隋書(東夷伝・第81巻・倭国)を読む

隋書は隋と唐に生きた魏徴(ギチョウ=580〜643年)が著した正史で、ほぼ同時代のことを記したという点では『魏志倭人伝』と同格と言える貴重な書である。成立は唐王朝第2代皇帝・太宗の貞観10(636)年。
 
 東夷伝には倭人に関する国として「流求国(琉球国)」が同格の国として挙げられ、詳細が記されているが、それは「倭国」に付随するものとして、最後に検討することにしたい。


   < 倭 国 

1 序説(倭国概説)

  倭国は百済・新羅の東南、水陸3000里に所在し、大海の中、山島に拠って住んでいる。魏の時に訳通していた30余国は、みなそれぞれ自称の王がいた。夷人なので、里数を知らず、(行程を)ただ、日の数で計るばかりである。その国境(に達するに)は東西に5ヶ月、南北で3ヶ月かかり、それぞれ海に至る。その地は東が高く、西は低い。

 「邪靡堆」に都しているが、これは魏志で言う「邪馬臺」のことである。

 
 (以下、「古伝に云う」として、魏志倭人伝からの記事を援用しているが、省略する)

(注)
30余国・・・魏と国交があったのが30余国であり、このほとんどは邪馬台国(女王国)傘下の「奴国」以下の九州北部、主に今日の佐賀県・長崎県に所在する国々で、その時代に日本列島全体が30余国にまとまっていたということではない。あくまで「魏に朝貢していた国々」であり、九州島をはじめ列島には他に多くの国があった。

夷人なので里数を知らず・・・野蛮人なのでまだ距離の単位を使っておらず、行程は「日数」で表していると言っている。これは重要な指摘で、はるかに昔の邪馬台国時代も、もちろん距離単位である「〜里」は使わずに「日数」で中国人使者に答えていたことになる。それを中国の使者が無理やり「里数」に変換している。
 その証拠が半島から九州島北岸への行程(水運)で、狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐、壱岐から末盧国の3行程をそれぞれの距離(〜里)は全く違うのに、すべて「千里」で表していることだ。倭の水人は三つの海峡をすべて日のあるうちに(つまり一日で)渡ってしまわなければならないので、それぞれの海峡の距離の違いとは関係なく「一日で渡る」のだが、それを中国人側は「同じ距離」と換算しすべて「千里」と計上したわけである。
 魏志倭人伝を論じる人々は多くこれを無視し、やれ「周代の一里は〜m」「秦漢時代の一里は〜m」「魏の時代は〜m」とやっているが、この隋書の記述をどう考えているのだろうか? こう指摘するとすぐ「倭人は確かに里数は計れないが、中国の使者は測れたのだろう」と言うが、対馬海峡はじめ三つの海峡をいったいどう測って「千里」という同値を計上したのか聞きたいものだ。そんなことは無理に決まっているではないか。
 
「邪靡堆」・・・「やまたい」と読むほかはない。一世を風靡した「古田史学」では『魏志』の現存最古の印字本には「邪馬臺国」ではなく「邪馬壱国」とあるから、「邪馬台国はなかった」とするが、この隋書の表現を見る限りやはり「ヤマタイ」であり、しかも「邪馬臺」と「」を使っている。古田氏のいう現存最古の印字本などよりはるかに古い、この隋書の著者・魏徴の時代の写本では紛れもなく「邪馬臺国」と記されていたに違いない。第一、『魏志倭人伝』以外のどの正史にも「ヤマタイ国」はすべて「邪馬臺国」とされているのである。古田氏の指摘する最古の印字本のほうが間違っていた、もしくはわざと「」をさけて「壱」を使用していたかのどちらかだろう。

東西に5ヶ月、南北に3ヶ月・・・隋の時代には倭国の範疇は九州島をはるかに越えて、関東甲信越地方にまで広がったようである。それがこの「(徒歩で)東西五月行、南北三月行」であろう。


2 隋との通交における倭国(時代順)

隋の
 年号
(西暦)
    倭 国 の 王 制   風土・風俗  備 考
開皇
  20年

 600年
倭王の姓は「阿毎(アマ)」、字は「多利思比弧
(タリシヒコ)」。号して「阿輩雉彌(アベギミ)」。妻
は「雉彌(キミ)」といい、後宮には6、7百人の女
がいる。また太子を「利歌彌多弗利(リカミタフリ)
という。
 この年、遣使して来た。使者は『倭王は天を兄、
日を弟とし、朝未明に政庁に出て、お座りになり、
日の出とともに、後は弟の日に任せよう―とおっ
しゃって政務をおやめになります。』と述べた。
 官に12等があり、第一を大徳、第二を小徳など
と名付けている。また「軍尼(クニ)」というのが12
0人いるが、中国の牧宰のようである。さらに80戸
ごとに「伊尼翼(イニキ)」を置いているが、これは
里長に当たる。
 (中略)
 隋の時代になって、王制(官制)に冠を採用した。
 ・・・(略)・・・。弓・矢・刀・矛・弩・斧などがあり、
皮に漆を塗って甲冑としている。矢は骨製である。
兵はいるが、戦いに出ることは無い。
 その王、朝会の際には、必ず儀仗を整え、国楽
を奏でる。戸数は10万ばかりである。
殺人・強盗・姦淫があれば
犯したものは死刑。ほかは
罪の軽重により、流罪にし
たり鞭打ちに処したりする。
 人はすこぶるおとなしく、
争い事や盗賊は少ない。
 男女多くが黥面文身し、
水に潜って魚をとらえる。
 文字は無く、百済から仏
教が伝来して初めて文字
を持った。
 (中略)
 死者を埋葬するのに棺槨
に入れる。妻子や兄弟は白
布で喪服を作って着用する。
 埋葬には屍を船に乗せ陸
地を曳くか、小さな御輿に載
せて行く。
 「阿蘇山」がある。
 如意宝珠がある。
 新羅も百済も、倭を大国で
珍品の多い国として敬仰して
いる。故に常に往来がある。
日本書紀では推古天皇8年に当たる。8年の記事の内容は次の通り。
 
・この年、境部臣と穂積臣とを
新羅に派遣し、任那を救わせた。新羅は「多田羅・素奈良・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅」の6城を解放した。
 新羅は降伏文書を差し出したが、倭軍が引き上げると、また任那を襲った。
大業3年

 607年
 
その王「多利思比弧(タラシヒコ)」が朝貢した。
その国書に『日出ずる処の天子、書を日没する処
の天子に致す。恙なしや』などとあったので、帝は
『無礼である』と悦ばず、それ以上聴こうとしなかっ
た。
 
 
推古15年に当たる。

・秋7月、大礼
小野臣妹子大唐に遣わす
。鞍作福利を通事とする。
大業4年

 608年
翌年(大業4=608年)に、文林郎の裴清を遣わ
した。百済に渡り、竹島に至り、南にタンラ国を望み
ながら、都斯麻国を経てはるか大海中に在り。また東へ壱岐国へ至る。また竹斯国に至る。また東へ秦王国に至る。その人華夏に於けると同じ。夷州といいながら、疑ってもよく明らかになしえない。
 それからまた十余国を経て、海岸に到達した。竹
斯国より東はすべて倭国に属している。
 倭王は小徳「阿輩台」以下数百人を遣わし、儀仗の礼で出迎えた。10日ほど後、今度は大礼「歌多比」の騎馬隊を遣わし、都へ案内した。
 倭王はたいそう喜び『大隋国は礼儀の国と聞いている。・・(中略)。願わくば大国維新の化を聞きたいものだ』と裴清に言った。
 裴清いわく『ですから、徳高き皇帝の使いとして
参ったのです。皇帝のお言葉を伝えます』と。
 朝命が済んだ後、裴清へ答礼の宴が催され、やがて、倭国の使者とともに裴清は帰任した。 
 華夏(中国)にそっくりの
「秦王国」なる国がある。
 祭事などの時、儀仗を設け
「鼓角(こかく)」を鳴らして出迎える。
推古16年に当たる。

・夏4月、小野臣妹子、大唐より帰る。唐、妹子を名付けて「蘇因高」という。妹子は皇帝の返書を百済人に強奪された、と言う。
 飾り船30艘で難波の津に出迎える。

・秋8月、使者の一行12人は都に入る。
 
・9月11日、裴世清ら帰る。小野臣妹子を再度使者に立て送らせる。


(注)

@<開皇20年=600年の記事>
・・・当時の隋皇帝は文帝(初代:在位581〜604)

阿毎・・・「アマ」と読むか「アメ」と読むかのどちらかだが、号の「阿輩雉彌」を「アメギミ」と読むのがふさわしいので、「アマ」と読んでおく。いずれに読んでも「天」を表現していることは間違いない。

・多利思比弧・・・「タリシヒコ」より「タラシヒコ」が正当な倭語であろう。記紀で景行天皇を「オオタラシヒコ」、成務天皇を「ワカタラシヒコ」などと読む例がある。「タラス」(垂らす・足らす)「ヒコ」(王者)のことである。

・阿輩雉彌・・・直音で「アベギミ」だが、王の号であるから「アメギミ」すなわち「天君」の意味だろう。『魏志韓伝』の馬韓条に、<馬韓では村に別邑があり、大木を神木のように祭っている。それを主宰する人物を「天君」と呼んでいる>との記事があるが、倭国が百済とは同盟関係にあることからしてこの「天君」の制度、すなわち別邑で一般人とは交わらずに神事に仕える神官のような制度を、倭国でも持っていた。そしてその最高神官こそが倭王その人であったということ他ならない。

・利歌彌多弗利・・・「リカミタフリ」では倭語にはならない。一般学説のように「利」は「和」の誤記で「和歌彌多弗利」と変えて「ワカミタフリ」だろう。「ワカ」は「若い」の「ワカ」に当てられる。
 ただし「ミタフリ」に当てられるような倭語は見出せない。

・この年、遣使・・・日本書紀で西暦600年は推古8年に該当するが、推古紀の記事にこの年の遣使は見えない。隋の正史に載せてあるのだから、これを捏造とは考えられず、日本書紀が故意に省いたとしてよい。なにしろこの年の記事からは、倭王は男性であり(「タラシヒコ」)、妻(「キミ」)が居て侍女6、700人もいる後宮さえあると言うのだ。女帝推古(在位593〜628年)では話が合わないのである。
 ここから、<そもそもこの遣使は大和の王朝からではなく、九州の王朝からのものである>という古田学説が登場することになる。確かに、この年の記事として描かれている「黥面文身」して海にもぐって魚を捕る風俗や「戸数は10万戸ばかり」という点、また多くの山々の中でも「阿蘇山」だけが取り上げられている点でも、九州王朝が描写されているのだと考えたいところである。
 ただ推古女帝が遣使しても、女帝であることを伏せ、男帝であるかのようにして執行した可能性が無いとは言い切れない。また、8年後に隋から使者の裴清はその行路からして大和方面にいたり、実際に倭王に面会しているのは動かせない事実と思われるが、その際にも推古女帝は出さずに、聖徳太子のような高位者が天皇に成りすまして面会したと考えてもよい。
 
・任那の6城・・・任那は西暦562年に滅んだとされる。したがってこの任那は「伽耶国」のことだろう。『三国遺事』の中の「賀洛国記」によると、<最後の仇衝王が国を去ってから新羅30代文武王の龍朔元年(661)まで60年間>とあり、661年から60年前の600年の頃には、任那の後継である伽耶国はまだ命脈を保っていたようである。
 推古紀8年条にある半島出兵記事は、それに対応するものであろう。私見ではこの出兵は大和王権からのものではなく、九州王権のものだと考えるのだが・・・。


A<大業3年=607年の記事>・・・この時の隋皇帝は煬帝(第2代:在位604〜618)

・日出る処の天子・・・余りにも有名な「対等外交国書」の一節であるが、この書を読んだ煬帝は「何という礼儀知らずの野蛮人だ」と思い、読み終えないうちに、近侍の鴻盧卿(外務卿)に向かい「蛮夷の書なのに無礼千万である。もう相手にするな」と言い放った、とある。しかし書の内容は他にもあり、数十人の学問僧の留学については認められたし、翌年、返書を携えた使者を送っている。

・小野臣妹子の遣使・・・小野妹子の姓の後ろには「臣」があるのが正式名である。


B<大業4年=608年の記事>・・・同上。

・裴清・・・書紀では「裴世清」と表記されるが、誤記であろう。

・都斯麻国・・・「対馬(つしま)」のこと。「都」を「ツ」と読んでいることに注意。私見では『魏志倭人伝』の「伊都国」は「イト国」(糸島半島)ではなく、この例のように「都」を「ツ」と読んで、「イツ国」と考えている。「イツ」とは「厳」の義で「武力に秀でた」の意味と捉えるのである。(佐賀平野を中心とした国家であったが、「大倭」に敗れて「出雲(イツマ)」へ追いやられたと見る)

・秦王国・・・文字通り「秦王朝の日本版」と見たい。半島に流入してきた秦王朝の一族(残党)が、さらに時を経て九州島に渡り(亡命?)、王国を築いていたのだ。後世の豊前地方がこれに当たると思われる。「秦王国」を「シンノウ国→スオウ国」として「周防国」ではないかと考える者も多いが、周防国は九州島から船に乗り換えなければ到達できず、この記事からは採用することができない。

・阿輩台・歌多毘・・・「阿輩台」は「あはた」で「粟田」、「歌多毘」は「かたび」だろうが不明。この年に推古紀に登場する臣下としての倭人は「小野妹子・難波吉士雄成・中臣宮地烏麻呂・大河内直糠手・船史王平・額田部連比羅夫・阿倍鳥臣・物部依網連抱・大伴クイ連」であり、どれも該当しない。該当しない理由は、この二人は大和の者ではなく、九州の者であるから、当然、大和王権中心の書紀の記事には載らない――との考えが有力である。

・倭国の使者・・・書紀では「小野臣妹子」である。さらに推古紀では隋の煬帝からの国書を披露して、その中に登場する使者「蘇因高」を小野妹子だとしている。しかしそうだとすると、なぜ隋書には「使者・蘇因高」と書かれていないのか疑問が湧く。同一人物が2回も朝貢使にやって来て、しかも中国名すら与えられているというのに、その名が書かれず仕舞いというのはちょっと解せない。
 『隋書・流求国伝』によれば、このときの使者に流求国人から捕獲した「布甲(フコウ=布製の鎧)」を見せたところ、使者は「それは夷邪久(いやく)国の人間が使用している物だ」と述べたのだが、使者が大和王権からの人間とした場合、「夷邪久国」やその国で使われている「布甲」など知り得たのか、という疑問も湧く。

・返書の紛失・・・書紀の推古紀16年条の6月、「小野妹子は隋から隋国使・裴世清らと帰ってくる途中、百済で百済人によって皇帝の返書を強奪された」と記すが、それにしては同じ条の8月に裴世清は都入りし、倭国王の前で持参した国書を読み上げているのは不可解。妹子の貰って来た皇帝の返書とこの裴世清が読み上げた国書とは別物なのだろうか。



 
 付・<流求国伝>

・所在地・・・建安郡の東、水行5日で到る。今日の沖縄、すなわち旧「琉球国」を指している。
          (注:建安郡は今日の福建省)

・王制と組織・・・王の姓は「歓斯氏」。名は「渇刺兜」。その王となった由来や代数などは不明である。民は王を「可老羊」と呼んでいる。妻は「多抜荼」。王宮は「波羅檀洞」にあり、三重の柵で囲まれ、周りを水が巡っている。
 国全体には5人ほどの「」がいて、それぞれの洞を支配している。各村には「鳥了帥」がいるが、戦いに強い者が就任している。
歓斯氏=カンシ・シ。 渇刺兜=カシト。これは「頭(かしら)」の意味だろう。 可老羊=カロウヤン。これは「仮親(かりうや)と考えられる。民からみると自分の本当の親に対して、国王は国という擬制組織上の仮の親に他ならない。 多抜荼=タバト。 波羅檀洞=ハラダンドウ。ハラは「原」であろう。檀は他の洞よりも高い地位にあることを示す意味でその洞の前に付けたもの。「琉球国最高王位者の住む洞」という意味になる。また「洞」は風土を描いた中で
「土、山洞多し」(国土には山の洞が多い)とあるように、隆起石灰岩質の沖縄島の特徴であり今日でも「御嶽(うたき)」という聖地がかなり残っているが、そのような場所が王宮の所在地でもあった。 =スイ。最高国主の歓斯氏に任命された準国王クラスの各地の豪族。 鳥了帥=チョウリョウスイ。村を琉球語でチョウリョウと言ったのだろうか?不明である。ただ私見ではこの「鳥」は「烏(ウ)」の誤記で、「烏了帥」すなわち「ウラウスイ」のことだと思う。それだと「浦襲い」で、村々(浦々)を治める意味となる。今日も残っている「浦添」という地名の語源ではないだろうか。

・風土・風俗・・・前出のように、山洞の多い土地柄であり、植物で珍しいのがひげ根を垂らしたガジュマルである。刀や矛などの武器は有るが、鉄が少ないので、剣の刃は薄く、鹿や牛の角を用いている。戦いにはそれぞれの陣営から勇者が3〜4人出て決着をつける。負けた方が陳謝の使者を送って和解する。戦闘で死んだ者を全員で食べ、その髑髏を王宮に差し出す。王宮では室内の壁の下にそのような髑髏を集めて「佳し」とする風習がある。また各家では、門や戸の上に必ず獣の頭や骨・角などを乗せている。
 人は深い目と長い鼻をしており、非常に胡人に似ている。男子はあらゆる毛、ひげを抜いてしまう。また婦人は手の甲に入れ墨を施している。舞踊の時、ひとりが歌い出すと皆が唱和するが、音色はとても哀調を帯びている。婦人は両手を上げ、手をゆらゆらさせながら舞う。
 山や海の神に仕え、祭るときに酒肴を供える。また戦闘などで人が死ぬと、その使者を神として祭る。

・同時代史・・・大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛(シュカン)に命じて東海の異俗を探らせた。流求国にいたり、その国人をひとり捕らえて連れ帰った。
 翌大業4年(608)、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせたが、流求は拒絶した。朱寛は「布甲」を持ち帰ったが、それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは夷邪久国人が用いている物です」と答えた。煬帝は、今度は武将の陳稜(チンリョウ)と張鎮州(チョウチンシュウ)に義安港からの出兵を命じ、流求を討たせた。一緒に連れて行った南方諸国人のうち崑崙人が流求語を解したので、宣撫させたがやはり流求は従わなかったので、攻めて王宮を焼き、数千人を捕虜として連行した。
大業4年(608)=推古紀によれば、この年に隋からの使者・裴世清(隋書では裴清)を送りがてら、小野妹子が再度の使者として訪問している。したがって布甲について確認をした相手の倭国使は小野妹子であることは間違いない。しかしここでも推古紀が記すように小野妹子が中国名「蘇因高」だったのなら、<倭国使・蘇因高答えていわく>というような書き方がなされてしかるべきではないか、と思う。 崑崙人=南海諸島から印度・東アフリカまでの南方諸族を指す。その中でも海民系種族が漂着して当時の琉球に王国を築いた可能性はあるだろう。その王を土着の民が「可老羊(カロウヤン)」すなわち「仮り親」と呼んだのは、上記の説明に加えて、余所者の王者なので、本当のわれわれの王ではない、つまり<仮の王>の意味も込めてのことかもしれない。



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