと思う。とにかく史前史に「海人族=鴨族=舵子の島=鹿児島」という朝鮮半島にも行き来する南九州の航海族の視点を取り入れなければ、歴史の謎と深みは永遠に解き明かせないだろう。

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投馬国王統名「ミミ」を持つ人物群

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