用明紀・崇峻紀を読む

第31代用明天皇および第32代崇峻天皇は日本書紀第21巻に記載されている。

   用明紀>

 父母     父・・・欽明天皇(アメクニオシハラキヒロニワ)
         母・・・キタシヒメ(蘇我稲目の娘)
 
 
和風諡号  橘豊日(たちばなのとよひ)

  
      池辺雙槻宮(大和の磐余)

 
皇后     穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒト皇女)

 
墳墓     磐余池上陵(いわれのいけのうえのみささぎ)
         古事記:最初は石寸掖上陵
(いわれのわきがみのみささぎ)だったが、科長中陵に改葬。

 
<皇子・皇女> (一覧表)

皇后・妃名 出自 皇子・皇女名
アナホベハシヒト皇女 欽明天皇皇女 厩戸皇子(聖徳太子)・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子
  イシキナ  蘇我稲目の娘  田目皇子
  ヒロコ 葛城直磐村の娘  麻呂子皇子・スカテヒメ


  < 年代順の事績 >

事      績 備  考
即位前紀  大臣に蘇我馬子宿禰、大連に物部守屋連を任用。
元年
(586年)
・正月、穴穂部間人皇女を立てて皇后とする。4男を生む。長男が厩戸皇子。推古天皇のとき東宮(皇太子)となった。
・5月、穴穂部皇子がトヨミケカシキヤヒメを犯そうとしたが、三輪君逆(さかし)が防いだ。しかし逆(さかし)は穴穂部の遣わした物部守屋の手で殺された。
厩戸皇子は別名豊聡耳・法大王(のりのおおきみ)。
穴穂部皇子は次の崇峻天皇の同母兄。
2年
(587年)
・4月、天皇が「三宝(仏法)に帰依したい」と詔する。群臣のうち守屋大連と中臣勝海連は「国神に背くことは出来ない」と反対し、蘇我馬子大臣は「詔に従い、臣下として協力すべき」と賛成を表明。
 両者の反目は深まる。
 鞍作部の多須奈(たすな)が、病の重い天皇のために丈六の仏像と寺を建立した。
・7月、天皇を磐余池上陵に埋葬する。
・三宝は「仏宝・法宝・僧宝」のことで広く仏法を意味する。



    <崇峻紀>

  
父母      父・・・欽明天皇
           母・・・オアネノキミ(小姉君=蘇我稲目の娘キタシヒメの妹)

 
和風諡号   泊瀬部(はつせべ)

   
      倉梯宮

  
皇后      なし

 
皇子・皇女  妃にオテコ(小手子=大伴糠手連の娘)があり
           蜂子皇子とニシキヨ皇女を生んでいる。


  
墳墓       倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
             古事記:倉椅岡陵


    < 年代順の事績 >

事      績 備  考
即位前紀 ・6月、蘇我馬子が穴穂部皇子を滅ぼす。
・7月、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼそうとはかり、泊瀬部皇子・厩戸皇子をはじめ群臣等と大軍で、守屋の本拠地・志紀郡の渋川にある守屋の本宅を攻めた。だが、しばらく反撃が続いたので厩戸皇子は四天王を敬拝して「戦勝したら四天王のために寺を建立する」という祈願を行なった。すると迹見首赤檮(とみのおびといちい)という者が現れて、屋敷の榎に登って矢を放っていた守屋を射落とすという大殊勲を上げた。
 これをきっかけに物部氏は敗れ、多くの者が逃れたり、名を変えたりして落ち延びていった。
 ただ、守屋の家臣・捕鳥部萬(ととりべのよろず)だけは、百人と共に難波の別宅を守っていたが、守屋が敗れたと聞いて逃走し、追っ手を幾人も殺して逃げようとしたが、ついに力尽き、自害して果てた。河内国司がその状を朝廷に告げたところ朝廷からは「八段に斬り、八国に散らして串刺しにせよ」との符文。ところが、萬が飼っていた白い犬が萬の首をくわえて古塚に置き、自分はその傍らに侍って守り、ついに餓死したのであった。このことが再び朝廷に齎され、朝廷では不憫に思い、萬の一族に萬とその白い犬との墓を造ることを許した。
・8月、天皇即位。蘇我馬子は大臣に就任。倉梯に宮を造立する。
志紀郡…現在の大阪府八尾市。難波から大和への大道が通っていた。物部氏の本拠地で物部氏祖「ニギハヤヒ」を祭る渋川神社がある。・迹見首赤檮はこの功により一万頃(ケイ)の田を与えられた。頃(ケイ)は百畝で、約1町であるから1万町(1万ヘクタール)。
元年
(588年)
・3月、大伴糠手(ぬかて)連の娘・小手子を妃に迎える。
・この年、百済から仏舎利や学僧、寺院建築の匠などが献上される。また司馬達等の娘・善信尼などを百済に留学させる。
善信尼の幼名は「嶋(しま)」。日本最初の女子留学生である。
2年
(589年)
・7月、東山道・東海道・北陸道へそれぞれ使者を派遣して諸国の国境等を調べさせる。
3年
(590年)
・3月、善信尼ら百済より帰国。桜井寺に住む。10月になって山から寺の建築材を切り出す。
・この年、大伴狭手彦の娘・善徳はじめ十数名が出家した。司馬達等の息子の多須奈(たすな)もこの時、出家した。
多須奈の出家してからの名は徳斎法師。
4年
(591年)
・4月、敏達天皇を磯長御陵に埋葬する。
・8月、「任那再興の詔」を出す。
・11月、紀男麻呂、巨勢比良夫らを将軍として総勢2万余を筑紫に行かせる。
5年
(592年)
・10月、天皇、献上の猪を指して「猪の頸を切るように、嫌な人物を斬りたい」と詔す。蘇我馬子はこれを聞きつけ、自分が嫌がられていることを覚り、天皇の暗殺をもくろむ。
・11月、東国の調(みつぎ)を偽り、東漢直駒に天皇を暗殺させる。即日、天皇を倉梯岡陵に埋葬する。
 筑紫に駅使(はゆまづかい)を送り、「内紛があったが外事のことに怠りなく務めよ」と伝令する。
 東漢直駒が蘇我河上娘(かわかみのいらつめ)を犯したので馬子によって殺される。

(注)
物部氏の離散・・・鹿児島県鹿屋市串良町の串良川中流・下中地区には物部守屋が逃れて来て隠匿していたという伝承がある。その後裔が次第に串良川に沿って南下しつつ、十五社神社、月読神社、事代主神社などを祭り、最後に肝属郡肝付町(旧高山町)の四十九所神社の神官として幕末維新を迎えたと言われている。最後の神官時代の苗字を「守屋氏」というのも解せる話である(現在も守屋氏は残っている)。
 また、驚くことに「捕鳥部」を思わせる「鳥取」姓もあり、やはり落人伝承を伝えているという。
 物部氏の離散については東北などにも伝承があり、それなりの広がりがあって単なる御伽噺の域を超えていると思うが、物部守屋その人の伝承となると少ないだろう。もともと物部氏は北部九州に根拠地があったようなので、南九州とのつながりもそこを経由してあったのだろう。
 なお、串良町の隣の大崎町を流れる田原川の上流・原田地区(ここは大崎町ではなく志布志市)の原田小学校の裏手に「森神社」があり、祭神は「用明天皇」である。こんな所に祭られる筋合いのない祭神だが、物部氏の落人がここに隠居したからなのか、とも思わせる不可解な神社である。
 もっとも用明天皇はその2年条で「仏法に帰依したい」と詔しているから、神道派の物部氏とは相容れない天皇なのであるはずで、そういう天皇を祭ることは物部氏の立場から言って有り得ないだろう。
 そのあたりが余計に謎である。しかし守屋が大連として仕えた天皇のひとりがまさに用明天皇であり、その天皇が亡くなると同時に崇仏派が体制を掌握しただけで、天皇に仕えるという点では天皇が崇仏だろうがなかろうが、物部氏にとってはどうでもよかったのかも知れない。しかし、崇仏の天皇をまさしく「森神社」という神道で祭っているところに物部氏の矜持が見出せるともいえよう。


     用明紀・崇峻紀の項終わり                     目次へ戻る